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「千冬くん、ほんっとごめん!」
『いいよ。バイクで行けばすぐ着くと思う』

受け付けといえどデスクワークももちろんある。いつもなら勤務時間内に終わる仕事が終わらない、それが月末月初だ。仕方なく会社で使っているパソコンを家に持ち帰り、千冬くんとの約束も仕事が残っているからと断ってまで終わらせたのに…。なんとパソコンごと家に忘れてきてしまった。出社してから気付いた時の絶望感といったらない。変な汗が背中を伝って一瞬思考がフリーズした。あのパソコンがないとなんの仕事もできない。取りに帰らないと、と思い時計を見るが始業時間まではあと10分。今すぐタクシーに飛び乗れば20分程度の遅刻で済む…?と考えて、そういえば家の合鍵を持っている人物が自分以外にもいることを思い出す。そしてその人物は先日から夏休みに突入し、バイトのない日は暇を持て余している、と話していたこともついでに思い出したわたしは慌てて携帯を取り出し電話をかけた。

『会社の前着いたよ』

受付カウンターの下で届いたメールを確認し先輩に断って外に出れば、Tシャツにスキニーパンツを履いたラフな格好で、いかにも暴走族ですって感じのバイクに跨る千冬くんがいた。ビルが立ち並ぶオフィス街では圧倒的に浮いているけれど、そんな姿でさえやっぱり好きだと思うわたしは多分相当やばい。

「暑い中わざわざごめんね、ほんっとにありがとう!」
「いーえ」

千冬くんに駆け寄りパソコンを受け取って、買っておいた冷たいお茶を手渡した。ありがと、と言って受け取りその場でごくごくと一気に半分を飲み干した千冬くんの上下する喉仏と、首筋を流れる汗を見ながら思わず先日の出来事が脳裏に蘇る。寝てる間に…なんて、全くなんてことをしてくれるんだこの子は。わたしの視線に気付いた千冬くんに、なに?と聞かれて慌てて首を左右に振った。

「バイク乗ってるの、初めて見たなあと思って」

バイクの免許を持っているのは知っていたけれど、運転しているところを見るのは初めてだった。いつもは可愛い千冬くんがいかついバイクに乗っている姿が新鮮でついまじまじと見つめてしまうと、千冬くんもわたしをじぃっと見ていることに気付いた。

「俺も、なまえさんが制服着てんの初めて見た」
「あ、そっか」

出社するときは私服で、会社で制服に着替えているからそれは当たり前なんだけど。事務の制服というと、いかにも…なダサいイメージがあるけれど、それなりに大きな会社の受付に立つわたしの制服はグレーのシックなワンピースだ。シンプルなデザインだけど、Aラインのスカートのシルエットが綺麗で気に入っている。首元には夏らしい淡いブルーのスカーフを巻いていて、普段はおろしている髪もきっちりとまとめてある。

「大人っぽいなまえさんってちょっと新鮮かも」
「…それってどういう意味?」

わたしが童顔を気にしていることを知っているくせに。少し怒ったような口調で言ってみれば、千冬くんは「カワイイってこと」と言って、ちゅっ、と小さな音を立てて軽く頬に口付けた。それは一瞬の出来事で、慌ただしく通り過ぎていく人たちは多分誰もわたしたちのことなんて見ていないとは思うけれど。ちょっと!と、慌てて身を引いたわたしに千冬くんは悪戯っぽく笑った。じゃあ、仕事頑張ってねと言ってバイクで走り去って行った彼をぽかんと見送ってから、はっと我に返り慌てて受付に戻った。顔真っ赤だよ、と言う先輩に「外すっごい暑くて」と誤魔化したけれど、にやにやと笑う先輩には誤魔化しきれていなかったと思う。


受付に立って顔に笑顔を貼り付けて、いつも通りの業務をこなす。あと15分で退勤時間だ。昨日家に持ち帰って頑張って終わらせた甲斐あって、今日はなんとか残業せずに帰れそうだった。でも千冬くんは夕方からバイトだと言っていたから今日は会えない。あーあ、早く仕事終わらないかなぁ。あとたったの15分が長い。

「みょうじさん」

どうせもう誰も来ないだろうと、こっそりパンプスを脱いでパソコンで今日の日報を作っていたら頭の上から急に千冬くんの声がして慌てて顔を上げた。千冬くんがわたしを苗字で呼ぶことはないし、こんなところにいるはずもないのに。つまりこの声は、取引先の次期社長である高橋さんのものだ。

「お疲れ様」
「あっ、お疲れ様です」

お疲れ様、と言われて思わずわたしもお疲れ様ですと返してしまったけれどこの人は社内の人ではない。慌てて失礼しました、と頭を下げたら高橋さんは「気にしないで」と小さく笑った。

「あの、このあと予定ってありますか?」
「あ、いえ」
「少しだけお時間もらえませんか?」
「あー…えっと…」

本当は断るべきなんだろうけど「少しだけで良いんですけど…」と、申し訳なさそうに眉を下げて食い下がられてしまった。そのとき近くを通った営業さんの視線が気になってしまい結局断りきれず。退勤後、急いで着替えて会社の前で待っていてくれた高橋さんに駆け寄った。

「お待たせしてすいません!」
「いや、こちらこそ無理にお誘いしてすいません」

じゃあ行きましょうか、そう言って連れて来られたのは駅前のスタバだった。あからさまにホッとしてしまったわたしを見た高橋さんは「本当はお食事にでも誘いたいところですが、今回はこれで我慢します」と、眉を下げて優しく笑った。

「好きなもの選んだくださいね」

デートでもないのに男性に奢られるのは気が引けるが、この状況でわたしが財布を出すのもそれはそれで失礼な気がしたから大人しく奢られることにした。

「あ、じゃあこの限定のフラペチーノにします」
「好きなだけカスタムしてトッピングして良いですよ?」

一応次期社長なんで、と笑う高橋さんにつられてわたしも笑ってしまった。ユーモアもあって気遣いもできて、見た目も申し分ない。それなりに大きな会社の次期社長。正直なんでこの人に恋人がいないのか不思議で仕方がない。そこそこ混み合う店内で端の方の席に向かい合って座った。もちろんわたしが奥のソファ席に座るように促された。こんなところ、営業の誰かに見られたら怒られてしまいそうだな。いや、その前に誤解されちゃうか。

「すいません、いただきます」
「どうぞ」

前から飲みたかった期間限定のフラペチーノは見た目通りの甘さで、1日働いて疲れた体に染み込んでいく。目の前に座る高橋さんはアイスコーヒーが入ったプラスチックカップを小さく傾けたあと、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。

「……みょうじさんの恋人って随分お若いんですね」
「ごほっ」
「すいません、今朝会社の前でたまたま見かけてしまって」

突然投げかけられた言葉に思わず咽せてしまった。今朝、ということはつまり会社の前で頬にキスをされているのを見られてしまっていたわけで…。かぁっと顔に熱が集まる。しかしすぐに高橋さんが話したい内容を察してしまい、今度は顔からサァッと血の気が引くのを感じた。心臓がどきんどきんと大きく鳴り出して、手はじっとりと汗をかき始める。

「みょうじさんに恋人がいるならちゃんと諦めようと思ったんです。でも、やっぱり見かけるたびにいいなって思っちゃうんですよねぇ」
「あ、の…」
「みょうじさんは気付いてないと思いますけど、俺も結構本気なんですよ」

困ったように眉を下げて笑う目の前の男性に、胸が苦しくなる。頼むから、そんな顔で見ないでほしい。たまらず俯くと、いつのまにか膝の上でぎゅっと握り締めていた手の指先が白くなっていた。それをゆっくりとひらくと少しだけ緊張の糸が緩んだような感覚になった。

「なんで、わたしなんでしょうか…」
「この歳になるとなんかいいな、って思う人に出会うこともなかなかないものなんですよ」

高橋さんはわたしより5つ年上で29歳だと言っていた。男性なら働き盛りだろうけど、女性なら結婚して子どもが2人ぐらいいてもおかしない歳だ。

「彼はまだ学生?」
「はい…」
「10代ぐらいにも見えたけど」

その言葉に思わず動揺してしまったわたしを彼は見逃さなかった。「まさか高校生、とか?」と聞かれて、自分がとてつもなく悪いことをしているような気分になった。「まさか」ってそりゃそうだよなあ。まさか高校生と付き合っているなんて普通は思わない。わたしだって数ヶ月前まではそう思っていたんだから。

「えっ、と…あの…」
「はは…まじかぁ、そりゃ若いわ」

否定すれば良かったのに、大学生ですとか言えば良かったのに、できなかった。「大丈夫、誰かに言ったりとかしないから」すぐにそう言ってくれた高橋さんの言葉にホッと胸を撫で下ろした。多分この人は本当に誰にも言わないでいてくれるだろう。そういう人だということはこれまでの言動からも分かる。それでも千冬くんとの約束を破ってしまった、という事実が背中に重くのしかかった。自分から言い出したことなのに、こんな形で破ることになるなんて。

「……結婚とか、ね。みょうじさんはまだ早いと思うかもしれませんけど、彼にはもっともっと先の話だと思いますよ。多分みょうじさんが結婚したいと思うような歳になった頃、彼は人生のすごく楽しい時間を過ごしていて、それが辛くなるときが絶対来る」

高橋さんの言っていることはよく分かる。20歳の頃、わたしもなんでもない毎日がただただ楽しかった。これから先の未来に希望しかなかった。そしてそれはわたしにとっては過ぎ去った過去で、千冬くんにとっては未だ来ていない未来の話だ。

「こんなこと言われてもお節介だと思われるだけかもしれませんけど」
「いえ…」
「俺も、みょうじさんに選ばれたくて必死なんですよ」

目の前の男性は意地悪なこといっぱい言ってすいません、と眉を下げて笑ったが、このときのわたしはどうにか涙を堪えるので必死だった。
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