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家に帰ってすぐ、赤くなった目元を母親に見られたくなくて部屋に閉じこもった。しばらくすると襖を数回ぼすぼすと叩き「千冬ー、夕飯は?」と聞く母の声がいつもより柔らかいことに気付く。いつもはノックなんてしないでスパーンと開けて「千冬!ご飯!」なのに。母親ってすごい。子どものことならなんでもお見通しらしい。正直腹は減ってなかったけれど、俺の好物ばかりが並ぶ食卓を見るとなんだか擽ったくて、でもやっぱり嬉しかった。

もうすぐできるから、という母親の言葉に頷いて食器棚から箸を取り出そうとしたときにピンポーンと聞き慣れた玄関チャイムが鳴った。俺が出る、と母親に告げて玄関を開けるとそこにいたのは思った通り、少し困ったように笑う名前だった。手にはドーナツが入っているであろう長方形の箱。それを掲げて「千冬の好きなの買ってきたんだけど、食べない?」と言った名前の気遣いが痛かった。

「ちょっと出てくる」

帰ったら食うから、と告げると母親は何も言わなかった。団地のすぐ近くにある公園のブランコに座ると金属が上の方でキィ、と鳴った。公園内を見渡して、昔はもっと大きく感じていた遊具が意外と小さいことにふと気付く。「この滑り台ってこんなに小さかったっけ」と話す名前に「俺も今同じこと考えてた」と言おうとしてやめた。

「ごめんね、夕飯前に」
「いや…」
「食べる?」
「ん、もらう」

膝の上で開いた箱を覗き込むと、ドーナツが10個ほど詰め込まれていた。どんだけ買ったんだよ、と思わず呆れてしまう。その中から迷わず取り出されたエンゼルフレンチを薄紙で挟み、はい、と渡された。一口齧り「うまい」と言えば嬉しそうに笑った名前が、小さな声で話し始めた。

「…ちゃんと話してきたよ、三ツ谷くんと」
「うん」
「わたしの気持ちも伝えてきた」
「…うん」

最初から分かっていたことだ。結末がどうなろうと、名前が泣き止んでくれたらそれで良かったんだからと、自分に言い聞かせる。

「それで、千冬にも話したいことがあるんだけど」

聞いてくれる?と俺の顔を不安そうに伺う名前に小さく頷く。本当は、聞きたくなんてなかったけれど。

「千冬がわたしのこと好きって知ったときは、今までの関係が壊れるのが嫌で、なんでそんなこと言うのって思って……ごめん、いっぱい傷付けたよね…」
「別に…お前に傷付けられる程弱くねーし」
「その割に目赤いけど」
「あーもう、うるせーな」
「でも、千冬がいてくれて良かったって思うこと本当にいっぱいあった。辛いときいつも一緒にいてくれて、こんなわたしのことを好きになってくれて、ありがとう」

ブランコから立ち上がり、小さく揺れるそこにドーナツの詰まった箱を置いた。俺の前まで来て目線を合わせるようにしゃがんだ名前が瞬きをするたびに長いまつ毛が頬に影を落とす。ふぅ、と小さく息を吐き出した名前がゆっくりと顔を上げた。

「あのね、」





「わたしも、三谷くんのことずっと好きだった」
「うん」
「多分、三ツ谷くんがわたしの初恋」

そう言って恥ずかしそうに笑った苗字が、静かに目を伏せる。

「でも苗字の1番は俺じゃねぇんだよな」
「……うん。でも2年間、本当に好きだった」
「ん、それ聞けただけで十分」

ありがとな、と苗字の頭に伸ばしかけた手を引っ込める。本当は泣きそうな顔をしている苗字のことをこのまま抱きしめてしまいたかったし、腕の中に閉じ込めて絶対俺の方が幸せにしてやるからって、俺のこと選んでって、言いたかったけれど。

「…泣く?」
「泣かないよ」

苗字は俺のことが初恋だったと言ってくれたけど、多分違うと思う。本人も自覚していなかったんだろうけど。いつも千冬の前ではすぐに泣くくせに結局俺の前では一度も泣かなかったことに、彼女は気付いていただろうか。



帰ろうとしてからバイクの鍵がポケットに入っていないことに気が付き場地の病室に戻ると、見慣れたそれはサイドテーブルに置かれていた。「さっき千冬が落ちてんの気付いて拾ってたわ」と話す場地の言葉にドキッとして鍵を落としてしまうなんて俺らしくもない。ガチャンと音を鳴らして床に落ちた鍵を拾い上げる俺を見ながら場地が楽しそうに笑った。

「なに、名前にフラれた?」
「…うるせーな」
「三ツ谷は勝ち目のない勝負には出ない奴だと思ってた」
「俺も…」

自分でもそう思っていたし、これまでは実際そうだったと思う。苗字の気持ちがもう自分に向いていないことは分かっていた。でも、勝ち目がなかったとしてもほんの少しでも希望があるならそこに賭けてみたかった。

つーか場地から見ても俺に勝ち目なかったのかよ。力なく椅子に腰掛けて項垂れる俺に「こんな三ツ谷初めて見た」と愉快そうに言った場地をちらりと見て溜息を吐く。

「あーくっそ…マジで悔しい…」

もっと早く気持ちを伝えていたら違ったんだろうか。苗字が自分の気持ちに気付く前に言っていれば…。今更そんなことを言っても仕方はないと分かってはいるけれど、やっぱりまだ諦めきれそうにはなかった。

「もしこの先千冬が苗字を手放すことがあったら、そんときは絶対奪いに行く」
「いいじゃん。なんかお前一皮剥けた?」

そう言って笑う場地に釣られて小さく笑った。





「三ツ谷くんと話すのが怖かったのは、自分の気持ちを認めたくなかったからなんだと思う」

「わたしも、千冬が好き」

真っ直ぐに俺を捉えた名前が、ずっとずっと欲しかった言葉を紡いだ。

「…………は?」

たっぷり5秒、間を置いて出てきたのはなんとも間抜けな一言。だって、こんなの、信じられるわけがない。ついさっきまでこの世の終わりみたいな地獄の中にいたはずなのに、名前が俺を好きになることなんてないって思っていたのに。一瞬頭の中が真っ白になって、その直後に色々な考えが脳内を駆け巡る。さっきの言葉は幻聴だと脆弱な俺の脳みそが答え出しかけて、いやいや念のため一度確かめろと別の方から声が飛ぶ。脳内会議は大荒れだった。思考回路はショート寸前、と名前が昔好きだったアニメの主題歌が頭の中に流れ始める始末。

「は…え?なんて?」
「もう言わない」
「ちょっ、だめ、もう一回言って」
「…好き」

その言葉を聞いた瞬間、名前を腕の中に閉じ込めていた。確かめるように力一杯抱きしめると「苦しい」と言われたけれど、背中に回された腕に胸の中が満たされて、想いが溢れてくる。

「俺も好き」
「うん」
「ガキん頃から、ずっと好きだった」
「うん、ありがとう」
「今ちょっと泣きそう」
「ふふ、泣いていいよ」

くすくすと笑う名前の薄い肩に額を押し付けると優しく頭を撫でられた。その手を握って少しだけ身体を離すと、静かに目を瞑った名前の唇に自分のそれを重ねる。

「もう一回していい?」
「…そういうの、聞かなくていいから」

顔を真っ赤にして恥ずかしそうに視線を逸らす名前の頬に両手を添えて、もう一度確かめるようにキスをした。

「千冬」
「ん?」
「これからもよろしくね」
「…末永く?」
「プロポーズじゃん」
「うん」

ふわふわと浮ついて、地に足がつかない。幸せすぎて怖いとすら思った。

「俺、この先の人生も名前以外好きになれる気しねーから」
「えー本当かなぁ」

でもそうなったら嬉しい、そう言って目尻を下げて幸せそうに笑った名前ともう一度唇を重ね合った。
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