【城壁にて】


馬首をめぐらせ、張遼は後ろを振り返る。

「遅いぞ、臧覇」
「急に競争しだす奴がいるか、先に言え」

呼ばれた男は苦笑を浮かべながら、張遼がたてた土煙をくぐってやれやれと隣に馬をならべる。

「お前が負けても言い訳できるようにしてやったんだ」
「…お前のそのびょんびょんに跳ねまわってる髪はきっと、生意気さかげんの具現化なんだろうなあ」
「…きこえているぞ」

睨むととぼけたように笑われる。

よく晴れていて、気持ちのいい青空だった。すこし遠くに城が見える。
秋の空ははるかに高く、上空の強い風に雲がとぶように流れてゆく。
空気は水っぽいような埃っぽいような、季節独特のにおいがする。吸い込むと、鼻の奥がつんと冷えた。
もうじき、

「雪が降りそうだな、そろそろ」
「…ああ」

思考の続きに臧覇の声が被ってきた。

この季節になると変に胸がざわつき、やっかいなことに締め付けられるような痛みまでともなう。
前のあるじである呂布の終わり。あのときの記憶は普段はなりをひそめ、まるで表に出てくる事はないのだが、空気が冷え、冬の気配を感じはじめると、沈み込んでいたそれらはうごめきはじめる。
すでに条件反射の域だ。
だけれど、思い出し懐かしむ、といった温かな記憶でもないので、正直なところもてあましてもいた。
それには、閉じ込めておきたい彼に対する青い感情をも想起させるから、という理由もあるのだが。

言ったきりお互いに黙ってしまい、なんとなく城壁へと目を向ける。
ぎくり、とした。

城壁から何かがぶらさがっている。逆光でよく見えないが、大きなもの。
強い風にあおられて、ばたばたと布がひるがえる。あの日のように。
そんなはずはない。ここはあの城じゃない。もう彼はいない。あれから何年もたった。
手足が冷たくなる。のどが渇く。からだから力が抜けず、全身がこわばる。

「…大丈夫か、張遼」

動けずにその一点を見つめ続けていると、いつのまにか臧覇がすぐ隣にいた。温かな手が、手綱を握り締めて白くなっていた張遼の手にかさなる。いつのまにか震えていたらしい。
もう一度大丈夫か、と尋ねてから、

「あれは軍旗だ」

ぎこちなく向き直る張遼に、臧覇は微笑んだ。
「支柱が折れたかな。行ってみるか」



「よい、しょっと」

2人がかりで重い布を引き上げる。臧覇が言ったとおり、それは軍旗だった。
強い風に負けたのか、支えていた棒はまっぷたつに折れ、かろうじて繋がっている。

「幽霊の、正体見たり…ってな。いやあ、お前のあの顔」
「うるさい」

やっと調子を取り戻した張遼を臧覇がからかう。
正体を知り、思った以上に安堵している自分が情けなく恥ずかしく、張遼はぶっきらぼうな態度しかとることができない。
それでも異常だった自分の態度に何も言わず、からかってくれたからこそすぐにいつも通りに戻れたのかもしれない。にやにや意地の悪い笑みを浮かべるその顔は、むかつくが。

「いいからちゃんとそっちを持…って、うわっ」

照れ隠しにぐいと勢いよく軍旗を引くと、足元にたわんでいた部分に足をとられた。張遼の体勢が大きく崩れる。

「うおっ?」

同じ布の端を持っていた臧覇も、急に引かれて張遼の上に倒れ込んだ。胸当てがぶつかって、がちゃんと音を立てる。
まぬけさをからかうように、軍旗がふたりの上にばさりと落ちた。

「あ〜いたた、なにやってんの、おまえ」
「う、うるさい」

光をさえぎる布のせいで急に暗くなった視界の中、張遼は打ちつけた背をさすろうと上体を起こしかけたが、ものすごく間近に臧覇の息を感じてぎくりと止まる。がちゃん、とまた胸当てが鳴った。

「…どけ、よ、臧覇」

声がすこし掠れた。
何故だかそのまま動こうとしない巨体に焦れ、押し返そうとしたとき。

「なあ、張遼」
「なんだ」

真剣な声が降ってくる。 

「なんかこう、呂布殿になあ、言いたいこととか、したいこととか…あったか?」

ひとことひとこと、確かめるように言う臧覇の真意が見えず、張遼は首をかしげてみせる。

「このくらいの季節になると、お前、よく辛そうな顔してるから」

足元の布のすきまから、灰色の城壁が見えた。臧覇の顔はよく見えない。

「忘れられないのかと、気になっていてな」

すぐに条件反射になっている切なさのことだと思い当たった。

「お前があのひとに、主従というだけじゃない想いを寄せているのはなんとなく気付いてたんだ。お前の視線をたどると、いつも先にあのひとが居た」

言いにくそうに、それでもしっかりと紡がれた言葉に、かっと顔が熱くなる。
戦のなかで、彼ならこの局面でどう出るだろうと考えることはひんぱんにある。魏に、曹操のもとに降って、数ある武将たちを見てきた今でも。
それくらい、彼の存在は張遼の深いところにまで根をおろしている。

かつてのあるじに対する想いが、恋慕のそれだったのかはいまだによくわからない。
だが、ひたすら一途な感情を彼に向けていたことは確かだ。
だからこそ、それを指摘されては落ち着いていられない。


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