バスに揺られながら凛々は考えていた。
一体なぜ、私はこの人と隣り合って座って、同じ場所へ向かっているのだろうか…。
「へー、烏野に行ったんだ。凛々ちゃんはてっきりウシワカちゃんと同じ白鳥沢に行くんだと思ってたよ」
「…あのすみません、近いんですけど。あっちの席空いてるんだからそっち座りませんか」
「えー、なんで? いいじゃない、俺と凛々ちゃんの仲でしょ」
「そんな仲になった記憶ないです近いです離れてください」
何故か青葉城西の正セッター、及川徹と会ってしまったのがつい先ほどのこと。支払を終えてさっさと逃げようとしたが、青葉城西行きのバスを待っている間に追いつかれてしまったのだ。
及川が一方的に話した経緯によると、授業中に足を捻ってしまい、念のために診察に訪れたと言う。大したことはないとのことだったので練習試合には出ると言うが、凛々にとってそんなことは割とどうでもいい。凛々に対してやけに密着してきて、セクハラとも言えるようなスキンシップを取ってくるのが一番の問題な訳で。現在も窓際に座る凛々に不必要なほど距離を詰めてきて、やけに顔を近づけて話してくる。
「もしかして、まだ昔のこと怒ってる?」
「怒ってませんし何のことかわかりませんし」
「あの時はごめんって! まだガキで余裕なくて、周りが見えてなかったんだよ〜。今の及川さんはオトナだからねっ」
「だから怒ってないですし気にしてもいませんしそもそも何のことかわかりませんから」
棒読みで矢継ぎ早に言葉を発しやり過ごそうとしているが、及川の言っていることが何のことか、本当はよくわかっている。そのことから自分は及川が苦手になったし、この女ったらしの顔の裏に恐怖すら感じるようになったのだ。
* * *
今から4年前、凛々がまだ中学に上がる前のこと。中学2年生で既にエースとして八面六臂の活躍を遂げていた幼馴染、若利の試合を見に、大会の会場へ訪れた時のことだった。会場までの道を間違えて本来着く時間より大幅に遅れてしまい、凛々が会場の体育館に到着した時には白鳥沢はもう一試合目を終えていた。やってしまったと思いながらギャラリー席に向かうと、ユニフォーム姿の若利が試合を見ていた。
「若ちゃん!」
「凛々、遅かったな」
「わたし方向音痴だから道間違っちゃって…。一試合目終わっちゃったよね、二試合目はどことやるの?」
「この試合で勝った方と戦う」
若利の隣に立って真下のコートを見下ろすと、丁度1セット目の終盤に差し迫っていた。どうやら、青と白のユニフォームを着た方、北川第一中学が優勢らしい。
「北川第一って、去年の一年生大会で戦ったとこだっけ」
「ああ。それ以外にも、何度か試合をしている」
北川第一がスパイクを決め、マッチポイントに差し掛かる。セッターらしき選手がサーブのためボールを受け取ると、向かいのギャラリー席の女子から黄色い歓声が轟いた。セッターは笑顔で女子に手を振っている。
「うわ、人気者だなー」
凛々がそんなことを呟くと、サーブ前にセッターがこちらを見た。恐らく、見ていたのは凛々ではなく、若利の方だったのだろう。しかし―――
「!!」
凛々はその視線から逃れようと、若利の背中に隠れた。その大きな背中の裏で、必死に息を殺しているとホイッスルの音が鳴り、サーブを打った音が響いた。恐る恐るコートを覗くと、サービスエースを決めたらしく1セット目が終わっていた。
「どうした、凛々」
「…なんでもない」
あの眼。敵意だとか、妬みだとか、闘争心だとか、憎悪だとかをめちゃくちゃに混ぜたような、あの眼。それが自分に向けられたものではないと知っていても、凛々には何故だかとても恐ろしく感じたのだ。あんな眼で見られて、どうして若利は平気なのか。そんなことを考えながら、2セット目に入る試合を見ていた。
その後、白鳥沢と北川第一の試合が行われ、結果は白鳥沢のストレート勝ちだった。しかし、北川第一の実力も相当なもの。特に、あのセッターの力はとてつもないものがあると思った。チームスポーツであるバレーボールにとって、チームの力を引き出すことのできるセッターの存在は強い。だが、今日の若利はかなり調子が良かった。セッターの力で築いたチーム力を、ねじ伏せてしまうほど。
(それに、あのセッター何か焦ってたみたいに見えたな…。サーブミスも多かったし、勿体ないなぁ)
体育館の外にある自販機でジュースを買いながら、凛々はそんなことを思っていた。ガコンと音を立てて出てきた缶を取り出し、踵を返そうとする。
「こんにちは」
すると、振り返ったすぐそこに件のセッターが立っていた。近くで見るとなかなかにイケメンだと思いながら、凛々は小さく会釈する。この人も自販機を使いたいのだろう、と思って自販機前から離れようとした、その時だった。
「ねえ、君。ウシワカちゃんの知り合い?」
「ウシワカ? 若ちゃ…牛島若利のことですか。一応、幼馴染ですけど…」
外で若ちゃんと呼ばれると妙に機嫌を悪くする若利のため、あだ名呼びからフルネームに言い換えた。が、ウシワカちゃんなどと呼ばれてるなら若ちゃんでもいいじゃないか、と思う。目の前の男はじりじりと凛々に距離を詰めてくきて、凛々は一歩後ずさりし自販機を背にした。
「へぇ。じゃあ君に聞けばわかるかな」
「なにが…」
やけに静かな外の空間に、ドンッ!と大きな音が響く。セッターの手が、凛々の顔の真横を通って自販機に突いていた。男は思わず身をすくませる凛々に顔を近づけて、先ほどギャラリー席の若利を見たのと同じ視線を凛々に向ける。
「ねえ、どういう風に育てば、ああいう天才になれるわけ?」
蛇に睨まれた蛙とはこのことか、凛々は喉を絞められたような感覚がして声が出なかった。目の前の男は、構わず凛々に言葉を投げつける。
「教えてよ、ねえ」
頭の中で逃げ道を探しながら、身体は全く言うことを聞かなかった。足は動かない、手は震えて使い物にならない。助けを求めようにも、声は出ない。恐ろしいほどの視線に苛まれながら、この眼に射殺されるのではないかと本気で思った。その時だった。
「及川ー!!」
快活な声が聞こえて、目の前の男の様子が変わった。2人から少し離れたところにある階段の上に、北川第一のジャージを着た男が立っている。どうやら声の主はこの男のようだ。
「何してんだクソ及川! 集合するぞ!」
「はーい、今行くよ」
「次に大会でナンパしてたらブッ飛ばすかんな」
凛々の逃げ場を塞いでいた手が退き、目の前の男も去って行った。去り際に一瞬、凛々のことを見たが、何か言葉を発するでもなくそのまま体育館の中へと消えていく。力が抜けた凛々はズルズルとその場にへたり込んでしまい、震えの止まらない手を同じように震えた手で押さえる。鞄の中の携帯電話が若利の着信によって鳴るまで、その場から動くことができなかった。
後に、この時の男の名前を知ることになるのだが、凛々には確固たる恐怖だけが残った。
* * *
『次はー青葉城西高等学校前ー』
バスのアナウンスがなり、間もなく青城に着こうとしている。ようやく及川のマシンガントークと密着から逃れられると安心したのもつかの間、及川が凛々の手を掴んできた。
「さ、行こうか!」
「…は?」
「練習試合を見に来たんでしょ? 体育館まで案内してあげるよ」
「いやいらないですし自分で勝手に向かいますしっていうか離してくださいお願いします」
「もー、遠慮しなくていいのに。あ、着いたよ。さあ行こう!」
「いやだからちょっとぉぉぉぉぉ!!」
凛々の悲鳴などお構いなしの及川に拉致されながら、凛々はバスを降りて青城に足を踏み入れた。
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