エネココア・カンタータ


Schweigt stille, plaudert nicht
『おしゃべりはやめて、お静かに』










 そもそものきっかけは、一カ月ほど前のこと。イッシュを出てから各地方を巡っていたエルとマーシャは、ある日ふと思い立ってアローラ地方、メレメレ島のハウオリシティへとやってきた。ハウオリシティに降り立ってまずはじめに仕事を探すことにしたエルは、仕事の斡旋をしているであろう市役所へと向かった。


「仕事はないかって? お姉さん、ここに来る前はなにしてたの?」


「えーっと、食堂とかカフェとか、あとホウエンではラーメン屋とかで働いてたよ。マーシャと一緒にね」


「ぐぅ!」


「あ、それだったらいいところがあるよ! ハウオリのポケモンセンターに行ってごらん!」


「ポケモンセンター?」


 人当たりのよさそうな役所のおじさんに紹介され、エルとマーシャはポケモンセンターへと向かった。そこで驚いたのは、アローラではポケモンセンターにカフェが常設しており、人とポケモンの憩いの場になっているということであった。ポケモンセンターといえばトレーナーの場所、という印象を抱いていたエルにとって、このことはなかなかのカルチャーショックであった。


「いやぁ、ちょうど前のバイトが他の地方に行くってことで辞めちゃってねぇ。エルさんがここで働いてくれるんだったら、願ったり叶ったりなんだけど……」


「いやいや、むしろこっちが願ったり叶ったりですって! わたし、世界で一番エネココアを淹れるのが上手いと自負してますから!」


「きゅあん!」


 こうして事は円滑に運び、エルはポケモンセンターに常設するカフェで働くこととなった。最初はアローラ地方特有の食文化やルールなどに手間取ることもあったが、これまで各地方の様々な食堂やカフェで働いていたノウハウが活きたのかエルは順調に仕事に慣れていき、周囲からの評判も上々であったと自負していた。
 ところがある日、問題が発生する。エルのパートナーであるマーシャはエルの仕事を助けるために、ジグザグマの特性『ものひろい』を活かして、パイルジュースの原材料であるパイルのみなどを拾ってきてくれていたのだが、きのみを探している最中にトレーナーズスクールの生徒に見つかったのだ。


「え、なにあのポケモン!? この辺じゃ見かけないよね!?」


「捕まえて先生に見せてみようぜ! いけ、ヤングース!」


「ぐ!?」


 マーシャを野生のポケモンと勘違いしたホープトレーナーたちは、マーシャを捕まえようと手持ちのポケモンを出し、マーシャに攻撃を仕掛けてきたのだ。マーシャは慌ててエルのいるポケモンセンターまで逃げたが、トレーナーたちと手持ちのヤングースはマーシャを追いかけてきた。


「ぐ〜!!」


「マーシャ、おかえ……ってどうしたの!? 野生のポケモンに襲われたの!?」


「あそこだ! ヤングース、いけっ!」


 マーシャがエルのもとに逃げ込むと同時に、トレーナーが繰り出したヤングースがマーシャに襲い掛かろうとした。そこで、エルの理性がプッツンと切れてしまった。


「ヤングース、そこで止まれッ!!!」


「ギャッ……!?」


 いきなり怒鳴りつけられたヤングースは、エルの鋭く光る赤い瞳に気圧されて、咄嗟に足を止めた。エルは震えるマーシャを抱き上げると、ヤングースを通り過ぎて2人のトレーナーたちのもとへ向かう。


「わたしのマーシャに何の用?」


「え……! あ、あの、野生のポケモンだと思って、その……」


「こんなに可愛くて毛並みのいい野生のジグザグマがいるか、ドアホッ!!! わたしのマーシャに手ェ出そうとするヤツはなァ、たとえ子供だろうが王族だろうが世界のために戦う英雄だろうが、絶対に許さねえと相場が決まってんだよ!!! ガキどもそこになおれ、お灸をすえてやる!!!」


「「ご、ごめんなさいーっ!!!」」


 一度怒りに火がついてしまったエルは、マーシャが止めようとしてもなかなか落ち着くことができず、よりにもよってポケモンセンターの前で2人のトレーナー(とヤングース)に説教をかましてしまった。
 騒ぎを聞きつけてやってきたカフェの店長や、トレーナーズスクールの先生、更にはハウオリ交番の駐在が止めに入り、トレーナーが泣きながら謝ったところで、エルはようやく平静さを取り戻した。プライベート時ならまだしも就業中だったこともあり、客商売でこのことが問題にならないはずがなく、エルは危うくクビになりかけるところであった。


「あのね、エルさん。私も君をクビにするのは忍びないんだけど、あれ以来『あの店員さんが怖いから』ってトレーナーズスクールの子たちがカフェに来なくて、ウチの業績も下がってるワケだよ」


「うっ……」


「だけど、カンタイの本社が君にチャンスをくれるって、ウラウラ島にあるポータウンのカフェでの勤務を君に任せようって言ってくれてね。そういうわけだから、来週からポータウンのカフェに出勤してね。ハイ、これ地図」


「マジですか、ありがとうございます店長! …あれ、今『ウラウラ島』って言った?」


「言った言った。君、確かライドギア持ってないでしょ? 観光客向けのリザードンタクシー紹介してあげるから、それに乗って行くといいよ。じゃあ頑張ってね、ここへは二度と戻ってこなくていいから」


 疲れ切った顔の店長に投げやりに地図とリザードンタクシーの連絡先、それから手紙を渡され、エルはハウオリのカフェを追い出された。エルとマーシャがあの荒れ果てた街、ポータウンへやってきたのは、このような経緯からである。



* * *



「よいしょっと」


 散乱する窓ガラスや落書き跡を乗り越え、エルはポータウンに唯一のポケモンセンターへと辿り着いた。扉を開けようとするが、タッチ式の自動ドアがいくら試しても開くことがない。どうやら電気が通っていないようだ。


「あーもう、こういう時にシビルドンがいてくれたらなあ」


「ぐぅ……」


「ん? ああ、マーシャがダメって言ってるんじゃないんだよ? むしろマーシャがいなかったら私の心が死んでるから!」


「きゅう〜」


「こうなりゃ仕方ない、よいしょっと!」


 エルは仕方なしに、自動ドアの僅かな隙間に指を入れ、手動で扉を開けた。ロックは掛かっていなかったのか、それとも普段から出入りしているのか、扉は簡単に開けることができた。
 ポケモンセンターの中も、街と同様に凄まじい荒れ様だった。あちこちに空き瓶や空き缶が転がっており、人の姿もポケモンの姿も見当たらない。エルが働くはずのカフェも、看板やメニューボードに落書きがされ、カウンターには埃が溜まっている。
 エルは荷物をその辺りに置き、パーカーの中に入っていたマーシャを下ろした。マーシャはぴょんっとカウンターの上にジャンプして、カウンターの埃を尻尾で払って掃除を始める。エルはその様子に笑って、自身はバックヤードを覗いてみた。


「あれ、外があんな様子だからどんなもんかと思ったけど、水回りは案外キレイだね」


「きゅあ?」


「もしかしたら、誰かが定期的に使ってるのかも。それにしたって、もうちょっと掃除しろって話だけど」


「そいつは無理な相談だなァ!」


 背後から聞こえてきた声に、マーシャが驚いてエルの背中に隠れた。
 振り返ってみると、先ほどエルたちが入ってきた入口のところに、背の高い男が立っていた。髪を白く染め、黒い服に目立つ金色のネックレスとサングラスをしたその男は、肩をいからせながら大股でエルのもとへと近づいてくる。


「ウチのバカどもはこのオレさまに似て、モノを丁重に扱うなんて芸当できねえからよ。手にしたモノは全部ブッ壊してやりたくなるんだよ!」


「…どちらさま?」


「人に名前を聞く前に、まず自分から名乗るモンだろ? 礼儀のなってねえヤツだな」


 一歩進むごとに足元に転がるゴミを蹴り飛ばしている男に、エルはやれやれと息を吐いた。よくよく見てみれば、入り口から見えるポケモンセンターの外に、目の前の男と似たような服を着た少年たちが立っている。どうやら、この街に居ついている不良集団のようだった。


「わたしはエル。今日からこのカフェで働くことになったモノだよ」


「はぁ?」


「そんで、こっちはわたしのパートナーのマーシャ。で、キミの名前は?」


 怯えるマーシャを安心させるように優しく撫でながら、男に向かって自己紹介をすると、男は一瞬わけがわからないといったような表情を見せ、そして堰を切ったように笑い始めた。明らかに嘲笑の意味が込められた笑い声に、エルは居心地の悪さを感じて眉を寄せる。


「お前、本気で言ってんのか!? だとしたら相当ブッ壊れてんな!」


「本気も本気、そういう指示なんだよ。で、キミの名前はって」


「このポケモンセンターが通常営業なんてできてると思ってんのか!? オレたちスカル団にビビって、誰もこの街に近寄りゃしねえってのによ! そこのカフェも、お前のほかに店員なんざ誰もいねえよ!」


 あくまでエルの問いに答えることなく笑い続ける男に、とうとう痺れを切らしたエルが男の前へと向き直った。ニヤニヤと悪どい笑みを浮かべながらエルを見下ろしてくる男に向かって、エルはビシッと指を指した。


「だ・か・ら! 名前はって聞いてんだよ、このタコ! わたしは自己紹介したんだから、アンタも自己紹介しろっての!」


「なッ…タコだぁ!? このアマ、オレさまにむかって…!」


「で、名前は!? 言葉わかるか、にーちゃん!?」


 挑発的に片眉を上げるエルを、男は苛立ちを隠しもせずに思いっきり睨みつけた。しかし案外律儀な性分なのか、エルの質問にはしっかりと答える。


「よく聞け、オレさまの名前はグズマ! スカル団のボス、グズマさまだ! しっかり覚えとけ、このクソ女!」


「へえ、グズマか。いい名前じゃないの。それで、ご注文は?」


「……あ゛?」


 グズマ、と名乗った男はエルの言っている意味を理解できず、思わず首をかしげた。エルは背中にしがみついていたマーシャを抱き上げ、自分の肩に乗せてやる。マーシャはそのつぶらな瞳で、伺うようにグズマを見た。


「見るからに使えなさそうなポケモンセンター、空っぽのフレンドリィショップ、それから使われてる形跡のあるカフェ。この中でキミが用がありそうなのは、カフェぐらいなモンでしょ? なんか飲みたいモンでもあったから来たんじゃないの?」


「だから何だよ、テメエには関係な……」


「関係ないこたぁないでしょ、お客さんをもてなすのがカフェの店員の仕事なんだから。それで、ご注文は?」


 グズマはエルの質問には答えず、むしろ奇妙なものを見るかのような眼でエルを見下ろす。この状況でグズマをもてなそうとしているエルの行動が、全く理解できないようだった。エルは仕方なしにグズマのそばに寄って、彼が纏っている匂いを嗅いだ。


「ははーん、グズマはエネココアがお好きか?」


「なッ…!?」


「エネココアは香りが強いからね、服にも香りが映るんだよ。匂いを消したきゃ、洗濯の時に洗剤をもう一杯入れときゃいいよ」


 エルの指摘が図星だったのか、グズマは慌てて自分が羽織っている黒いジャージの匂いを嗅ぎだす。その反応を見るからに、図体が大きいだけのまだ年若い少年のようだった。
 エルは肩に乗るマーシャに目で合図をすると、マーシャは「ぐ!」と一鳴きして肩から降り、カウンター下に置かれていたエルのトランクケースを器用に開けた。
 トランクケースの中には数枚の服、ツボツボ形の小さなジューサー、そして布に包まれた酒瓶が入っていた。酒瓶の中にはたくさんのラムのみが漬けられている。エルはその酒瓶を手に取ると、マーシャと一緒にカフェのバックヤードへと入った。


「そこで待ってなよ、グズマ。どうせ今までココアパウダーにお湯を入れただけの、やっすいエネココアしか飲んだことないでしょ?」


「あ゛ぁ……?」


「わたしが本物のエネココアってヤツを飲ませてやる」


 不敵に笑ってウインクするエルに、グズマは訳がわからないとでも言うように眉を寄せた。



* * *



 エルはまずはじめに、手をよく洗った。衛生面に気を遣うことは、飲食業の基本である。
 カフェのバックヤードには、ジューサーやコンロなどの調理器具、業務用の特大冷蔵庫が置かれている。冷蔵庫が稼働しているところを見ると、どうやら生きている電源もあるようで、エルは心の底からホッとした。冷蔵庫の中を見てみると、ハウオリのカフェにもあった一通りのドリンクの材料が置いてあった。いくつか賞味期限が切れているものもあるが、エネココアに必要なココアパウダーとモーモーミルクは問題ないようだ。


「材料はココアパウダー大さじ3杯、オハナ産のモーモーミルク200ml、それからエル&マーシャ特製のラムのみを漬けたブランデー!」


「ぐぅっ!」


 必要な材料を準備したエルは、次にミルクパンを2台取り出した。念の為よく洗ってから、そのうち1台のミルクパンを、火をつけたコンロにかけて熱し始める。次に、エネコの可愛らしいイラストがプリントされたパッケージからココアパウダーを大さじ3杯取り、熱したミルクパンに落として軽く煎る。甘い香りが漂ってきたら、そこへ少量の水を加えてパウダーをペースト状に練る。
 同時にもう片方のミルクパンにモーモーミルクを注いで弱火で熱し、十分な温度になったモーモーミルクをもう片方のミルクパンに注いだ。ミルクがパウダーと混ざり合い、辺り一帯に湯気とココアの香りが広がっていく。


「あんまり温め過ぎると、せっかくの香りが死んじゃうからね。この辺かな〜」


 エルはココアが沸騰する前に火を止め、最後の仕上げにトランクケースから取り出した酒瓶に入っている、ラムのみを漬けたブランデーを小さじ1杯分ほど入れる。一度だけぐるりとかき混ぜてから、棚から取り出したエネコの柄入りのマグカップにココアを注いで、エネココアの完成だ。


「ああっ、わたしってホントにエネココア淹れる天才だなぁ! 我ながらめっちゃ美味そうだもん!」


「きゅ〜」


「おっと、冷める前にグズマに飲ませてあげないとね。お待たせしました、お客さ…ってなんで増えてんの?」


 エルがエネココアを持ってカウンターへ顔を出すと、何故かグズマの後ろに何人ものマスクを付けた少年たちがいて、目を輝かせながらバックヤードの方を覗き込んでいた。どうやら、エネココアの香りにつられてやってきたらしく、グズマがうざったそうに手で追い払おうとしている。


「はぁ〜…めっちゃいい匂いするじゃないでスカ…お腹空いてきた…」


「グズマさんだけずりーっスよー! オレらもエネココア飲みたいっスー!」


「うるせえ、ブッ壊すぞ! 第一、俺が飲みたいって言ったんじゃなくて、あの女が無理やり……!」


「なんだ、いらないの? せっかく渾身の出来なのに、それじゃあそっちの子にあげよっかな〜」


「だァーッ!! うるせえな、飲めばいいんだろ、飲めば!」


 グズマはエルからエネココアを乱暴に奪い取ると、フーフーと息を吹いて冷ましてからエネココアを口にする。


「!?」


 その瞬間、グズマの眼つきが変わった。それまで苛立ちからか、忙しなく揺すられていた脚がピタリと止まり、ごくりと嚥下する喉の動き以外のあらゆる動作が硬直する。後ろにいる少年たちが「あぁ〜いいなぁ〜……」と羨ましそうにグズマを見ている中、グズマは衝撃を受けたような表情で、マグカップから口を離した。


「…………!」


 言葉を探すように口をパクパクと動かすグズマに、後ろの少年たちは不思議そうな表情を浮かべる。エルとマーシャは満足そうに笑ってグズマを見た。


「うッ…! い、いや、悪くはねえな、おう…」


「あっはっは! そう強がらなくてもいいじゃん、おいしいなら『うまい』って言ってよ!」


「うるせえなッ! …な、なんでだ? 前にポケモンセンターのカフェで飲んだ時は、こんなコクのある味してなかったぞ……?」


「ふふん、隠し味にラムのみを漬けたブランデーを入れてるからね! マーシャが拾ってきてくれるラムのみを漬けておくと、味やブランデーの香りはそのままにアルコール臭さが消えて、飲み口がまろやかになるんだよ。エネココアにはピッタリの隠し味ってワケ!」


「ぐぅー!」


 エルの解説を聞いているのか聞いていないのか、グズマは目の前のエネココアの味に集中していた。その代わり、その後ろにいた少年たちが、更に眼を輝かせながらグズマの飲むエネココアを見ている。


「くぅ〜っ、我慢できねー! おねーさんっ、オレらにもエネココアくださーいっ!」


「あ、オレもオレも! オレは特大サイズがいいっスー!」


「ずりーぞオマエ! オレもエネココア飲みてーよー!」


「アハハ、初日から大繁盛だなぁ! 今淹れてきますから、お代を用意して大人しく待ってなさい!」


「「「ハーイ!!!」」」


 不良っぽい見かけに反し、案外子供っぽい性格らしい少年たちの様子に、エルは思わず吹き出しそうになった。バックヤードに戻ったエルは、食器棚から人数分のマグカップを取り出しながら、足元のマーシャに笑いかける。


「マーシャ、案外ここでの生活も面白いものになるかもよ」


「ぐっ、ぐ!」


「アハハ、マーシャもそう思うかぁ! とりあえず、エネココア淹れてあげないとね! モーモーミルク足りるかなぁ?」


 ポータウンのカフェでの勤務初日は、案外忙しいものとなりそうだった。



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