菊ノ呪 1
大会の日の朝は、いつだって気持ちが良い。心地よい緊張を背負いながら、信頼できる仲間と共に闘志を高め合い、真剣勝負の世界に身を投じる。試合中が一番楽しいのは勿論だが、試合前のじりじりとした焦燥と興奮は、何にも代えがたい独特の楽しさを感じる。
「…では、出発しますよ」
「…はい」
なのに、この日ばかりはそんな楽しさは欠片も感じられず、俺にのしかかるのは重々しい重圧と、それから恐怖心。これから俺たちは一体どうなってしまうのか、最悪の結末さえ予感させる不穏さの中、試合会場に向かう為の車が発車した。
バンッ!!!
その時だ、俺が座る後部座席の窓を、外から誰かが凄まじい力で叩いてきたのは。俺はそちらを向くまいと務めたが、眼の端には窓にへばりつく大きな手形が映りこむ。その手は何度も、何度も、車の窓を叩いてきた。
バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンバンッ!!!
それなりのスピードで走っている車の窓に、幾つもの手形が張り付いていく。ぼやけた視界の淵に、窓が赤く薄汚れていくのが見えてしまった。俺はこれ以上何も見ていたくなかったから、ぎゅっと眼を瞑った。
「シネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネシネ」
すると今度は聞くに堪えない悍ましい声が、嫌というほど耳につく。窓越しに聞こえるくぐもったその声は、もはや男のものとも女のものとも思えない、何かしらの異形のものでしかなかった。
「一くん、大丈夫ですか」
「大丈夫っす。これから試合だってのに、こんなモンにビビったらおしまいっすよ」
車を運転する方丈さんの珍しい気遣いに、精いっぱいの強がりで返す。けれど、方丈さんから見えない位置にある膝が、みっともないほどにガクガクと震えていた。そんな俺を嘲笑うかのように、車の外の化け物はゾッとするような声で、ここにいないある男の名を呼ぶ。
「ユルサナイユルサナイユルサナイ」
「オレを裏切ッたアイツヲ絶タイにユルサナイ」
「オいカワトオルを決しテユルサナイ」
「呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル呪ッテヤル」
(…及川、絶対にこの化け物に見つかんなよ。新人戦、一緒に試合すんだからな…!)
ここにはいないダチの無事を祈りながら、俺はその化け物の声に耳を閉ざした。
菊ノ呪 始
事の始まりは、新人戦まで残り1週間前を切った、寒い日のことだ。
「岩泉、もうすぐ大会なんだって? 頑張れよー」
「おう、サンキュ」
「岩泉くん、今度の大会って会場はどこでやるの? 及川くんに差し入れ持って行こうと思うんだけど…」
「白鳥市民体育館。春高県予選の時と同じ会場」
「わかった、ありがとう! どうしよ〜、なに作っていこうかな〜」
「相変わらずモテモテだな、お前んとこの主将」
「あのクソ川の正体知ったら3秒もしないうちに裸足で逃げ出すぜ」
「俺は怪物か何かなの!?」
哀れな及川ファンたちに同情の眼を送っていたら、いつの間にか及川が教室に来ていたらしく、クソ腹立つ顔で俺のところへやってきた。そのまま我が物顔で俺の机に腰かけて、遠巻きの女子たちにヒラヒラと手を振り始める。ブッ飛ばすぞコイツ。
「っつーか、なんでここにいんだよクソ川」
「えー、何も用事なくても親友のクラスに来ちゃダメなワケ?」
「誰だソイツ、酔狂な奴だな」
「岩ちゃんひっど!! さすがの及川さんも傷ついた!!」
「で、何なんだよ、まだるっこしい」
「あ、そうそう。今日の練習、OBチーム来れることになったんだって。だから前に言ってた攻撃のパターン、試そうと思って」
「おう、わかった。頭に入れとく」
どうやらバレーの話をしに来たようだったので、及川の鳩尾にパンチをぶち込もうとした手を止めた。まあ、流石に大会前ともなれば、ファンの女子たちにかまける時間も惜しむヤツだしな。
「はあ〜…。けど、夕莉ちゃんが今度も来れないのは残念だったなぁ。せっかくだから、及川さんと岩ちゃんのカッコイイところ、見せてあげようと思ってたのに」
「考えが邪なんだよ、ボゲ。仕方ねえだろ、来れねえって言ってんだから」
数日前、水無瀬を大会に誘った及川だが、日程と場所を聞いた水無瀬に速攻で「行けません」と一刀両断されていた。正直、水無瀬に俺がバレーをしているところを見られるというのは、何だかこっ恥ずかしい感じもするから、密かにホッとしたのはここだけの話だ。
「それより、今回のリベロはどうする? 監督は渡を試したいだろうけど、あいつはまだリベロに転向したばっかだし」
「新人戦を蔑ろにする気はないけど、優勝しても全国に行くわけじゃないから、試しには持ってこいだと思うよ。渡の負担はデカくなるだろうけど、そこは俺がケアしとくから」
「そっか、今のリベロには俺からフォロー入れとく。それから、今朝試した新しいサインのことだけどよ…」
「ねえねえ、聞いてーっ! 職員室でめっちゃヤバイ話聞いちゃった!」
俺と及川のバレー談義を掻き消す大声を発しながら、クラスメイトの花島(どの学校にも1人はいるゴシップ好きな女子)が教室の中に駆け込んできた。教室内の全員の注目を浴びながら、花島は自分のグループの女子のもとへ真っ先に駆け寄り、やっぱり大声で『ヤバイ話』を話し始める。
「なんか、ウチの学校の男子が死体で見つかったんだって!」
「ええっ!? 嘘でしょ、何ソレ!?」
「マジマジ、職員室通りがかったらめっちゃバタバタしてたもん! 何か、心臓発作か何かで、自分の部屋で死んでるのを見つけたんだって!」
…思っていた何倍も『ヤバイ話』だったその話に、教室が一気にざわついた。バレーのこと以外に関心が無かった俺と及川ですら、苦い表情を浮かべながら顔を見合わせる。
「うえええ…何なのそれ…」
「死んだって、青城の生徒がかよ…。そんな胸糞悪い話、大声ですんなよな…」
「ヤバーイ!」と騒ぐ女子グループの無神経極まりない言動に苦言を呈しつつも、胸の奥から一気に気持ち悪さがこみあげてくる。特に及川は、クリスマスのあの一件で負った傷が癒えていないのもあって、尚更気分が悪そうだった。話の詳細は気になるが、大会前につまらないことでテンションが下がるのもごめんなので、俺と及川は足早にその場から立ち去ろうとした。
「っていうか、誰が死んだの? 何年?」
「2年! ほら、夏ごろにさ、及川くんの盗撮写真売ってるって噂になってた子いるじゃん! あの子!」
「あ、いたいた! 何だっけ、新宮くん?」
が、去り際に聞こえてきたその名前に、及川の脚がピタリと止まった。俺は一瞬、誰の名前だったか思い出すことができなかったが、さぁーっと青ざめていく及川の顔を見て、すぐに思い出した。
新宮。そうだ、あいつだ。電車で寝ていた及川の髪を切り、及川ファンの女子に売っていた、あの卑劣なバド部の2年。及川に対して勝手に友情を抱き、勝手に裏切られた気分になって、勝手に憎んでいた、そんな本心を水無瀬に見破られた、あいつだ。
「新宮って……」
及川の眼が、動揺に揺らいでいる。それを見た俺は咄嗟に、及川のケツを蹴り上げた。「いだぁーっ!?」と叫んで及川が倒れたが、俺は俺で勝手に身体が動いたもので、何で自分がそんなことをしたのかわからなかった。多分、及川を正気に戻したかったんだと思うけれども。
「な、なにすんの、岩ちゃん!?」
「うるせえ、バレーすんぞ。…嫌なことはバレーして忘れるに限る」
「…うん」
立ち上がった及川は、ケツを摩りながら小さな声で「ありがとう」と呟いた。ケツを蹴られて礼を言うとか、馬鹿だなこいつ。でも、要らんことで勝手に気を病むよりは、何百倍もマシだろう。
(…けれど、新宮の奴が死体で見つかったって…一体どういうことだ…?)
そんなことを考えるうちに、部屋の中にぐったりと横たわっている新宮の姿を想像してしまい、ゾッとした。そもそも、あいつには迷惑しか掛けられていないし、良い思い出など1つも無い。それでも、その死を素直に受け止めきれない程度には、俺たちはあいつと切るに切れない関わりを持っている。
(及川の奴が、変に気にしなけりゃいいけどな…)
振り返りもせず体育館に向かう及川の背を、俺は黙って見つめた。見慣れたはずのその背中が、どこか所在なさげに見える。きっと俺と同じように、新宮の変わり果てた姿を想像してしまっているのかもしれない。気を紛らわせるために、もう一発蹴りでもいれようかと思ったその時、背後から聞き慣れた声が聞こえた。
「…キミ、まさか及川くん?」
「え? その声は、先輩?」
振り返ると、珍しく驚いたような表情を浮かべた、オカ研の先輩が立っていた。先輩は俺を素通りすると、及川の方へゆっくりと近づき、ずいっと顔を近づけてくる。急に距離を詰められた及川は、戸惑いながら身を捩った。
「せ、先輩? どうしたんですか?」
「…こりゃ大変だ、すぐに夕莉に知らせないと」
「え…?」
「及川くん、おいで。オカ研の部室に行くよ。岩泉くんも一緒にいた方がいい」
「ちょっ、先輩、どういうことですか?」
先輩といえば、いつもヘラヘラとした笑顔を浮かべて、真面目なのかふざけてるのかよくわからないような人だった。だが今、先輩は深刻そうに眉を寄せ、真剣な眼で及川を見ている。その様子に、俺は何か異様なものを感じつつも、及川の手を引く先輩を止めた。すると先輩は、俺たちにずいっと顔を近づけて、消えてしまいそうなほど小さな声でこう囁いた。
「及川くん。キミ、呪われてるよ」
「え……?」
「それも、シャレにならないくらいの、ヤバいヤツにね」
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