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 小さい頃、私はお隣に住む"まぁくん"が可愛くて可愛くて仕方がなかった。まぁくんは私の三つ年下の男の子で、ふわふわの髪の毛が気持ちよくて、私はそれを撫でるのが大好きだった。
 まぁくんはよく、肌がチクチクするのだとギザギザな歯を食い縛って私に訴えてきた。普段はヤマアラシの如く他人を近づけないような性格をしていて、勝ち気で粗暴なところが目立つようないわゆる問題児だったのに、私にだけは泣きついてくるのだから可愛くないわけがないだろう。

──ちくちくしてからだがいてぇんだ。なまえねーちゃん、なんとかしてよ。

 クラスの子と激しい喧嘩したときの怪我の方が酷かったのに、まぁくんはそのチクチクの方が痛がっていた。私にその痛みはわからなかったけど、私はそれがとんでもなく痛いものだと思っていて、出来ることなら私が何とかしてあげたいと思った。でも病院の先生にだってどうにもできなかったものを、ただの子供である私にどうにかできるわけがない。
 だから私は彼に何でもしてあげたいと思った。私のできることを、私の持ってるものを、何でも分けてあげたかった。でもやっぱり子供の私は何にも持っていなかったから、私より小さな彼の身体を抱きしめて、頭を撫でて、大丈夫だよって伝えることしかできなかったけど──でもそうすれば、まぁくんは笑ってくれた。あの時はただ、それだけでよかったのだ。





「やっほー雅人くん、遊びに来たぞぅ」
「ゲ、なまえ……」
「なんだねーその呼び方はぁ。昔のようになまえおねーちゃんと呼びなさい。もしくはなまえちゃんでも可」
「うるせー」

 ただのお隣さんは、いつしか界境防衛機関である"ボーダー"に入隊し、戦闘員としてめきめきと頭角を表していた。それと同時に私への当たりも強くなり、私のことを呼び捨てで呼ぶようになった。それに伴って、私は彼のことを気軽にまぁくんなどとは呼べなくなってしまったというわけである。だってまぁくんなんて人前で呼んだら、不機嫌になって名前すら呼んでくれなくなっちゃったし。
 ボーダーに戦闘員として加入した彼とは違い、私は現在本部職員として働いている。所属は一応、救護班。元々は戦闘員として入隊したはずだったが、どうやら私にはセンスがなかったらしい。トリオンは人より少ないし、トリオン体とはいえ人に攻撃することができないとわかって、すぐに自ら転向願いを出した。そこでオペレーターにならなかったのは大学の専攻が関係しているのだが──まあ、これはどうでも良い話かな。
 雅人くんの話をしよう。雅人くんは、私がただの本部職員として燻っている間に、部隊を組んでA級まで昇り詰めていた。しかしつい先日、不祥事を起こして降格処分を下されてしまい、再度B級からのスタートとなってしまったとのことだった。雅人くんたちは現在B級専用の作戦室への引っ越しの最中で、もうすぐ別れを告げなければならない元作戦室は段ボールで溢れかえっている。おそらく全てヒカリンの私物だろう。

「あ、なまえさんひさしぶりー」
「ゾエくんこんにちはぁ。元気だった?」
「うーん、ぼちぼちかなぁ。最近忙しかったからお疲れなんだよね」
「あはは、まあそうだよねぇ」

 私の言葉に雅人くんはぎろりと目を光らせる。おおこわい。別に君のことを責めてるわけじゃないのにね。

「手伝おっか〜?」
「いいよいいよ、なまえさんもお仕事あるでしょ?」
「今日はもう業務終了で〜す。だからお手伝いできるよぉ」
「仕事ねーならさっさと帰れ」

 雅人くんがしっしっ、と虫を払うかのような動きをしたもんだから、私は思わずゾエくんに泣きついた。雅人くんが冷たいよぉ〜と言えば、ゾエくんは優しくよしよししてくれる。さすが、あの来間くんと並ぶほどの菩薩と呼ばれているだけはある。かつて雅人くんと八度に渡るタイマン勝負をしたとは到底思えない。
 しかしゾエくんの優しさに、私はいつもずっぷりと浸かることができないのだ。ゾエくんは私より年下だし、何よりが私にそうさせてくれない。

「だからお前、さっさと家帰れつってんだろ」
「ぐぇっ」
「ちょっ、カゲ、締まってる締まってる」

 スーツの後ろ襟を掴まれて、ゾエくんから引き剥がされる。そのまま扉の方まで引っ張られると、ぽいっと私の身体は投げ捨てられた。脚がもつれそうになりながらも、私は何とか着地して雅人くんの方を見る。いつものようにイライラを隠さない彼に、私は思わず頭を掻いた。

「邪魔してごめんねぇ」
「わかってんなら来るな。はよ家帰れ」
「あはは、実はまだ帰れないのだー」
「は?仕事終わらせたんじゃねーのかよ」
「仕事は終わらせたけど課題がねぇ、ばーんと残ってまして」
「課題残ってんのに手伝うとか言うんじゃねぇよ」
「あはは、たしかに〜」

 今現在、私は一人では解決できるとは言い難い課題が、それはもうどでかい課題が一つ残っている。同い年の中でもかなり頭の良いてらくんかかざまっちか、それか最終手段で東さんに頭を下げて手伝ってもらわないと片付けれないし帰れない。
 そう伝えると、雅人くんはまた大きな舌打ちをして私を睨んだ。「このバカが、お前なら課題くらい一人でもできるだろ」なんて、貶してるのか褒めてるのかよくわからないお言葉を笑って流す。私の成績がそこそこ良いことを雅人くんは知っている。だって毎度毎度テストのたびに彼の部隊の勉強を見ているのは、この私だからだ。

「でも今回は一人じゃ難しいかなぁ」
「なまえさんがそう言うって、そんなに難しい課題なの?」
「うん。研究室の先生がなーんかヒートアップしちゃってるんだよねぇ」
「へー、何の研究?」
「まぁ簡単に言うと、サイドエフェクトとトリオンの関係ってところかなぁ」
「あれ?なまえさんって医学部じゃなかったっけ」
「そだよ〜トリトン研究室は特別に通わせてもらってるってわけ」

 ──彼のチクチクがサイドエフェクトによるものだと分かったのは、彼が中学に上がってからだ。感情受信体質、周囲の人間の感情が肌を刺すようにわかるサイドエフェクト。それを聞いた時、私はまぁくんが人を近づけないようにしていたのも、クラスの子と激しい喧嘩をした理由もわかった気がした。人の悪意を一身に受けることの辛さを、私は知っている。
 私は彼に何でもしてあげたいと思った。私のできることを、私の持ってるものを、何でも分けてあげたかった。だから彼が中学生になって、私が高校生となったころ──進路選択の際に医学部を選んだのは、完全にまぁくんのためだった。

「医学とトリオンのハイブリット研究、ってね〜。目に見えない器官であるトリオンが人体にどう影響するのか、まだまだ解明されてないことも多いから」
「なるほど、相変わらず難しいことやってるなぁ……」
「そんなことないよ、楽しいよぉ」
「うーん、でもゾエさんもカゲも勉強苦手だから」

 ゾエくんの言葉に雅人くんは何も言わない。勉強が苦手なのは本当だから、否定も反論もできないのだ。

「じゃー今度は新しいお部屋に勉強教えに来るねぇ」
「助かるよ〜!ありがとう、なまえさん!」
「ヒカリンとえまっちにもよろしく伝えといて〜」

 手を振って影浦隊の作戦室を後にする。雅人くんには無視されたけど、ゾエくんが手を振り返してくれたから良しとしよう。
 とにかく今は、課題の手伝いをしてくれそうな人に声をかけることの方が優先だ。トリオンのことだし順当に行けばてらくんだけど、てらくんは忙しい人だからなぁ。でもかざまっちも防衛任務あるかもしれないし、東さんを訪ねる人も多いし……と考えて適当に全員に連絡をしていると、先程のように首元が苦しくなって体が後ろへ引っ張られた。ぐぇ、とカエルが潰れたような声をあげて顔だけ振り返る。

「雅人くん」

 やっぱり、私にこんなことするのは彼しかいない。雅人くんは不機嫌な顔のまま私を見下ろすと小さく「送ってく」と呟いた。その言葉に思わず首を傾げる。はて、どういう風の吹き回しだ?

「どこに?」
「どこって……行くんだろーが、勉強教えてもらいに」
「行くけど、まだ誰のとこ行くかは未定なんだぁ」
「テメー……」

 雅人くんは呆れた顔でガシガシと頭を掻いて、それから私の肩に手を回した。
 
「……雅人くーん」
「んだよ」
「チクチク、痛いねぇ」

 私の言葉に彼は何も言わない。そういう時はだいたい図星なのだということを私は知っているから、肩に回された手を摩るように撫でた。
 影浦隊がB級に降格したのは、隊長の影浦雅人が人を殴ったから──そのことは既にボーダー内で大きな噂となっており、周知の事実となっていた。雅人くんはそれを否定しない。だからきっと人を殴ったのは事実なんだとは思うんだけど、噂する人を睨みつけて威嚇するものだから、余計に変な噂が立ってしまう。噂はやがて尾鰭がついて、悪意が増して、陰口になって。そうして雅人くんの身体に突き刺さる。
 今日、というかここ最近雅人くんが不機嫌そうな理由は、肌がチクチクと痛いからだ。今頃マスクの下ではそのギザギザの歯を食いしばっているのだろう──昔と同じように。

「……なんとかしてくれよ、なまえねーちゃん」

 ぎゅ、と手に力が入る。雅人くんとの距離が近くなって、ぴったりとくっついたところから体温が移ってくる。
 小さい頃まぁくんは言っていた。なまえねーちゃんにくっついてればチクチクがマシになる気がする。その理由はわからなかったけど、マシになるならと私は彼を抱きしめ続けた。そして大学でサイドエフェクトの研究に手をつけたわけだが、未だにその理由はわからずにいる。ただ雅人くんは今でも私にくっつくと"マシ"になるという感覚があるらしい。それには何か明確な理由や原因があって、それを解明したらサイドエフェクトを緩和させる方法も見つかるのではないか……というのが私の出した答えだった。

「大丈夫だよ。私が、何とかしてあげる」

 私のできることを、私の持ってるものを、何でも分けてあげたかった。子供の私は何にも持っていなかったけど、大人になった私には知識があった。人為的にサイドエフェクトに影響を与えるなんてのはまだ実現不可能な段階にあるけど、それでも、私の人生の全てを分けてあげたら出来なくはないかもしれない。
 ふわふわの頭に手を伸ばして撫でると、なぜかまぁくんはマスクを下げて小さく笑いだした。何で笑ってるのかはよくわからなかったけど、まぁくんが笑ってるからいいか、と思った。





「サイドエフェクトの緩和か」
「はいー、いつか出来たら良いなーって」
「なかなか先は長そうだな……」
「ですよねぇ。トリオン体なら、出来なくはないかもですけど」

 結局、てらくんとかざまっちはそれぞれお仕事があるらしく、私の課題を手伝ってくれたのは「今日の夜なら空いてるぞ」と返信をくれた東さんだった。東さんはいつも誰かしらに捕まっているから一番可能性が低いだろうと思っていたのに。こんなことなら、手土産の一つでも準備しておくんだった。
 課題を進める中で東さんは突然「そういえば、どうして医学部なのにトリオン研究なんてしてるんだ?」と言った。そういう東さんこそ戦史研究とのハイブリットじゃないですかぁ、と返せば、彼は「確かに」と笑った。

「俺のはまあ、好きだからやってるんだけど」
「私のだって好きだからやってるんですよぅ」
「……影浦が?」
「えぇ?なんでここで雅人くんが出てくるんです?」

 東さんの言ってることはたまによくわからない。首を傾げたところで答えが出てくるわけもなく、どういう意味ですかーと聞けば東さんは気まずそうに笑った。はて。
 私は医学研究とトリオン研究に至った経緯を、東さんに掻い摘んで説明した。雅人くんが私にくっつくとマシになると呟いていたことも伝えたが、やはり気まずそうな笑みは変わらない。

「サイドエフェクトはまだわかってないことの方が多いから、はっきりしたことは言えないけど、」
「?えぇ、」
「影浦の場合、なんでマシになるのかっていうのはもう分かりきってると思うよ」
「え、東さんわかるんですかー?」
「ああ、でもそれを俺は教えられない。そうだな……影浦本人に聞くのがベストじゃないか?」

 私は先ほど別れたばかりの雅人くんを思い出すも、私には全く思い当たる節もないし検討もつかない。今すぐ知りたいです、教えてくださいよぉ、と泣きついても、東さんはちっとも答えてくれなかった。




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