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カランコロン
小気味よい音を立てて扉が開かれた。
ここは喫茶ポアロ、僕がアルバイトをしているお店だ。

『こんにちは、安室さん』

そう言って僕に挨拶したのは名前さん、ここの常連だ。彼は東都大学に通う大学生らしい。

「いらっしゃい名前さん、今日もいつものコーヒーですか?」

『はい、お願いします』

そして名前さんはいつもの決まった席につく。別にそこが彼の指定席という訳ではないのだが、ほぼ毎日のように同じ時間同じ場所に彼がいるので、いつの間にかこの時間に名前くん以外の人が座ることはなくなっていた。まるでそこが彼専用の席だというように。

「お待たせしました」

『ありがとうございます、んーやっぱり安室さんの淹れるコーヒーは良い香りですね』

「いえいえ、まだまだマスターには適いませんけどね」

『でも僕は安室さんの淹れるコーヒーも好きですよ』

そう名前さんが屈託なく笑う。彼は良い意味でも悪い意味でも裏表のない素直な人間なのだ。
自分は公安という立場ながら、偽名を使ってとある組織に潜入しているスパイだ。今もこうして「安室透」という人間を演じている。だから名前くんを見ていると、自分がとても汚い存在に思えて仕方なかった。

「ありがとうございます、名前さんにそのように言っていただけて嬉しいです」

僕は笑顔を作りながらそう言った。それから僕は他のお客様の対応をするべく名前さんの元を離れた。彼もコーヒーをすすりながら本を取り出し、それに夢中になっていてもう僕の方は見ていなかった。それでも僕はちらちらと彼のことを見てしまっていた。たまに目が合うと僕に微笑みかけてくれる。優しくて、屈託のない笑みを。

『安室さん』

「っはい、ご注文ですか?」

『コーヒーのおかわりください、あとなにか甘い物を』

「かしこまりました」

そんななんでもないやり取りだって、自分の今置かれている立場を考えると尊いものに思えた。いつこのおだやかな生活が終わっても不思議はないのだから。
名前さんに別れを告げて、いやおそらく僕の口から別れを告げることは出来ないだろう。彼にとって僕はただの喫茶店の店員、そんな人物が突然いなくなっても辞めたとしか思われなくて、きっとすぐにでも忘れてしまうだろう。「安室透」とはそんな存在なのだから。

「コーヒーのおかわりとショートケーキでございます」

『ありがとうございます、あ、安室さんちょっと』

「?なんですか…」

コーヒーとケーキを届けた僕に名前さんが軽く手招きをする。僕はそれに従って腰をかがめた。

『あーん』

「んむっ」

突然僕の口になにかが突っ込まれた。甘い。名前さんがにっこり笑いながら僕にフォークを差し出していた。彼が僕の口にショートケーキを運んだのだ。

「…突然なんですか」

『えへへごめんなさい、なんか安室さんお疲れのようだったので甘い物でもと思って』

名前さんは特に悪いと思ってもいないような謝罪をすると、同じフォークを使ってケーキを食べ始めた。

「…あなたはいつもそうだ」

名前さんはいつもそうやって僕のちょっとした変化に気づく。探り屋としてポーカーフェイスは得意だと自負しているし、犯罪組織に潜入できるほどの演技力もあるこの僕の変化に気づいてしまうのだ。そして無意識のうちに僕を癒す。だから名前さんと離れたくない、そう思わせてしまうような綺麗な人。

『なにか言いました?』

「…いえ、次名前さんはいつ来てくれるのかな、と」

『安室さんがそんなこと言うなんてめずらしいですね…これで僕もここの常連として認められたってことなのかな?』

「ふふっなに言ってるんですか、名前さんは以前からポアロのお得意様ですよ」

『じゃあまた明日もきちゃおっかな』

「またいつでもご来店をお待ちしておりますよ」



今はまだ、「安室透」として、この透明で美しい彼とのこの何でもない穏やかな日常を過ごしていたい、そう思わずにはいられないのだ。