Visibile ferita

 深海の世界で




目を開けると、一面真っ青だった。
海の底のような深い青色が、どこまでも穏やかに続く。
ずっと遠くまで見渡せるのではないかと思うくらいに、色は透き通っていて美しかった。

――その色はまるで、『彼』のようだった。






フィアは海を見渡す。
夢の世界の海では呼吸もできた。都合のいい世界、そう仮面の少年に教えてもらったのを思い出す。


『行ってしまうのか』
耳に優しい声が蘇る。
縋るように見つめてくるリオン――もとい自分自身の記憶が作り出してしまった彼が紫色の水晶を悲しげに歪ませた。

『“アリア”のこと、守ってくれてありがとう』
彼を安心させてやりたくて笑みを返す。
うまく笑えただろうか。フィアは彼に伝えたい言葉を口にした。彼は目を見開いて――嬉しそうに、それでいて悲しそうに、微笑んだ。

『気を付けて』
穏やかなテノールがまだ耳に残っている。




その後リアラの力で最後の一人、ルナの夢世界に飛んだはいいものの……その世界は異常だった。

とはいえ、フィアもエルレインの作った夢世界に乱入したのはルナのものが初めてだ。異常をきたしているかどうかはわからない。
ルナ――いやここではカノンと呼んだ方がいいだろうか。
彼の夢世界が異常だと、そう結論付けたのはリアラだった。彼女が言うなら、まず間違いないのだろう。




いわく、『世界が広すぎる』という。
夢世界というものは『その人物の分岐点』が大きく反映されたものになっているらしい。
しかしカノンの世界はあまりにも広く、リアラの力を以てしても彼の分岐点と、それに囚われている彼を探し出すことは困難だという。

その説明を受けた直後、全員が波にさらわれた。
何とか誰かの手を掴もうとしたが――あと僅か及ばなかった。
リアラとカイルの悲鳴を聞いたのは覚えている。
しかしフィアもそのまま気を失ってしまったのだろう、そこから先の記憶はなかった。



そして目を覚まし現在に至る。


フィアはぼんやりとした水中に浮かんでいた。
水の流れもない。色は澄んでいるのにどこか重たい水は、見えない鎖のように手足に絡みつく。
手足の重さに気力が削がれ、手足を持ち上げる気にならなかった。


――よいのか、未熟なる主よ
漂っているフィアの耳にまた、あの声が聞こえる。目を見開くと、体が急に持ちあがった。

(あんた誰なの)
――この夢と現の狭間においてのみ、我はそなたに干渉できるらしいのう
上体を起こしたまま胸の内で問えば、嘲るような気配が強くなった。

(話聞いてる? 俺はあんたのこと聞いてるんだけど)
――ほんに短気な娘になったものよの。そなた誰に似たのだ?
わざと質問に答えなかった声に、わけもなく苛ついてしまう。
正体を問いただす。フィアの苛ついた声に対しても飄々とした声が返ってきた。


――我の正体を知りたくば、この憂いの海を越えるがよい
声が言う。その内容にフィアは思わず眉を寄せた。
ここはカノンの夢世界であり、フィアのものではない。それなのになぜ声の正体につながるのだろうか。

声の主は見えもしないが虚空を睨み付ける。
胸中であの声の主に対して恨みつらみを募らせていたが、ふと違う気配に気が付いて顔を上げた。

見れば、向こうの透けている立体映像のようなものが海の中に映り込んでいる。
幼い少年が一人、水面に立っている映像だった。


(どういうこと)
――さて、どういうことなのかの。我には見当もつかぬ
一体どういうことなのか状況を飲み込めずにいると、声はくすくすと笑う。直後気配らしきものが消えた。
あとは自分で考えろ、そうとでも言いたいのだろう。

あの声の持ち主は他人の不幸を面白がる、そんなひどい性格をしている。
それは夢世界でのやり取りで唯一、声の持ち主についてフィアが理解できたことだった。



水面に立っている少年は、以前――十八年前の旅のことだ――に見た、アクアヴェイルの人たちのような和服を身に着けている。
美しい横顔にしばらく見とれていたが、水面に立ち月を眺めていた少年がこちらを向いたのを見て息を飲んだ。
(そっくり)



『……だれ…?』
映像の中の少年は、こちらに向かって声をかけた。
すぐにフィアの後ろから一人の青年が現れる。その青年はひどく優しい微笑みを浮かべて、少年に歩み寄った。

盗み見た青年もまた、美しい顔をしていた。



青年の姿を見た少年は頬を紅潮させて満開の笑顔を見せる。
水面に歩を進めた青年は少年を抱きしめた。少年も嬉しそうに青年に擦り寄り、小さな体で力いっぱい抱き着いている。
仲睦まじい兄弟に、フィアの頬は自然と綻んだ。

(……!?)
その瞬間、機械が壊れた時のような雑音と共にその映像は掻き消える。すぐに違うものが映り込み――フィアは愕然とした。

「……!」
優しい笑顔で弟を抱きしめていた青年が、血塗れになって倒れていたからだ。
近くで必死に肩を揺さぶっていた少年の青色の双眸からは大粒の涙が零れ落ちていく。
地面に落ちていったそれは、燃え盛る炎の熱気で蒸発し跡すら残らなかった。


「どういうこと……!?」
あまりにも衝撃的な光景にフィアは思わず声を漏らす。

『何者です』
瞬間、美しい海は淀んだ。
冷たい声が脳に響く。あまりにも冷たい声に背筋が凍り付いた。
表情を凍らせて周囲を見回したが、その声の主は一向に現れない。代わりに海が淀み、だんだん暗くなっていく。
深海に沈んだような真っ暗な海の中は、鬱蒼とした森を思い起こさせた。



『あなたはだれ? しらないひと』
ソーディアンの声とも違う、幼い少年の声が聞こえる。
はっとして周囲を見回しても誰もいない。それなのにひそひそとした声だけが聞こえた。
あまりにも純粋な問いかけに背筋を悪寒が這い上がっていく。



『しらないひと、しらないひと……』
『しんにゅうしゃだ』
『こわいひとがはいってきたよ』
『ここはだいじなだいじなしょさいなの。だからね、』




『あなたは、はいっちゃだめ』
―きみは、みてはいけない―

幼い少年の声に、聞いたことのある声が重なった気がした。
その声を認識する暇も、その声の持ち主の名前を呼ぶこともできず、フィアは濁流に飲み込まれた。
意識を手放しかけた中で思い出したのは、嬉しそうな少年の顔だった。


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