Disapper tear

 そして彼は仮面を被る






静まり返った廊下に、自分の靴音だけが響く。
日付が変わるか変わらないかといった遅い時間だ、朝の早い使用人たちは誰も起きていないだろう。
先ほど別れたアリアも今は部屋にいるだろうし、彼女も就寝は早い。既に眠っているだろう。
唯一この館で夜遅くまで起きていそうなカノンは現在リーネに旅立っている。何も問題ない。


「くそ……っ!」
苛立ちのあまり思わず舌を打った。
自身の大切な人であるマリアンの怯えた顔が蘇る。笑顔の魅力的な彼女が、顔を真っ青にして従っては駄目だと訴えていた。自分だって恐怖を感じているだろうに、彼女は必死に訴えていたのだ。
彼女の細い手首に麻でできた紐が食い込み、真っ赤になっているのに。
それでも顔に出さず、必死に毅然とした態度を貫こうとしている彼女を目の前にしても、父親の命令に頷くしか出来ない自分がひどく滑稽だと思った。

――彼女に危害を加えない代わりに飛行竜の奪取を命じられたのは、つい先刻のことだった。
自分は偽りの名を名乗ったあの日から、ずいぶん強くなったと思っていた。剣の腕が上がったのは確かな事実だ。

しかし、強くなったつもりだったのだ。もっと強くなければいけなかった。
驕っていた…だから父親の力の前に、自分はひれ伏したのだ。あの男の持つ黒い剣が向けられた瞬間、何かすると分かっていたのに動くことができなかった。

「……」
目を閉じる。悔しさが込み上げてきて、拳を握りしめた。
唇を噛むと鉄の味が口に広がった。吐き気がする。いっそこのまま海にでも身を投げてしまえば楽になれるだろうか。

そう考えた瞬間、必死に叫ぶマリアンの顔が浮かぶ。
続いて泣きそうな顔で部屋を出ていったアリアの顔がちらついた。
はっとして、思わず足を止めてしまった。夢現な感覚を振り払うように頭を振って足を進める。
しかし角を曲がろうとして、何かにぶつかってしまった。

「あ、ごめん……」
こんな場所に置物などあっただろうかと首を傾げたその瞬間、耳に入ってきた声に思わず瞠目する。
なぜ、どうして彼女がここにいるのだろうか。

「アリア…!?」
名前を呼んで、確認しなければとても信じられなかった。
顔を覗き込むと、確かに彼女の持つルビーが静かに煌めいている。
向こうも向こうでこんなところで人に会うとは思わなかったのだろう。
美しい赤を瞬いて、彼女はこちらを見ていた。
彼女の方が少しだけ身長が高い。見上げてもらえないのが少し悔しかった。


「わぁぁっ!?」
何が起こったのか理解できていない様子で、彼女は宝石のような双眸をさ迷わせていた。しかしすぐに目の前の男が誰なのか気付いたようで、今度は大きく目を見開いて後退る。
彼女の赤い瞳は暗闇の中でも輝いていた。純粋な光がひどく眩しく感じる。
目元には朱が差していた。先ほど部屋を出て行った後、彼女は自室に籠って泣き明かしていたのだろう。



「何をしている?」
「んー、なんか寝ちゃってさ…お腹すいたからメイド部屋行ってなんか貰おうと思って……」
尋ねると彼女は目を擦りながら、困ったような笑顔を見せた。数時間前のやり取りを覚えていないわけではなかろうに、彼女は健気に泣いていたことを隠そうとしているのだろう。
それにまた罪悪感を覚えた。

「メイドたちはもう寝ている。」
「……マジすか」
彼女に向けられている好意に気付かないほど鈍くはない。
しかし、その気持ちに応じることは許されないと諦めていた。頑なに線を引き続けて、遠回しに彼女を拒絶していたような気がする。
何をしていても彼女のことが気がかりだった。これはもう認めるしかないと考え付いた直後、グレバムから神の眼を奪還して旅が終わったのだ。

「僕が冗談言うように見えるか?」
「ううん。」
問いかけには首を振って、彼女はこちらを見つめた。真っ赤な双眸に見据えられると心の底まで見透かされているような気がして、緊張感を覚える。

マリアンに抱いているのは、家族としての情愛。
カノンに抱いているのは、仲間としての友愛。
なら…目の前の彼女に抱いているのはなんなのか。

「……分かったら早く寝ろ。」
あまりにもお粗末な自問自答をしてしまった。答えなどとっくに出ているというのに。
自分の短慮さに呆れてしまう。ため息と共に外套を払って壁にもたれた。目を閉じてから吐き捨てるように言い放ってしまったことに気付く。
ちらりと彼女の様子を窺ったが、いつも通りの物言いと捉えてくれたらしい。きょとりと目を瞬かせていた。

…聞くまでもない。
それは抱けば盲目になるもの、護りたいと強く願うようになるもの。当初、マリアンに抱いている感情をそれと思い込んでいた時期もあった。

しかしここで変化が起きた。彼女の表情が硬く、不安な影を落としたからだ。
「…ねえ、リオン。」

どうしたのか尋ねる前に、彼女が言葉を発する。零れたこれはひどく不安に揺れていて、聞いていて哀れなほどに悲しそうな音だった。
何かに勘付かれてしまったようだ。彼女は勘が鋭い。直感的に何かを判断することに長けている彼女には、隠し事が通用しないことが多かった。

「…なんだ。」
「なんでこんな時間に制服着込んで、シャルなんて持って……玄関に向かってるの?」
「……急ぎの任務だ。」
動揺しているのを隠そうと、無表情を繕った。淡々と言葉を紡ぐことに全神経を集中する。
ここでへまをしてしまえば自分はもとより、彼女の身に危険が降りかかる。それだけは絶対に避けたかった。



「リオン…」
自分よりも細い手が優しく頬に伸ばされた。あまりにも現実味のない優しい手つきに、思わず体がびくつく。
自分が情けなかった。誰かに縋りたい、など思ったことはないというのに。

「何が怖いの?」
「……!」
彼女は誰かの醜い部分を知って、そしてそれで悩んで、しかし最後にはそれを受け入れる。人の汚い部分を見ていても、彼女の綺麗なルビーは汚れず、彼女自身も汚れない。

強く気高い。しかし決して傲慢ではない。
彼女は人の考えやその人の生き方を否定しない。しかしそれをすべて鵜呑みにせず、自分の意見だって素直に発する。そして何よりも自分をなくしているのに、どこかしっかりと芯を通している。
他者の声を聞き入れる優しさと、自分を貫く強さを持っていた。
何年かかったって、自分には絶対に持てないものだ。この先もずっと、それを持てることはないだろう。

だからこそ、それを持っている彼女に惹かれたのかもしれない。


「どしたの? なんかあったんでしょ?」
「…っ何故……!」
「分かるよ。」
頬に添えられた手を見た。剣を使う剣士の手にしては華奢で細い手だった。
身近に感じる優しい温もりに、不安も恐怖も何もかも吐露してしまいそうな気がした。

(だめだ。彼女に甘えてはいけない。これは僕が…なんとかしなければならない。……ならない、のに…!)
それでも優しい笑顔を向けてくれる彼女に安心してしまう自分がいる。
情けない。彼女を、彼女たちを守ると決めたはずなのに、守られているのは自分の方ではないか。

添えられた一回り小さな手に、自分の手を重ねる。驚いたように彼女は目を見開くとぼっと頬を染めた。


(どうせなら…ここで言ってしまおうか。)
自分は助からないだろう。飛行竜さえ奪えばお払い箱なのは目に見えている。事情を知った自分を生かしておくわけがない。
このまま彼女に何も言わずに消えてしまったら、彼女はいずれ他の男と共に幸せになってしまう。自分のことを、忘れて。

(……伝えれば、僕はずっと彼女の中に在り続ける。もしかしたら、ずっと覚えていてくれるかもしれない。ああ、それもいいかもしれない……)
自棄にでもなったか。頭のどこかに存在する、冷静な自分が囁いた。
そんなことをすれば、彼女はずっとお前に縛られ続ける。未来を奪われて、幸せを逃がして、死人に縛られる彼女をお前は望むのか。違うだろう。

頬を赤らめた彼女は、驚いたように口をぽかんと開けていた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。


(…ああ、そうだ。)
意を決して、口を開く。
何気ない日常の中にある、そんな愛しい表情を守るために。彼女に安全なところに逃げてもらうために。


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