アウグストの十字架

 6.上映七日目の邂逅




転校してきて一週間の二時限目。何やら廊下が騒がしいことに優菜は気付いた。
しかしそれには関わりのないことだろうと優菜は次の授業に使う教科書を準備してノートを開く。マーカーを取り出すと先日授業でやったところを見直して重要な公式にラインを引き始めた。

複数ある公式の中で最も重要なものにラインを引き終えたその瞬間、騒がしさは爆発した。廊下から奇声とも言える悲鳴と、耳を劈くような黄色い悲鳴が聞こえ、教室のドアががらりと開かれる。
誰かが教室内に入ってきたのだろう。足音は二つでおそらく男子生徒のものだ。その足音は颯爽とした足取りで歩くと優菜の席の前で止まる。

「鈴村優菜って自分やろ?」
「ええ、そうですが……私に何か?」
当然優菜はなんなのだろうかと顔を上げた。すると、二人の男子生徒が優菜を見ているではないか。
一体何の用事だろうかと優菜が首を傾げると、二人の内の片方──長髪で眼鏡をかけている男子だ──がにやりと笑った。
それはまるで獲物を見つけた肉食獣のような、厭らしいものに感じる。込み上がる嫌悪感をなんとか隠し、優菜は愛想笑いをした。


「俺を見ても騒がない…か。」
「あなたを見て動揺する必要はないと思うのですが……私、何か変なのかしら…?」
「お前、俺たちのことを知らないのか?」
優菜の愛想笑いに反応したのはもう一人の男子生徒だった。それに対して優菜は首を傾げる。
地毛には見えないクールグレーの髪に睨まれただけで凍てつきそうなアイスブルーの双眸。整った顔のパーツ、目の下には泣きぼくろもある。そんな人間離れした容姿を持った彼は、傲慢な笑みを見せると優菜の机に片手を置いた。


「あなたがどれほどの有名人なのかはわかりませんが……私、一度会った人の顔はきちんと覚えています。だから、あなたとは初対面のはずですわ。」
転校してきて一週間しか経っていないのにこんなマンモス校に通学する全校生徒の顔と名前を覚えるというのは、人間的に言えば『到底無理』もしくは『絶対不可能』と言われる所業である。
事前に調査して長い時間をかけて暗記でもしない限り、そのようなことができる人間は皆無に等しい。

優菜だって例外ではない。『依頼主の安全を脅かす粛清対象』から外れていたら、目の前の二人がテニス部の跡部景吾と忍足侑士だとはわからなかっただろう。


「それとも…私が一週間で全校生徒の顔をすべて覚えられるような頭脳の持ち主に見えますかしら…?」
目を見開いて驚く動作を見せる。わざとずれた返答をすると忍足侑士はその端正な顔を嬉しそうに歪めた。綻ばせた、ではない。歪めたのだ。
その横で跡部景吾も挑発的な笑みを浮かべたまま、優菜のことを見据えている。

「やれやれ、とんだ天然さんやな。」
肩を竦めた忍足侑士は小さくぼやいてみせた。丸い眼鏡のレンズ越しに跡部景吾を一瞥すると、忍足侑士は優菜の近くの席に寄りかかる。
ポケットに手を入れてこちらを窺う彼は完全に傍観体勢に入ったようだ。最初から興味本位でやってきたらしい。それとは反対に優菜に何かしらの用があるのであろう跡部景吾は、無遠慮に近付いてくると机に手をついて優菜の顔を覗き込む。
怯える兎を思い出して、優菜はびくついて身を引く(もちろんわざとやっているのだが)。しかし、机についていたはずの手が、今度は顎を掬った。上を向かされて、アイスブルーと視線がかちあう。



「面白い女だな。……気に入った。」
そして優菜は気付いた。目の前のアイスブルーが酷く穢れを溜めこんでいることに。
どす黒い青の奥深くは深淵の底のような静寂を保っていた。これが人間の底知れぬ悪意と邪気の塊なのだろうか。


「用件がないのならお引き取りくださいませんか。これから授業ですし…」
「用もねえのにわざわざ来るわけねえだろ?」
これも彼の本来の色ではなく、依頼主の言っていた『彼女』がこうさせたのだろう。自分の虜にすることで、どんな無理難題でもやってのける騎士に作り上げたのだ。
優菜は思う。それは最早騎士と姫君なんていう綺麗なものではなく、奴隷と魔女のようなものだと。奴隷と違うのは、奴隷自身自分が奴隷になっていて、目の前のお姫様が魔女であることに気付いていないところだろうか。
優菜の言葉に跡部景吾はますます嬉しそうな笑みを見せると手を離した。


「お前は黒羽学園でテニス部のマネージャーをしていたそうじゃねえか。」
「……あなた、それをどこで…?」
驚くフリをしつつ、予想通りの行動パターンに優菜は内心呆れる。
跡部景吾が優菜の情報を集めていることは、転校してきて二日目ほどから知っていたことだ。


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