アウグストの十字架

 11.五十二日目の悪巧み





「愛里! なっ……!」
松野愛里の名前を呼んで真っ先に飛び込んできたのは忍足侑士だった。彼に続けてテニス部員の面々が次々に部室に入ってくる。
忍足侑士は驚いた様子で松野愛里の腕を見た。慌てた様子の彼はすぐさまタオルを持ってくると、松野愛里の腕に巻きつけて強く結ぶ。


「どないしたんや…? こんな怪我……」
本当に心配している様子で、忍足侑士が松野愛里の顔を覗き込んだ。そして彼女の肩を優しく支える。
それに付け込んで、松野愛里は忍足侑士に抱きついて胸に顔を埋めた。その様子を跡部景吾はじっと観察しており、彼の横を通り過ぎて鳳長太郎が優菜の前までやってくる。
俯いたままの優菜の顔を覗き込んで、肩にそっと手を置いた。

「鈴村先輩、大丈夫ですか…?」
「……」
「先輩…?」
声をかけられても優菜も演技を続行する。彼は酷く困惑した様子を見せた。背後の松野愛里を窺って、もう一度優菜を見る。
彼の胸元に下がっているロザリオが、不安を露わにしているかのようにゆらゆらと揺れていた。


「鈴村、愛里……何があった。」
そんな中、口を開いたのは今まで一言も話さなかった跡部景吾だった。鋭いアイスブルーの双眸は、何かを確かめるかのようにすうっと細められる。
しかしそんな彼の言葉にも優菜は答えることなく、ただ俯いて唇を固く結んだ。優菜からは何もしない。向こうが仕掛けてきたものを上手く利用するのみだ。

「ゆ、優菜ちゃんが……私のことウザいって…! 景吾に近付かないでって……」
「なんやて……?」
松野愛里は忍足侑士の胸から顔を離すと上目遣いに彼を見上げる。今にも零れ落ちそうなどに瞳に涙を溜めて、彼女はわざとらしく震えてみせた。
彼女の言葉を聞いた忍足侑士は一瞬、優菜を見て困惑の表情を見せる。他の部員たちも同様、鈍器で頭を殴られたかのように硬直し、信じられないといった表情を浮かべたまま優菜を見ていた。

「おい鈴村…なんとか言え。それとも、本当にお前がやったのか。」
しかしそれでも優菜は動かない。眉間に深く皺を刻んだ跡部景吾が優菜の顔を上げさせ──そして目を見開いて凍りついた。


「……」
「す、ずむら……?」
「…!」
鈴村優菜は真っ青な顔をして、そして絶望したような表情のまま茫然としていた。日に焼けていない肌は青褪め、いつも優しく細められている双眸は光を失い揺れている。
触れた頬は酷く震えていた。まるで、これから自分に降りかかることが分かっているかのようだった。
跡部景吾が声をかけるとようやく我を取り戻したのか、鈴村優菜はびくりと震えた。恐る恐る肩に手を置いている跡部景吾と、近くで不安そうに見守る鳳長太郎を見る。

「……私…やってません…」
そして震える体を叱咤して、彼女は首を振った。そして思い通りに動かない唇をなんとか動かし、優菜はぼんやりと呟く。

「嘘つけ、愛里がお前がやったって言ってるだろ! 刃物振り回すとか何考えてんだよ!」
しかし優菜の言葉を否定する者がいた。向日岳人だ。
彼は松野愛里に恋心を抱いている(というか、テニス部の面々は皆彼女を寵愛しているのだが)から、彼女中心で世界が回っているのかもしれない。白い物も彼女が黒いと言ったら黒になるのだろう。

「やめとき岳人。」
「だってよ!」
「……愛里の治療が先や。愛里、くらくらするかもしれへんけど…俺に掴まりや?」
「うん…ありがと……ゆうし…」
敵意をむき出しにして怒鳴った彼を、意外にもダブルスパートナーの忍足侑士が制した。
だが、彼も優菜を助けるために向日岳人を制したわけではなく、腕の中で震える少女の治療を優先するために止めたようだ。松野愛里を伴って部室を出た彼は、しっかりと優菜を睨みつけてから後ろ手でドアを閉めた。

これから彼に会う度に嫌味を言われそうだ。成績優秀な彼からの嫌味なんて、想像するだけで不快だった。
きっと重箱の隅をつつく様にねちねちと嫌味を言われ続けるのだろう。


「…お騒がせしてすみませんでした……今日は、帰ります。」
「おい鈴村、」
「お疲れさまでした……」
「鈴村!」
冷静な表情を貼り付けて一気に捲し立てると優菜は鞄を取ってドアを開けた。手を握られる前にするりと抜け出して、頭を下げる。
声しか聞こえなかったが、跡部景吾の声は酷く焦っているように聞こえた。平静を失っている彼の声に振り返ることはせずに優菜は開けたドアから飛び出した。

「……あれは、」
まっすぐに校門へと向かおうかとも思ったが、裏門から出て帰ろうかと踵を返した。その拍子に裏庭の巨木が目に入る。
そのまま吸い込まれるように足は裏庭へ向かっていた。校舎の隙間から身を滑り込ませてそうっと中へ入る。

「……」
記憶に新しい桜の木に凭れかかった。優菜の胸中を知ってか知らずか、桜の木は穏やかに揺れている。
風宮沙令にこの穴場を教えてもらったのは一カ月と一週間ほど前だった。その頃の楽しい日常からは想像もつかないような非日常に転がりこんでしまったことに、優菜は悲しさを感じて目を伏せる。

「…っ!」
緊張が解けて膝の力が抜けてしまった。ずるずると座り込んだ優菜は溢れる涙も拭うことなく携帯電話を取り出す。
両手で包みこむと、脳裏に優しく細められたアメジストが過ぎった。


「璃御……」
縋るように彼の名前を呼んで目を閉じれば、優菜の意識は簡単に薄れていったのだった。


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