アウグストの十字架

 11.五十二日目の悪巧み




「……はあ、優菜ちゃんってホント綺麗事しか言わないね。」
以前とは色の違う瞳は冷たく優菜を睨みつける。壁に寄りかかると、彼女は嘲笑にも似た笑みを見せた。
彼女の瞳は高校生の少女の視線とは程遠い、ひどく汚れた色に見える。グレーの瞳の奥底に、どす黒い色の邪気が膨れ上がっていく様は地獄の業火が翻る様にも似ていた。

「松野、さん…?」
「要はさ、テニス部の部員たちみーんな優菜ちゃんの『トモダチ』ってことでしょ? 優菜ちゃんはそれでいいかもしれないけどさぁ……無自覚のまま私の騎士をたぶらかされると困るんだなー、これが。」
睨みつけられたことで優菜はびくりと肩を震わせた。過去に起きたことが走馬灯のように駆け巡っていく。凍りついたまま松野愛里の名前を呼べば、嘲笑にも似た笑みを見せて、彼女は鼻を鳴らした。

「き、し…? たぶらか、す…?」
「気付いてないわけ? 景吾があんたのこと気にしてるの。」
「跡部、くんが……?」
「本物だわ、こりゃ。天然ものの天然っているんだー。」
彼女の言っている言葉の意味が理解出来ない。それを物語るかのように、優菜の表情は絶望に満ちていく。


「あんたさ、邪魔なんだよね。景吾も他の部員もみーんな私のなんだから…だから近付かないでって言ったのに。何度も忠告したのに気付かないんだもん。」
「ちゅう、こく……?」
松野愛里は先程まで見せていた天使の顔を引っ込めて、悪魔の顔へと変貌した。髪を掻き上げる様はとても高校生には見えず、遊女のような厭らしさがある。
彼女の明るい茶髪が夕暮れの光を反射して、部室の中に影を作った。ひどく薄暗いそれは、忍び寄る闇にも似ている。


「私の友達が優菜ちゃんにたくさん教えてあげたでしょ? 景吾に近付かないでって。」
「……! じゃあ、今までの呼び出しって……まさか…」
「そうそう、テニス部をやめさせるために…みーんな私が仕組んだこと。」
「どうして……!」
「だってー、優菜ちゃん邪魔なんだもーん。」
動揺する優菜を嘲笑うかのように、松野愛里は壁に凭れて腕を組んだ。それは優菜を拒絶しているように見えたし、酷く横柄な態度にも見える。
優菜が目を見開いたのを見て、彼女は狂ったような笑みを見せた。可憐な少女の顔に覆い隠されてきた彼女の本性が、剥き出しになった瞬間だった。


「邪、魔……どうして…?」
「景吾ってばせっかくあの邪魔な女消したあとなのに、まーた他の女に騙されてさー…しかもマネージャーに推薦しちゃうんだもん。私一人で大丈夫だって言ってるのに。」
「跡部くんは松野さんの負担を気にしていましたわ……だから、」
「えー、お姫様は私一人で十分でしょ? 私よりも可愛くて美人なお姫様はいらないの。それにー、負担なんてぜんっぜんかかってないし…友達がやってくれるから。」
きらきらと輝く唇に指を当てて、彼女は無邪気にも笑った。無防備に唇を少しだけ開けて、顔を傾ける。長い睫毛のついた瞼が上下して、小動物のような愛らしさを演出していた。
計算されつくしたその動きは、雑誌に写るモデルたち顔負けのポージングだ。
信じられない言葉がポップコーンが弾けるような気軽さで出てくる状況に、優菜は動揺を隠しきれないまま茫然と声を漏らした。


「……え…?」
「氷帝のテニス部にたっくさん部員いるでしょ。平部員の一年とかにお願いしちゃえば聞いてくれるもん。……あれ、優菜ちゃんもしかして今までの仕事一人でやってたの?」
「そ、そうですわ…だってそれがマネージャーのお仕事でしょう……?」
「すっごーい、根性あるねーお嬢様のくせに。手荒れるし、メイク落ちるし、髪乱れるし……せっかくネイルやってもラメ取れちゃうじゃん。私あんな汚い仕事無理。」
迸る悪意と溢れ出した本性は止まることを知らず、松野愛里は今度こそ優菜を嘲笑った。わざとらしく、綺麗にペイントされた爪を見せびらかすように頬に手を添える。
優菜が普段驚く時にやっている癖のようなものだった。それを皮肉に真似たのか、それとも偶然の一致かは分からない。

「マネージャーなんてドリンクとタオル配ってれば仕事してるように見えるし、その他は手抜きしたって良いじゃん。」
「そ、そんなの……選手からの信頼はどうなるのです…!?」
「はぁ?」
「部員の皆さんは…あなたが真面目で、一生懸命な人だって信頼しているはずですわ…! それを、裏切るようなことをして……あなたはなんとも思わないのですか…?」
「……やっぱりあんた似てるんだよね…」
「え……? う…っ!」
思わぬところからの優菜の反撃にか、松野愛里は眉を吊り上げて壁から体を離す。不快に思ったのだろう。
優菜の前までやってくると、彼女は優菜の腹に容赦なく蹴りを叩きこんだ。普通のローファーとは思えないほど硬い感触が腹部を抉り、骨まで衝撃が響きそうなほどだった。

転がった優菜は腹を押さえて激しく咳き込む。涙の滲む視界の端で、松野愛里が後ろ手で持っていた“何か”を取り出したのがぼんやり見えた。


「私あんたみたいな良い子ぶりっこの女、だいっきらいなんだよね。」
「…っ! そ、れは……!」
銀色に光るそれを見つけた途端、優菜の体は自分の意思に反してがたがたと震えだした。怯えている優菜に気を良くしたのか、松野愛里は微笑む。
そこだけ見れば天使の笑顔のように愛らしいが、手に持っている物騒な物のせいで恐ろしさを増大させる要素でしかなかった。

「別に優菜ちゃんを殺そうとか思ってるわけじゃないから、大丈夫だよー?」
「な…!? 松野さん、何を──…!」
ちきちきちき。
刃先を出す時の独特の音が静かな部室の中に響き渡り、優菜の震えは一層止まらなくなる。
突出した刃先は橙色の光に照らされて、気色悪いほどに綺麗に輝いた。それを優菜には向けず、松野愛里は自分の左腕に押し付ける。目を見開き立ち上がった優菜が止めるのにも構わず、宛がったそれを一気に動かした。

「……っ…!」
柔らかい肌に真っ赤な何かが飛び散る。恐ろしいほどの量に震えが止まらない。優菜が茫然としていると、使用されたカッターが優菜へ向けて放られた。鋭い銀の切っ先がこちらを見ていることに、優菜は硬直する。松野愛里はにやりと笑みを見せて大きく息を吸い込んだ。


「きゃぁぁぁあ!」
耳を劈くような声が鼓膜を支配する。やがて慌ただしく向かってくる足音がはっきりと聞こえた。
手首を押さえた松野愛里は笑う。完全な勝利を確信しているのだろう。



(……ここからが、本番よ。)
優菜は俯き、そして──ひっそりと笑ったのだった。
すべて、計画通りで想像通り。打ち合わせもなしに脚本通りの演技をしてみせる彼女に、シナリオの脚本家は上品に笑っていることだろう。


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