アウグストの十字架

 10.悲しむ四十一日目




(制服…少し汚れちゃったかしら……)
彼女たちがいなくなったのを確認すると、優菜はふらつきつつも立ち上がる。制服とスカートをはたくと注意深く周囲を窺った。
先程は驚いてしまったが、よくよく考えてみると彼は食堂で昼食を取るから校舎裏なんて来るはずがない。故に先の声の持ち主は本人であるはずがないのだ。仮に誰かが真似したとしてもあまりにも似すぎている。
結局何が言いたいのかというと、声の主は完全な物真似を習得しているか、もしくは常にボイスレコーダーなどの録音機器を持っている用意周到な人物か、ということだ。

「……どなた?」
誰もいない校舎裏に優菜の声が響いた。しかし向こうは相当の悪戯っ子のようで、姿を現す気配はない。
仕方ないとその場を後にしようと優菜が一歩踏み出した時、ぐらりと視界が揺れた。呼び出されて殴られた体は震えていて、膝が言うことを聞かない。
傾く体を支えることもできず、優菜は来る衝撃に備えて目を閉じた。

しかし地面と激突することはなく、優菜の肩は何者かに支えられる。どうやら優菜に助け船を出してくれた人物は優菜の背後にいたようだ。
そっと顔をのぞき込まれて、優菜は思わず身を引く。怯えている様子の優菜に苦笑すると男は頬に何か柔らかい布を当てた。
驚いて口元を手で拭う。指先についた赤に優菜は目を見開いた。

「大丈夫か?」
見上げると銀髪が揺れた。
大きな手に鍛え上げられた体、それに見合った整った顔立ち。特別筋肉質というわけではないが、引き締まっていてバランスの取れた体つきだった。口元のほくろが青年の印象を強めている。
切れ長の双眸は優菜を見定めるかのように静かに細められていた。その琥珀に浮かぶ感情は曇り硝子に隔てられているかのように読み取り辛い。辛うじて理解出来たのは興味や好奇心といった部類の感情のみだった。掴みどころのない、飄々とした青年に見えた。
括ってある髪は動物の尻尾のようにゆらゆらと揺れ、彼の掴めなさを顕著に現している。


「……」
「……」
「…あの」
見覚えのない青年の登場は、優菜にもまったくの予想外の出来事だった。支えられたままの状態で優菜は彼を見上げ、彼は優菜を見下ろすばかり。
困り果てた優菜はハンカチを貸してくれた礼をしようと声をかけた。優菜に声をかけられて初めて、青年は視線を動かす。その行動は酷く冷静で、先程跡部の声を真似た張本人とは思えないほどだった。

「ありがとうございます。助けていただいて、ハンカチまで……」
「…や…、俺が見てて胸くそ悪かったから勝手にやったことじゃけ。気にしなさんな。」
「それでも助かったんですもの。お礼を言って当然ですわ。」
礼を述べると青年は合っていた視線を逸らして頬を染めた。照れているらしい。
発言から考えても恩を売るために優菜を助けたわけではなく、ただいじめの現場に遭遇したのが本当に面倒だったのだろう。制服は他校のものを着ているし、嫌な思いをしたのを考えると被害者は彼のほうかもしれない。


「跡部くんの声、とっても似てましたわ。」
「ピヨ」
純粋な称賛の言葉と共に優菜は彼に微笑みかけた。照れたように不可思議な音を発した彼は、心なしか自信ありげに笑みを見せる。

「お知り合い?」
「…まあ、な。」
「もしかしてテニス部の方?」
「黙秘権発動」
「まあ……裁判みたいですわね。」
青年は優菜を立たせてくれた。まだふらつく優菜はなんとか倒れずに踏み止まる。同時に昼休みの終わりを告げる鐘の音が響き、優菜は鞄に入っていたお弁当が無駄になってしまったとぼんやり思った。

「お前さん、戻らなくてもいいんか?」
「……そうですわね…次の時間から出ることにしますわ。あなたこそ、今日は氷帝に何か用事があって来たのでしょう?」
鐘の音を聞いた青年は校舎を見上げる。廊下を慌ただしく駆けていく生徒たちを見て、青年は首を傾げた。
青年の言葉に優菜は苦く笑うと、青年に尋ねた。彼は小さく首を傾けて少し考える様子を見せたが、赤い紐で括ってある尻尾を指で弄ぶ。

「あー、まあ大した用でもないんよ。また今度来る。」
「お気をつけて。」
体の向きを変えて校門の方向を見た青年はそのまま歩き出した。その背中に声をかけて見送るつもりだった優菜だが、青年がくるりと振り返る。
どうしたのかと彼を見やれば、琥珀には酷く心配そうな色が浮かんでいた。

「…お前さんこそ気ぃつけんしゃい。綺麗なねーちゃんっつーのは妬まれるモンじゃけ。」
「まあ、お上手ですね。でも大丈夫ですわ。ありがとうございます。」
「そっか。…じゃあの。」
優菜の声に小さく微笑んだ青年は、そのままひらひらと手を振って校門へと向かう。
この邂逅が偶然なのか必然なのかは今の優菜には分からないが、彼とはまた会えるような気がした。


prev / next

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -