triste

 救えなかった悲しみに震える




「……!」
橙色の双眸が見開かれる。
覚醒した彼女――雪宮和泉は見たことのない場所にいるということにすぐに気付いた。そして弾かれたように飛び起きると焦りの滲んだ表情で周囲を見回す。

「……なに…?」
桜色の薄い唇から、震えた声が発された。絢爛な装飾のついた部屋の中に、ぽつりと和泉だけがとり残されている。
彼女は尖った顎に手を添えた。直後、自分の身体の異変に気付いたらしい。腕を見る。
ひらり、袖が揺れた。

「…どう、して……?」
またもや疑問に満ちた声が零れる。彼女の着ている物はこの世界に来た時に来ていた自分の制服ではなく、豪奢な繊維で編まれた着物だった。
見開かれてからずっと困惑と疑問の感情ばかりを浮かべていた彼女の双眸が、今度は不安の色に浸食されていく。

「目が覚めたようだね。」
「あなたは……!」
しかしその不安の色もすぐに消えた。彼女に声をかける者がいたからだ。
振り返った彼女はその面を警戒の色に染めて声の主――真っ白な衣装の銀髪の男だ――を見据える。じり、と後退り距離を取った彼女に男は大げさなほどにため息をつく。わざとらしい、悲しそうな顔を見せた。


「そんなに警戒しないでくれないか。今は何もする気はないよ。」
「今は……、ということは後々何か仕掛けてくるつもりなのでしょう?」
「否定はしないけれど……でも今は本当に何もする気はないよ。」
なおも続く応酬にうんざりしたのか、男は腰かけていた椅子から立ち上がる。そして和泉の前まで来ると、しゃがみ込んで白い頬へと手を伸ばした。

「君は本当に美しいね。僕たちが想像する神の使いを具現化したかのようだ。」
「や……っ!」
身を引こうとする和泉の腰を捕まえて、男は上品に笑う。目を覗き込まれたために肩を震わせた和泉は固く目を閉じた。
拒否するように胸を押し返す彼女を、男は目を細めて観察する。気が済んだのか手を離した男に気付くや否や、和泉は飛び退くように距離を取った。

「…心外だな、そこまで怯えられるなんて。僕はそんなに怖い人に見えるのかい?」
「……あなたが私の味方だという証拠はありませんから。」
「そうかな、敵だという証拠もないと思うのだけど。」
「私を利用しようとしているなら、少なくとも味方ではありません。」
「やれやれ、君は本当に頭が回る……厄介なことだ。」
部屋の隅に縮こまり、警戒の体制を一層強くした彼女に男は溜息を漏らすと後を追った。
少しの距離を開けて彼女の前に腰を下ろす。予想外の行動をした男に和泉は驚いたように目を見開いた。信じられないものでも見るような表情で、少し上にある男の顔を見つめる。

「……僕は竹中半兵衛という。君の名前を教えてくれないかな。」
「…和泉、です。」
「和泉くん……ね。」
男──竹中半兵衛は小首を傾げて無邪気な笑みを見せる。しかし、その紫苑の瞳はひどく冷静な色を保ったままだ。
彼の双眸を見て、和泉は肩を揺らした。研究者の冷酷で冷静な目にひどく似ていたように感じたからだ。
怯えの色を強く宿した黄昏色の双眸には気付かないふりを決め込んで、彼は和泉の長い髪を一房掬う。群青色のそれを弄ぶと口元を緩めて微笑みかける。

「花のような香りがするね…」
「…っ!?」
「それに艶やかで…噂通りの美しい色だ。」
「……っ、……!」
手にしていたそれは男の口元まで持っていかれて、啄むように唇を落とされる。男性にそんなことをされたことなど皆無に等しい和泉は、頬を染めるとわかりやすく動揺した。
香りがすると言っているのに何故そんなことをするのか。爆発寸前の頭ではそんな単純な疑問しか考えることができず、ただ茫然と彼の顔を見ていたのだった。

「…あれ、」
彼女のその様子を男が見逃すわけもなく、悪戯っぽく笑った彼は距離を詰めた。鼻がくっつきそうなほどに接近した彼は慌てふためいている和泉の顔を見やる。

「もしかして、こういうことをされるのは初めてだったりするのかな?」
「こんな、こと、慣れているひとなんて、い、いるわけない、でしょう!」
色白の頬が上気してほんのりと桜色に染まった。
真一文字に引き結ばれたはずの桃色の唇は不安そうに歪んでいる。
男の持つ紫苑をそろりと見つめるのは、夕暮れのような橙色。

彼女の動揺しているような声を最後に部屋の中には沈黙が下りた。


「へえ……意外だな。」
「え……?」
男は意外そうに目を瞬かせて、驚いたような表情を見せた。怪訝な表情を隠しもせずに和泉が男を見れば、彼は微笑む。

「政宗くんや慶次くんが気に入っているなんていうから、てっきりそういう女なんだと思っていたよ。…それとも」
言葉を紡いだ後も、なお見せている柔和な笑みを見て和泉は視線を落とした。彼の意図が全く読めなかったからだ。

「それは僕を騙すための演技、なのかな…?」
少々の間をおいて続けられた囁きと共に、和泉の耳に吐息がかかる。いきなりの生温い感覚に和泉の体は跳ね上がった。


「……っ!?」
「ふふ、その様子だと計算でもなさそうだね。」
耳を塞いで体を反転させた和泉は真っ赤な顔をそのままに男を見上げる。
和泉の反応が面白かったのか、男は悪びれもせずに笑い声を上げた。自分の思惑通りに事が進むと、人間誰しも面白くなるものだ。
男も例に漏れず、和泉の反応は予想した通りだったのだろう。
ひとしきり笑った男は小さく息をつくとまた和泉の髪を一房掬う。鳥を愛でる時のような手つきで、髪を弄んだ。

「不思議だな…君は神の御使いのはずなのに、こうしていると普通の女の子だ。」
「私は神様からの使いなんかじゃ…」
「だって、こんなに綺麗な髪に目を持っている。こんなに美しい容姿を持っている。」
珍しくも彼はあどけなさの残る笑顔を見せた。素直なその表情は男というよりも青年と表現した方が近いだろう。
ここに来てから何度か目にした皮肉っぽい笑みは、彼の軍師としての仮面なのかもしれない。

「人を傷つける力は僕たちにも与えられているけれど、癒す力は誰にも許されていない。人間が与えられるのを許されなかった能力…その力を持っている君が、神からの使いでないわけがないよ。」
本当に和泉の御使いとしての能力を素晴らしいものだと思っているのだろう。
純粋に力への称賛をしている竹中半兵衛は普通の青年にも見えた。


「仮に君が神の使いとしての自覚がないのだとしても、やはり周りは君のことを神の使いとして崇め、奉るだろう。でも…その方が都合がいい。」
最初に会った時のように、彼は和泉を見つめた。しかし寒気はしなかった。
代わりに彼の声がやけに優しいもののように聞こえて、和泉は警戒を強める。優しいものには裏があると思ってしまう自分に嫌気が差した。

そんな和泉の反応を見ても気を悪くするわけでもなく、竹中半兵衛は和泉の顎を掬いあげた。そっと両手で頬を包まれると、薄紫の双眸が和泉の姿を映しているのが見える。


「君をずっと豊臣軍に留めておける。」

優しい声音で囁かれた言葉は、和泉をここから逃がす気がないことを物語っていた。



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