光は透ける | ナノ



 風が入ってきて、手元に開いた本のページがぱたぱたと揺れた。
 舌打ちして、乱暴に本を押さえつける。窓の方に目をやると、カーテンがレールに近い位置まで浮き上がっている。窓を閉めたいが、ベッドから降りるのが億劫だった。それにしても、いくら療養施設とはいえ、ただでさえ白い部屋に、白いカーテンを合わせるとはどういうことだろう。おかげで部屋のなかは殺菌されているかのようにまっしろけで、まるで世界から色が抜け落ちたようだった。風でカーテンが揺れると、木々の緑がちらりと見えて、少し安心する。
 何言ってんだ、お前の髪だって同じような色してんじゃねぇか。
 誰かがそう言って、狛枝はそうだね、と納得してしまったのを思い出した。その誰かが、狛枝に新しい腕を授けてくれたことも。
最初にこの部屋についた時、スーツ姿の誰かが言っていた。新世界プログラムにかけられて数年、キミたちは、自分で何かを食べることもなく、筋肉は何一つ使われず、横たわったままだった。まだ動くこともままならないと思う。短くても数週間、健康状態が回復するまで、ここで暮らしてほしいんだ。
それから、キミは腕を欠損している。落ち着いて聞いてほしい。キミが今持っている腕は、江ノ島盾子のものだ。これから、その腕を切り離す。しばらくしたら、キミの同級生の超高校級のメカニックが、キミのための義手をつけてくれる。
しばらく記憶が混濁するだろうけど、どうか落ち着いて。ボクたちを信じて。自分を見失わないで。
そしてベッドの上で泥のように眠ってから起きると、幾分かすっきりした気持ちになった。新世界プログラム、というのがあの世界だったことも、自分が何を思って自殺のような真似をしたかということも、体中の切り傷からあふれる驚くような血の量も、クラスメイトのこと、そして、日向創という予備学科の生徒のことも、思い出した。絶望に堕ちた自分が、今思えば馬鹿げたことを、如何にもそうするしかないといったように当たり前に行っていたことも、すべてだ。
「狛枝くん」
 声がして、窓が勝手に閉まった。風がやんで、本のページが静まる。狛枝は部屋の入口の方に目を向けた。ベッドと出入り口の間にある棚の上に、携帯端末がスタンドにはめられて置いてある。その端末が光っていた。光が強くなり、狛枝が眩しさに一度瞬きをすると、次の瞬間、棚の隣には少女が立っていた。パーカーにリュックを背負って、眠たげにこちらを見つめている。
「狛枝くん、風が強かったから勝手に窓を閉めたよ」
「助かったよ……七海さん」
 名前を呼んでいいものか迷った。彼女の顔をあまりまともに見たくなくて、狛枝は本に目を落とす。
「えっと……他に何か、不便なことがあったりしないかな? 私ができることならやりたい……と思うよ」
「……大丈夫。それよりも、ボクそろそろお腹空いたな」
「お昼ご飯、準備はできてるみたいだから、持ってきてもらうね」
 アルターエゴはこの未来機関の建物のほぼ全部屋に渡って電子系統の管理を行っている。窓を閉めることができるのも、窓やドアのすべてがアルターエゴの管轄にあるからだ。風はやんだが、不意に寒気を感じて、狛枝はしばらく、しろい布団を頭まで被って震えた。
「狛枝くん、寒いみたいだけど、暖房を入れようか?」
「平気だよ。少し、眠いだけ」
 お腹が空いたと言ったり、眠いと言ったり、無茶苦茶なことを言っているのはわかっていた。七海は特に詮索せず、「そろそろご飯が来るよ」と言った。



 食事が運ばれてきたが、思うように義手が動かないため、器を持つことができない。箸で一口ずつ運ぼうとするが、箸の持ち方がおかしいのか、上手く食べ物を持ち上げられない。いらいらしながら口に入れた米を咀嚼して、眉を寄せていると、
「狛枝くん」
 声をかけられる。まだ何か用があるのかとそちらを向くと、先ほどと同じ位置に七海は投影されていた。まるでそこに立っているかのように七海は地面に立ち、首を少し傾ける仕草をトレースしている。未来機関の端末に試験的に導入されている、光の粒子によって特定の人や物を形作る技術らしい。苗木が、狛枝クンに感想を聞きたいんだ、と言って置いていった。アルターエゴには電子系統を任せているから、命令してくれれば生活の助けにもなるし、と言って。狛枝は苗木クンの助けになるならなんでもするに決まってるよ、と安請け合いしたが、まさか七海が出てくるとは思わなかった。苗木が端末を置いて行ってからというもの、毎日七海は何かしようか? と言って出てくる。正直なところ、狛枝は参っていた。
 先に退場したとは言え、コロシアイで七海を道連れにしたのは狛枝なのだと、目覚めてから聞いた。裏切者は七海だった。当たり前だ。希望ヶ峰学園で、狛枝含めた77期生は七海が死ぬところを見ていたのだから。それを、狛枝は殺したのだ。AIだとわかっていても、寝覚めは悪い。
「目覚めて良かったよ。狛枝くんは、目覚めないのかなって、心配してたんだ」
「そう。キミは、ボクのせいで退場させられたから、恨んでるんじゃない?」
「ううん……その、ごめんね。裏切り者だって、言えなくて」
 何の話と思えば、終わった話を蒸し返すのか。狛枝は肉じゃがのじゃがいもに箸を突き刺した。
「勘違いしないでほしいな。ボクは裏切り者を突き止めた上で、それ以外の全員を消したかったんだよ。七海さんがもし自分から名乗り出ていたところで、関係ない。ボクがクロとして誰かを殺して上手く隠して、全員処刑に持って行くって手もあるし……まあ、今となっては、そっちの方が良かったかな。その後ボクも自殺すればいいんだしね」
 裁判で手ごわいのは日向と七海だった。日向は適当に揺さぶってやれば真実を見失うのは目に見えていたが、七海はどうだろう。狛枝が誰かを殺したとして、彼女を出し抜くことが果たしてできただろうか。
 違う。彼女を殺すのが先だろう。狛枝は自分が七海を手にかけるところを想像した。首を絞めると、彼女は目を見開いた。口の形がこまえだくん、と動く。手足がくたりと力を失い、目が閉じていく。しかし、彼女はプログラムだ。その妄想のなかで、狛枝が掴んでいた彼女の細い首がふっと消えた。光の粒になって空中へ溶ける。
 くだらない。狛枝は咀嚼するのも億劫になって、口の中でじゃがいもを転がした。
「全員生き残っちゃうなんて、参ったね……しかも、ボクも目覚めるなんて……そのまま殺して欲しかったな……」
「狛枝くん。そんなふうに言ったら、生き残った皆が悲しむよ。長い時間努力して、やっと、目覚めたんだから……日向クンは特に、狛枝クンのことを、」
「予備学科のことなんか、どうでもいいよ」
 箸を茶碗の上に叩きつけるように置いた。勢いで箸の片方がベッドの横に転がり落ちる。狛枝と七海が口を開かなければ静まり返ってしまうこの部屋で、箸が床とぶつかるからん、という音が大きく響いた。
 七海がしゃがんで、手を伸ばした。狛枝はため息を吐く。足に問題があるわけではないので、問題なく歩けるし、箸を拾うことだって可能だ。ただ、先ほど横着して窓を閉めなかったこともある。病人扱いされているのだろう。わざわざご苦労さま、という皮肉でも言って受け取ってやろう、と狛枝は七海が箸を拾うのを見ていた。
 七海の手は箸をすり抜けた。
 ホログラムは光の粒の集まりだ。屈んで地面にあるものを拾う仕草をすることはできるが、当然現実のものにふれることはできない。狛枝は愕然とした。わかっていたはずなのに、間近で見てしまったことで、現実をまざまざと見せつけられた気がした。
 七海は困った顔で手を引っ込めて立ち上がる。
「……ごめんね」
 そうして、謝った。狛枝は馬鹿じゃないの、とうつむく。申し訳ないといった態度の七海にも、拾ってくれるのを待っていた自分にも、腹が立って仕方がなかった。
「プログラムの分際で、余計なことしないでよ」
「うん」
「取ってくれるのかなって、思ったよ」
「……!!」
「……火事が起こったとき、ボクを一番に助けようとしたのは、キミだもんね」
 消化弾を投げているところは見ていない。だが、あの時の七海にとって、コロシアイを起こすのは本望ではなかっただろう。その気持ちの強さが、消化弾を真っ先に投げさせてもおかしくはない。狛枝にとっては、「裏切者が毒薬の入った消化弾を投げることで狛枝を殺す」というひとつの幸運でしかなかったけれど。
「プログラム内のキミは、確かにAIのキミだった。そうでしょ?」
「……うん」
「でも、キミは本当の七海さんじゃない。ボクはそういう認識しかできないし、キミを代わりだとは思えないよ」
「そうだね。私は、みんなの記憶の中の七海千秋の情報をかき集めて作られた、言うなら残骸って感じかな」
 こともなげに頷いて、七海は笑う。その表情が七海と本当に似通っているのが、狛枝には耐えかねた。
「七海さんは、ボクたちの前で……死んだんだ」
 口にしなければよかった、と思ってしまった。ぼんやりした表情の、目の前の少女は、別物なのだと、完全に認識してしまう。これが彼女だと思い込むことができたら、どんなに楽だろう。そして、みんなきっと、そうしてしまう。楽な方へ流れてしまう。七海千秋はプログラムになって生きている、と。これは彼女が遺したものじゃない。自分たちの気持ちのなかから生まれた彼女だ。自分たちが望む彼女だ。本当じゃない。
「まるで七海さんが残した遺志のように、振る舞わないでもらえるかな?」
「……優しいんだね、狛枝くんは」
「は?」
「だったらね、みんなのこと、狛枝くんに頼むね。私の死が受け入れられない人がいたら、目を覚まさせてほしいんだ」
「無茶言わないでよ、そんなこと、ボクにできるわけないでしょ」
「やる前からそんなこと言わないで、やるんだよ」
「そういうことは日向クンに……」
 七海は首を振った。そうして噛みしめるように言葉を紡ぐ。生身の人間のように。
「日向くんのことも、よろしくね」
 七海千秋は、残骸になってもなお、日向創のことを気にかけているらしい。
「うらやましいよ。超高校級のキミに気にかけてもらえるなんて、あの予備学科は何者なのかな」
「狛枝くんのことも気にかけてるよ。でも、狛枝くんのことは、日向くんが一番気にかけてそうだから、私の力は必要ない気がするんだ」
「………馬鹿馬鹿しい」
「だって、ほら」
 七海は部屋の扉を振り返った。耳を澄ますと、廊下をぱたぱたと駆ける音がして、次の瞬間、勢いよく扉が開いた。その瞬間、端末から発されていた光がぷつんと切れる。
「狛枝!」
「……人の部屋に入るときはノックしなよ」
 息を切らして部屋に入ってきた日向は、開口一番狛枝、と呼ぶ。いつもそうだった。頻繁に部屋にやってきては、左右田が義手の様子を気にしていただとか、ソニアが毎日水を上げていた花が咲いただとか、九頭龍と辺古山が一緒に出かけただとか、小さいことをほんとうに楽しそうに語っては狛枝に一蹴されてむっとしながら去っていく。それなのに、懲りずにまた部屋にやって来るのだった。こんな死に損ないに、よくもまあ構うものだ。
「なんか、昼飯を早めたって聞いたから、なんかあったのかと思って」
「ボクがいつごはんを食べようが勝手でしょ……キミ、そんなことを確認するためにここに来たの」
 呆れてため息を吐くと、日向はうぐ、と口をつぐんだ。図星だったらしい。ベッドに近づいてきた日向は、不意に屈んで、落ちていたものを拾った。
「箸、落ちてるぞ。新しいのもらってくるよ」
 日向はしっかりと箸を手に持っていて、すり抜けるなどあり得るはずがないのに、狛枝は日向の手をしばらく見つめていた。
「おせっかいだね」
 ぽつりとつぶやくと、ほっとけ、と日向は口を尖らせた。どうして日向は自分に構うのだろう。プログラム内の行動を覚えているなら、きっとこんな人間には近づきたくないはずなのに。少しつついてみたら、また恐怖を煽ることができるだろうかと、狛枝は興味本位で切り出した。
「日向クンは、まだボクのことがこわいのかな? だから、こんなふうにボクの様子を見に来るんでしょ?」
「はぁ?」
 本当に予想外の質問だったようで、日向はもう片方の箸をトレイから取り上げながらぱちくりと瞬きをした。
「まだそんなこと言ってんのかよ、お前は」
 今度は日向が呆れたようにため息を吐いた。
「友だちのこと心配するのは、当たり前だ。馬鹿なこと言ってないで、リハビリに行けよ。サボってるから手も動かないんだろ。左右田が泣いてたぞ。せっかく技術の粋を集めた義手なのにってさ」
「……」
「お前とは根気よく付きあっていくって決めたんだよ。一筋縄ではいかないって知ってるからな。おせっかいなのは諦めろ。……じゃあ、箸取ってくるから」
「ナースコール押せばいいじゃない」
「いいだろ。俺がしたいんだ」
「意味わかんない」
「まあ、待ってろって。このままじゃ食えないだろ」
「……うん」
 待ってるからはやくして、というと日向は笑って部屋を出て行った。どうせ、療養施設に割いている人員も多くはないから、手をかけるより自分が動いた方がいいという配慮なのだろう。そうやって他人のことばかり気遣う割に自分のことに十分気が回っていない日向を、狛枝は初めて危ういと感じた。それに、プログラム内の記憶はあるとはいえ、あの友だちになってくれという頼みを、そこまで真に受けているとは思わなかった。
友だちなんて、あんなふうに口に出して言ってもらったことなんかなかったな……
端末がほらね、というようにピカピカと光った。風が弱まったことを感知したのだろう、また少し窓が開いて、涼しい風が入ってきた。窓の方を見ると、鮮やかな緑色が飛び込んでくる。まっしろい病室に良く映える色だった。狛枝は口のなかでうるさいよ、とつぶやいて、友だちの帰りを待った。





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