坂田さんにどんな趣味嗜好があろうが、そんなことはわたしには関係ない。
どうでもいい。
どうでもいいのだ。
だからこれは、きっと、
見て見ぬ振りをするのが正解だった。
「オイ」
「ちょっと近寄らないでください今あれなんであの、あれしてるんで」
「あれってなんだよ違うってお前今スゲー勘違いしてるだろ」
「してません何も考えてませんわたしは何も見てません坂田さんの性癖なんて毛ほども興味ありませんていうかえ?あれ?なにこれあれか、だからうら若き乙女を夜中に家にあげても絶対に手を出さない自信があるんですねそうでしょわたしだと年食い過ぎてるんだ、とかそんなことは考えてません」
「イヤめちゃめちゃ考えてるよねお前違う違う違う違うからねコレ」
坂田さんは違う違うと言いながらため息混じりに、そして面倒臭さを前面に押し出した緩慢な動作でわたしが両の手で確と握りしめていた小さな布切れを奪い去った。
うさちゃんの柄が散りばめられた黄色いパジャマ。
ぐしゃぐしゃと丸められて押入れに入っていたそれをわたしは何故見つけてしまったのだろうか。
図々しくもお風呂と替えの服を借りて、しめった髪の毛をバスタオルで拭いながら応接間らしき部屋に戻ってきたまではいい。そこでわたしはなぜ押入れの方を見てしまったのだろう。ていうか開けっ放しにしとくなよ。そんな怒りさえも湧いてくる。
いやしかし、見てしまったものは仕方ない。
問題なのはその押入れに可愛いパジャマがまるまって置いてあること、そして明らかに誰かが寝ている痕跡があることに気がついてしまったわたしの観察眼の鋭さだ。まったく刑事顔負けである。
これはもう、このパジャマの持ち主がここで寝泊まりしていると考える他ない。
明らかに女児に向けたパジャマ。
小さな押入れに敷き詰められ、だれかが寝ていた痕跡のある布団。
ただよう犯罪の香り。
沖田さんの連絡先がしっかり登録された携帯の所在に思考を巡らせる。カバンの中である。
カバンは、坂田さんの隣だ。
「いや、まて。落ち着けわたし。まだそうと決まったわけじゃない。既婚者、既婚者なんだ。そう、そしてだらしなさに嫌気がさした奥様は子供を連れて昨日出ていった。そうだ。それだ。」
「おい人の話を聞け」
「なんですか人の思考に割り込まないでください」
「全部口に出てるぞ」
「いま整理してるの!わたしのカバンにチョコバーが入ってるからそれでも食べてじっとしといてくださいまったく!」
わたしの脳内で坂田さん既婚者説が浮上したが、果たしてそうだろうか。坂田さんはどうかしらないが、奥様がまさか我が子を押入れで眠らせるなんてことを承諾するだろうか。
そんなのび家のようなことが起こりうるのだろうか。そもそものび家は実子はちゃんと布団で寝ている。押入れで眠らされているのは養子…いや、ペットか…?どっちでもいいや、とにかく子どもを押入れに寝かせるなんてのび家より破綻している。そんなことがあるはずがない。
いや、あるのか?
坂田さんだからあるのか?
ていうか坂田さんを選んで子をなすような変わった女性なら子供が青ダヌキのごとく押入れを寝床にしてもなんの疑問も持たないのだろうか。
ぶつぶつ文句を言いながらパジャマを畳む姿はたしかに良いパパをしているようにも見える。
お父さんくさいとか言い出す年頃の娘さんが来そうな大きさの可愛らしいパジャマ。
そんなに大きい子供がいるようには見えない。14歳の母ならぬ、14歳の父だったのだろうか。
存外綺麗に、そして素早く畳まれたパジャマは机の上にポンと放り投げられた。
坂田さんはといえば青いソファによっこいしょなんて言いながら腰掛けてわたしのチョコバーをサクサクと食べ始めている。
「ご。ご結婚されてたんですか」
「ちげーって」
「じ、じゃあ、妹とか」
「あれだよあれ、従業員」
「従業員…?」
面倒臭そうな態度の坂田さんに負けじと食らいつけば、従業員という謎の返答が返ってくる。
従業員…?そんな小さなパジャマを身につけるような子供が?
今日は別ンとこ泊まりに行ってっけど、いつもは居るんだよそこに。とか言ってるのが聞こえる。
え?なに?よくわかんない。
わたしの怪訝な視線をめんどくさそうに左手でしっしっと払いのけるような仕草をしてみせた坂田さんはこれ以上この話題について語ることは何もないとでもいうかのように、再びチョコバーをさくさくと貪り始めた。
全然解決してない。
でも、なんだろうこの、説明すんのめんどくせーからこれ以上踏み込んでくるなと言いたげな空気は。
「まあ、なんでもいいからとりあえず座れよ」
「…腑に落ちないけどとりあえず座ります、あ、お風呂ありがとうございました。あと服も。」
まあ風呂を貸してもらった恩もある、詮索するのはやめよう。
よっこいしょ、と言いながら目の前のソファに腰掛けてお風呂のお礼を告げれば、坂田さんはおー、と気の抜けた返事を返してちょうど食べ終わったチョコバーの袋をくしゃっとにぎって丸めた。
「ドライヤー使って良いって言ったろなんでソレ」
ぎゅっぎゅっ、と髪の毛の水分をバスタオルに吸わせながら坂田さんが放り投げたチョコバーのゴミがキレイな放物線を描いてゴミ箱に吸い込まれていく様子を見ていたら気づけばさっきまではチョコバーに夢中だった坂田さんの視線が真っ直ぐにこちらに向けられていた。
ソレ、の先の言葉は紡がれなかったが彼の視線から頭の上にかぶさっているバスタオルを指しているのは確実だ。
「あ、…えと、坂田さんいつもお金ないから電気使うの申し訳なくて」
「おいナメんなよ、あれ?なに?喧嘩売ってんの?」
へへ、と曖昧に笑ってお金が…と答えれば、喧嘩売ってんのかと身を乗り出す坂田さんとパチリと視線が合って、その白い眉間に寄ったシワがよく見えた。
「売ってま…あっ」
坂田さんって無駄に色白いよなと頭の片隅でそんなことを思いながら売ってませんよと言いかけたところで、ハタと気付いてしまった。
そういえばわたしすっぴんじゃないか。
髪の毛も適当に拭いてボサボサだし、坂田さんから借りた裾と袖をめちゃめちゃ折りまくったサイズの大きすぎる服とか、こんなの人様に見せていい格好じゃない。机一つ挟んだ距離とは言え、うっすらと浮かべた眉間のシワが見えるほどである。すっぴんはキツイ。
よくわからないがそういういろんな事が突然ササッと脳内を駆け巡って本能のままに慌ててバスタオルを前の方にずらして顔を隠す。
ぐるぐると余った両はしを後頭部に巻きつけて完全に顔面を覆い隠せば、これで完璧だ。
そもそも相手は坂田さんとは言え、こんな生活感丸出しの姿を他人に見せるなんて乙女としてどうなんだ。
「…え?何してんの」
「いや、わたし、すっぴんだったなと」
バスタオルに遮られて見えなくなった視界の向こうで坂田さんが困惑しているのが手に取るようにわかる。
そりゃそうだ。目の前に座った女が突然バスタオルを顔面に巻きつけたら誰だって困惑する。
「いつもと変わんねーよ」
「はあん?喧嘩売ってます?変わんないわけないでしょ乙女の努力ナメんなよ」
「変わんねーって努力ってほど時間かけてつくっちゃいねーだろ」
「変わりますゥ15分はかけてますゥ」
「短けーな努力云々言いてェならせめて1時間はかけてろよ」
「ハッ朝の15分とかめちゃめちゃ貴重でしょ毎朝1時間かけて化粧するなんてそれはもはや努力通り越して修行です尊敬します」
「じゃあ15分でどんだけ変わんのか見てやるよ」
「うるさいあっ寄るな変態」
「全然寄ってねーし、つーか風邪引くから乾かしてこい」
「オトンか」
しかし坂田さんの言い分もごもっともである。
風邪をひいてしまったら大変じゃないか。
お咲ちゃんは帰省で休暇に入るし、わたしが熱を出して休んでしまったらうちの店は大打撃だ。
「チッ、絶対こっち見ないでくださいよ。あとポーチ取ってください。カバンに入ってる。」
「ほら、カバンごと持ってけ」
目の前で坂田さんがもぞもぞと動いた気配の後、
ポーチを乗せてくれと差し出した両手の上に、ずっしりと重たいカバンが乗せられたのを感じる。
こういう気遣いができるのが謎である。
ポーチを探すのが面倒だったのか、女性のカバンを漁るのが憚られたのか、いや、さっきチョコバー探してカバンの中から取ってたし完全に探すの面倒だだだだけだな。
「じゃあ…電気お借りします」
素直にカバンを受け取って、おそらく坂田さんがすわっているであろう空間にぺこっと会釈をして立ち上がる。
バスタオルで遮られた視界のまま記憶を頼りに一歩一歩足を進めると、背後ろから見てねェからソレ取ってけ。転んでも知らねーぞ。という冷めた坂田さんの声が聞こえた。