1日目

じわりとにじむ汗をぬぐって、ため息まじりに曲がった背筋を伸ばせば、ボキッと嫌な音がした。


耳を澄まさずとも良く聞こえてくる耳障りな蝉の声と窓の外から容赦なく差し込む夏の凶器のような日差しに、ため息は尽きない。


夏はなぜこんなにも暑いんだろう。日差しは一体なにが楽しくてあんなにカンカンと照りつけるのだろう。ていうか、夏って必要ですか。必要ないよね暑いだけだよね。


ふつふつと湧いてくるそんな疑問を、うまく働かない頭で処理しながらゆっくりと視線を前に向ける。


黒板の前ではゆらゆらと白く細い煙が揺らめいていた。


「はぁ…」
「はぁ…じゃねーよ。さっきからはぁはぁはぁはぁうるせーんだよ息荒げんな。なんだ?発情期か?」
「先生セクハラです」
「うるせーな何が悲しくてお前みたいなちんちくりんにセクハラしなきゃなんねーんだよ」


ガシガシとふわふわの綿あめみたいな髪の毛をかく銀八はいつもみたいに無駄に白衣をきて、今日も今日とて暑そうなかっこをしている。


「だいたいなァため息吐きたいのはこっちだっつーんだよ、なんで俺が涼しい冷房の効いた職員室からこんなくそあちィ教室にきてるかわかってんのか」
「わかりません先生、暑いならその無駄な白衣脱いだらどうですか」
「ばっかオメーこれ脱いだら俺が俺じゃなくなるだろーが」
「いやちょっと意味わからないです」
「いいから早くやれよお前さァ、先生だって暇じゃねンだよ早くクーラーの効いた職員室に戻って「ジャンプ読むんですよね」そう、ジャンプ読むんだよ」
「遊んでんじゃないですか、学校の設備及び電気を完全に娯楽のために使ってるじゃないですか」
「違ェよ俺はただ人として大切な何かを学ぶ勉強をしてるんだよ」
「うわ、蝉飛んできた」
「おい聞いてんのか」


風を取り込むために開かれた窓からジジっと言う音と共に蝉が入り込んで来て、くるりと教室を旋回している。

夏休み真っ最中の教室には、私と銀八しかいなくて、だからきっとケチな校長はクーラーをつける事を許してはくれなかったのだろう、教室の隅で申し訳程度に小さな扇風機が生ぬるい風を発生させていた。

こんな劣悪な環境で夏の補習なんて出来るはずもないのに。終業式で突然中間テストで一科目でも60点以下があったZ組の生徒は夏休み返上して補習だからなんていう戯言をのたまいやがったクソ校長は今度会ったら頭の猥褻物引っこ抜いて切り刻んでやる事に決めた。ていうかその条件だとほぼ全員補習だ。なぜこんなにも目の敵にされているのだZ組。ちくしょう。

頭の中で逃げ惑う米つぶ程の校長を踏み潰したところで、入ってきた時と同じようにジジっと鳴きながら教室から出て行った蝉によって現実に引き戻される。

どうやら銀八がスリッパで追い払ったようだ。来客用の緑のスリッパをポトンと床に落として履き直しているところだった。

「だって先生、やれって言ったってコレ…ていうか他の奴らはどこに行ったんですか」


現実逃避はやめようと机上に視線を落とせば机の上に広げられたのは難解な文字が連なるプリント。
隣の机にもその隣の机にも、さらにはその後ろの席も、とにかく教室のほとんどの机に同じプリントのセットが置いてあるが、そこには誰も座っていない。


「知らねーよサボりだろ。お前もサボれば良かったのに。」
「先生最低です」
「いいんだよ最低でも最高でもどっちでもいいから何かを極めるっていうのはすごい事なんだよだから早くプリントやれよ」


あっち、とかつぶやいた坂田先生はゆらりとタバコの煙を揺らして教壇の端に置いてあったパイプ椅子に腰かけた。


緩く結んだネクタイが、動きに合わせて白衣に見え隠れするのを眺めて胸の奥がくるしくなる。


なんであんなにネクタイが似合うんだ。
大人だからか。


パイプ椅子に浅く腰掛けて死んだような目で窓の外を眺めるそんな教師にあるまじき姿からなんでかわからないけれど目が離せない。


「補習って普通先生が授業とかしてくれるんじゃないですか」


黙って見つめてるのもおかしいし、そうやって話しかければ外を見ていた先生がぽりぽりと首の後ろを掻いた。


「つーかよォ、お前なんで補習なんて受けてんだ?頭良くなかったっけ?」
「や、なんていうか他の事で頭いっぱいで」
「なんだよ悩み事か。それなら先生が聞いてやっても良いぞどうせ暇だし」
「可愛い生徒の悩みで暇潰そうとするのやめてもらえますか、それと先生に話したところでなにも解決しないので大丈夫です」


私の悩みの種はあんただよ。
そんな事が言えるはずもなく、
べっと舌を出して可愛げのない事を言い放てば、ふーっと白い煙を吐き出した銀八は前はもっと素直ないい子だったのにな…なんて遠い目をして窓際までぺったぺったとくたびれたスリッパを鳴らしながら移動していく。


「そんな事より先生、プリントわからないんで教えてください」
「いやーそれにしてもあっちぃな」
「ねぇ」
「なんでこんな暑いんだろーなァ」
「おい無視すんな」
「だってお前こんなくそ暑いなか良く勉強する気になれるな俺ァ無理だ…もう職員室に戻りたいいちごミルク飲みたい」
「わがまま言わないでください」
「わがままじゃねーよ」
「私がさっさとプリント終わらせられれば涼しい職員室にもどれるんですよ、ほらはやく教えて」
「古文なんて教える事ねーんだよなァ…まあ、あれだな。大事なのはフィーリングだ。」
「教師やめちまえ」


いつもより幾分かキリッとした顔でフィーリングとか言いやがった銀八に間髪を入れずいいかえす。


「うるせーな本当の事なんだよ数こなしゃ出来るようになるんだよていうか国語ってなんだよ教える事なんもねぇよ国語とか。大丈夫生きていればそれが国語の勉強になる国語とはそれ即ち生なんだよ」
「意味わかんないです」
「ああなまえは馬鹿だからな」


国語教師にあるまじき発言に冷たい視線を飛ばすと死んだ魚のような目がこちらをまっすぐに見据えていて、一瞬、ほんの一瞬だけどきりと胸が高鳴った。


「仕方ねーな、教えてやるか」


銀八の視界に写っているのは今、私しかいない。そんな事が頭をよぎったせいで、きっぱりと言い放った先生の言葉なんて耳にはいってこなくて、ただその目をじっと見つめたまま動きを止めた私に、しびれを切らしたのか立ち上がる銀八。


「なにがわかんねーんだよ」


ぺったぺったと履き古しのスリッパがやる気のない音を立てて、
気怠げに歩いてくるその姿をぼんやりと眺めながら落ち着きなくカチカチとシャーペンの頭をノックする。


だって。


かっこいい


なんでこんなにかっこいいんだ


動きに合わせて揺れる白衣とか。
ふわふわの銀髪を掻く意外とたくましい腕とか。
眼鏡の奥のやる気ゼロの瞳とか。


じっとりと汗ばむ教室で吸い込む空気はぬるくて、頭がくらくらする。



「おーい、聞いてんのか、なまえ」
「…きい、てない!」


気づいたら隣の山崎くんの椅子を引き出した銀八背もたれを前にして座り込んで、肘をつきながら私を見ている。


「なんで聞いてねーんだよ嫌がらせか、せっかくやる気を出した先生への嫌がらせですか」
「だって先生が」
「先生がなんだよ」


先生が、ともう一度つぶやいてそれきり黙りこくってしまった私のこめかみに責任転嫁かこのやろー、という気の抜けた声と共に銀八の拳がコツンとあたった。



タバコの香り。
あとなんか甘い匂い。
ふわりと漂って私の鼻腔を擽った。


あ、死ぬかも。



そんな不意打ちのスキンシップに真っ赤になった顔を見せられるはずもなく、
小突かれた勢いのまま机に突っ伏した。






なんだよそれ、かっこよすぎ。