めちゃくちゃにしたっていいんだよ(1)


秋の暮れ。小春日和のこの空気は昼寝にちょうどいい。ぽかぽかとした陽射しが降り注いで眠気を誘う。この季節、窓辺の席はさあ寝てくれといわんばかりのぬくもりに包まれていた。
その心地よさに抗えるわけもなく、四ノ宮砂月は5限の授業をほとんど机に突っ伏して過ごした。音を立てずにすやすやと寝ているからか、教師にも注意されなかった。多くの教師にとって四ノ宮砂月は、起きて厄介事を起こされるよりも、大人しく寝ていてくれた方がありがたい存在なのだった。君子危うきに近寄らず、だ。
しかしそのことわざを敢えて振り払うように、彼を起こそうとする者が一人。

「砂月。6限目は移動教室ですよ。いい加減起きなさい」

トキヤに声をかけられて、毛玉がもぞもぞと動いた。聞こえてはいるらしい。だが顔は机に突っ伏したままだ。
「まさかこのまま誰もいない教室で寝ているつもりですか?」
「んー……」
「それじゃ肯定か否定か分かりませんよ……眠いなら寮に戻ればいいでしょう」
「……放課後は……自主練するんだろ……」
気だるそうな声が返事をする。おや、とトキヤは意外そうな声を上げた。
「練習、付き合ってくれるんですか」
「そういう約束だったじゃねえか……」
「では尚更6限目は来てもらわないと。ほら起きて」

砂月の腕を両手で引っ張って、無理やり机から引き剥がそうとする。しかし砂月の体は糸で縫い付けられているかのように動かなかった。ぐぬぬぬ、と唸り声を上げて引っ張るがびくともしない。トキヤとて非力ではないが、砂月に敵うわけはなかった。
すると、いきなり砂月の手がにゅっと伸びてトキヤの手首を掴んだ。「うわっ」と声を上げてトキヤがバランスを崩す。覆いかぶさりそうになるのを爪先でなんとかこらえた。

「気持ちいい……」
むにゃむにゃと寝ぼけた声。トキヤの手のひらを自分の頬に当てて、うっとりと呟いた。どうやらトキヤの手が冷たくて気持ちいいらしい。陽射しと眠気でぽかぽかと温められた体には、トキヤの低い体温がちょうどよく感じられるのだ。まるで氷嚢代わりだ。
砂月は目を閉じたまましばらくその冷たさを味わっていたが、だんだんと眉間に皺が寄っていく。ひんやりと気持ちよかった氷嚢が、徐々にぬるく、いや熱くなっていったからだ。不審に思ってようやく顔を上げると、顔をじんわりと赤くしたトキヤと目が合った。

「あの……」

困ったような、怒っているような、なんとも形容し難いしかめっ面だった。頬や額だけでなく耳まで赤い。いつもの優等生然とした涼しい顔はどこにもなかった。

「……手、離してもらってもいいですか……」
「お、おう……」

トキヤの反応が予想外で、砂月の眠気は一瞬にしてどこかに飛んでいってしまった。掴んでいた手を緩めると、トキヤはさっと自分の手を引いた。そのまま体も一歩後ろに下がる。勢いよく後退したせいで、近くの机に体がぶつかって音を立てた。

「悪かったな……」
「い、いえ……」
そのまま二人とも黙り込んでしまう。
砂月は、自分が無意識に取った行動が、相手をこんなにも動揺させているという事実に動揺した。気まずい。そして気恥ずかしい。心臓の音や呼吸の音が相手に聞こえてはいないかと疑わしくなる。トキヤにつられて自分まで顔が熱くなっているような気がした。




そんな二人の様子を、翔とレンは廊下から教室のドア越しに眺めていた。
教室移動のためトキヤを待っていたのだが、この調子だと待つだけ無駄のようだ。もう自分たちだけで行ってしまった方がいいだろう。二人に気付かれないように忍び足で廊下を歩いていく。
途中で、翔が耐えきれないというように口を開いた。

「……なあレン、確認するけどさ……あいつら、あれでまだ付き合ってねえの?」
「そうらしいよ」
「マジかよ………………………………」

その溜息の長さに、翔の絶望感がありありと表れていた。頭を抱える翔の横でレンも呆れ顔をしている。
「あれだけ見せつけておいて、本人たちはまったく自覚なしっていうのがねえ」
「タチ悪っ……」
恋愛禁止の早乙女学園において、本当にあれで退学処分を食らわないと思っているのだろうか。思っていないんだろうな……だって自覚ねえんだもん……と翔は天を仰ぐ。

お互いに好意のオーラを振り撒いておきながら、彼等はおそらく自分が相手を好きだという自覚は薄いだろうし、まして相手が自分を好いているとはこれっぽっちも思っていないだろう。そして恐ろしいことに、周りにそれがバレバレだということも一切想定していない。本来周りをよく見て気配りができるはずのトキヤですら、自分のことになると凄まじい鈍さを発揮する。砂月だってそうだ。
何故こんな奇跡のような組み合わせができてしまったのか。そして自分たちはなぜそんな奴らの友人になってしまったのか。強運というか不運というか。あの二人に付き合わされる自分たちの境遇を嘆くしかない。

「トキヤってさあ……普段ツーンとした顔してるくせにすげえ分かりやすいよな……」
「結構すぐに顔に出るしね」
「しかもめっちゃ砂月のこと見てるんだぜ?授業中とか休み時間も」

翔は砂月と近い席に座っているのでよく分かっていた。授業中、なんか視線感じるな……と思うと、トキヤがこちらを――正確に言えば、翔の近くにいる砂月をじっと見つめているのだ。砂月が寝ている時はなおさら。待ってましたといわんばかりに、それこそお得な見つめたい放題プラン実施中だ。しかし、砂月が起きると素早く視線を外す。砂月がこっちを見ている時は絶対に目を合わせない。だが、砂月が珍しく課題に取り組んでいる時だとか、窓の外を眺めて欠伸をしている時なんかには、やはりしっかりと視線を寄越している。真顔で。
え、何?なんかの勝負なのお前ら?と思わずにはいられない。

「ああそれ、オレもまったく同じ現象の逆バージョンを見たよ」
レンが心なしかうきうきした様子で声を上げた。彼にも報告したいことがあるようだ。
「シノミーの方もさ、負けず劣らず凄い見てるんだよねえ」

先週の実習での出来事だ。アイドルコースの生徒はバラエティ番組に出演している体で会話し、作曲家コースの生徒はそれを見て加点式で評価する、という実習だった。
クラスの中で4グループに分かれて行ったのだが、レンと砂月はたまたま同じグループになった。他のグループが実演する中、砂月は興味なさそうにスタジオをふらふらしていたのだが、トキヤのグループが始まった瞬間に立ち止まったのだ。顔を上げて、まっすぐに視線を注ぐ。もちろんその視線の先にはトキヤがいた。トキヤがトークで場を盛り上げたり、司会役の生徒をフォローしたりする様子を、ただじっと見つめていた。

「スタジオが薄暗いから気付かれないと思ったのかな?すごく夢中だったよ」
「あー……そういうとこあるよな、あいつ……」
納得だというように翔は頷いた。砂月はきっと今頃くしゃみをしていることだろう。

「あいつら、やっぱり何かあったよな?元から距離感バグってるとこあったけど、最近はもっとこう……見てるこっちが恥ずかしいというか」
距離感がおかしいのは今に始まった話ではなかった。例えば、口喧嘩をしているはずなのにやたらと顔が近かったり、食堂で向かい合わせに座ればいいのに何故か隣に座っていたり、暑苦しいと文句を言いながら鼻先が付くような近さで打ち合わせをしたり――枚挙にいとまがない。

だが最近はそこに気恥ずかしさのようなものが混じっているように思えるのだ。手が触れそうになったらすぐさま引っ込めるような、不意の接触に動揺するような。距離が近くなったかと思えば、慌てて遠ざかったりもする。通常運転だったものが通常運転でなくなる違和感。

「それはまあ……意識してるってことなんじゃないの?」
レンの口元がゆるゆるに緩んでいる。友人の色恋沙汰が愉快で仕方ないという顔だ。それが四ノ宮砂月と一ノ瀬トキヤという二人であるなら尚更、ということだろう。
「二人で福岡に行ったあたりからだよな。明らかに雰囲気変わったの」
「一線越えたのかもね」
「い……一線ってお前……」
「おっと、この話題はおチビちゃんにはまだ早かったかな?」
「余計なお世話だわ!」
顔を真っ赤にさせた翔が喚くのを横目に、レンは高らかに声を上げて笑った。


◆◆◆


四ノ宮砂月は悩んでいた。生きてきてこれまでにないほど思いつめていた。
おかしい。目の病気なのだろうか。いや、そんな病気など聞いたことがない。何度目を擦っても同じように見えるし、試しに頬をつねっても当たり前に痛い。夢ではない。ではどうすればこの現象に説明がつくのか。

―― 一ノ瀬トキヤが、きらきらして見えるのだ。

冗談を言っているのではない。ふざけてもいない。本当にそう見えるから困っている。
授業中に指名されて答える横顔だとか、ボイトレで背筋を伸ばして歌う姿だとか、夕食を作っている時の背中だとか、とにかくすべての場面においてきらきらして見える。星屑がトキヤの周りにだけ舞っている。昼夜問わずだ。光が差し込んでいるわけでもないのに眩しい。
眩しいので、トキヤを顔を合わせる時は目を細めてばかりだ。すると睨んでいると思われるのか「人の顔を見てそんな目つきをしないでもらえます?」と言われた。睨んでいるわけではない。だが「お前がきらきらして眩しいからだ」などと正直に言えば、間違いなく頭のおかしい奴だと思われる。いや、既にもうおかしくなっているのかもしれない。やはり何かの病気なのだろうか。

そうやって星を振り撒いておきながら、トキヤ自身にはそんな自覚がないらしい。眩しいのに遠慮なくこちらに近付いてくるので正直困る。本当に困る。砂月がたまらず一歩後ずさるとすかさず一歩詰めてくる。「なんなんですか?」と眉を顰めながら。それはこっちの台詞だ。近付かれると余計に眩しさを増して目が潰れそうになるので、目を逸らす。そうするといくらかマシになった。
視線が合わなければ平気だった。相変わらずきらきらしてはいるものの、眩しくて目が開けていられないほどではない。だから、トキヤが違う方に意識を向けている時に見つめるようにした。自然と、横顔や背中を見ることが多くなった。

観察していて分かったことだが、トキヤは横顔の輪郭がやたらと綺麗だ。いや、顔はもともと異様に整っているが、横顔は特に気に入っていた。日に当たらない白い顔に、長い睫毛が映えている。秋から冬にかけてのひやりとした空気の中に立っていると、その輪郭の美しさがより際立つように思える。夏の生まれであるはずなのに、どちらかといえば秋や冬の方がしっくりくるのが不思議だと、ぼんやり思った。

それと、背中。制服を着ているとそうは感じないが、ジャケットを脱ぐとその背中の薄さに驚いてしまう。鍛えてはいるようだから決して華奢なわけではないのに、どうしてかそういう印象になった。
トキヤはいつも背筋を伸ばしている。お手本のように正しい姿勢で椅子に座る。だが、その背筋が自信をなくして丸まる姿を見たことがある。きっとそれを知っているのはごく限られた人間だけだろう。そう思うと優越感のようなものを感じた。

見つめれば見つめるほど、いろいろな感情が湧いてくる。こんなふうに誰か見つめ続けたことはなかった。何もかもが初めてのことだらけだった。
ちりちりと胸が焦げるような感覚がある。内側で何かがくすぶっている。その正体はまだ分からない。ただ――そういう錯覚に陥る時、決まって思い出すのは、トキヤとキスをした時の光景だった。

あれは、ほとんど衝動的なものだった。
トキヤの歌声が戻ったこと。取り戻した声で歌われた歌が、泣きそうなほどに美しかったこと。ステージを去って駆け出していくトキヤの背中が、泣いているように見えたこと。
その時に起こった出来事で感情がぐしゃぐしゃになって、手が付けられなくて、気付いたらキスをしていた。
一ノ瀬トキヤという人間を、たまらなく愛おしいと思ってしまったのだ。

――答えは出てるじゃないか。

そうだ。最初から分かっていたはずだった。目の病気などではない。幻覚でもない。そういうふうに想っているからそう見えているだけ。当たり前の帰結だった。
後戻りできないとしても、いい加減腹をくくって認めざるを得ない。トキヤを好きだというこの想いを。
そして、認めなくてはいけないものはもう一つ残っている。一ノ瀬トキヤに向ける感情には、「好き」というきらきらした純粋なものだけではない。もっと濁っていて、どす黒くて、誰かに向けるのを躊躇われるような――そんな感情も確かに存在している。



「砂月?」

悶々としていたところに思いがけず声が降ってきて、砂月は飛び上がりそうなほど驚いた。心臓が大きく跳ねる。早鐘のように脈打つ。
「探しましたよ」
嬉しそうに、ふわりと笑う。砂月が抱える感情などまるで知りもしないような顔で。
今まさに頭の中で思い描いていた人物が、そこに立っていた。

「……お、まえ、なんでここに」
息も絶え絶えに言うと、トキヤは憤慨したように口を尖らせた。
「それはこっちの台詞です。校内のどこを探してもいないから、散々歩き回ってしまいましたよ。こんなところにいたんですね」
そう言って、砂月の隣に腰を下ろす。芝生の上に寝そべっていた砂月は、反射的に体を引いてトキヤから距離を取った。近付いては、いけない。
その反応を見て、トキヤは不審そうに眉根を寄せた。
「なんですか、人をまるで腫れ物みたいに」
「いいだろ別に……」
眩しさに視線を逸らす。やはり真正面から目を合わせられない。トキヤは「はいはい」と溜息をついた。

風のない、穏やかな昼下がりだった。柔らかい陽射しが降り注ぐ。光を受けた芝生はほのかに温かく、天日干しをしたばかりの布団のようにふわふわしていた。
トキヤは背後の木に背中をもたれさせた。

「最近5限目をサボりがちなのは、ここで昼寝をするためですか?」
「……まあな。お前、俺を連れ戻しに来たのか」
「いいえ?今更そのサボり癖を矯正する気はありません。ただ単にあなたの居所が気になっただけですよ。……いい場所を見つけましたね」
「だろ」

昼休みも終わりが近い。だが、トキヤはいつまでたってもその場を離れる様子もなく、目を細めて瞬きを繰り返している。
「本を持ってくればよかった。ここでなら、読書が捗りそうです……」
「ここに来てまで読書かよ。やっぱ昼寝が一番だろ。どうする、いっそのこと一緒にサボるか」
「……それも、いいかもしれませんね……」
消え入るような声を最後にして、トキヤの言葉は途切れた。それきり何も返事がない。
砂月が体を起こして覗き込むと、トキヤは目を閉じて静かに眠っていた。呼吸に合わせて上下する胸と、伏せられたながい睫毛。顔の前で手を振ってみても起きる様子はない。

――こいつ、俺の前で寝やがった。
砂月は信じられないものを見る目でトキヤの寝顔を凝視した。ペアを組む前の、敵愾心剥き出しの頃のトキヤからはまったく考えられない姿だった。
木に背中を預け、脱力した体。唇はほんの少しだけ開かれている。こんな「だらしない」格好を晒していいのか。青空の下、誰が見ているかも分からない場所で。安心しきったような顔をして。……あまりにも、無防備だった。

どうしてお前はこんな顔で寝てるんだ。気安く人に寝顔を晒すような奴じゃないだろう、お前は。まして俺なんかに見せていいのか。俺とお前は目が合ったらすぐ喧嘩になるような仲だっただろう。冷たい目で俺を見下ろして、いちいち厭味ったらしい口調で文句を言ってきて。だから俺は負けじと言い返す。あれが駄目これも駄目と、重箱の隅をつつくようなことばかり言って、お前に勝った気でいる。そういう嫌な奴だっただろう。そんな俺の前で、どうして無防備に寝てられるんだよ。

遠くでチャイムが鳴った。それでもトキヤはまだ目を開けない。
――違う。こいつは、俺の前だから、こんな顔で寝ていられるんだ。
トキヤは、他の誰にもこんな顔は見せないだろう。翔やレンにすら。砂月だからこそ、許されている。
「…………」
砂月は崩れ落ちるようにその場で膝を折った。トキヤに深く信頼されているという事実は、砂月に深い安堵をもたらし、同時に底無しの罪悪感を植え付けた。胸がじりじりと焦げ付くように痛む。

罪悪感の正体はとうに分かっている。
一ノ瀬トキヤという、ここまで心を許してくれた相手に、ひどく浅ましい情動を抱いているということ。

ゆらりと顔を上げた。トキヤの体は、砂月が作った影にすっぽりと収まっていた。
その目はまだ開かない。薄く開かれた唇がその無防備さを物語っていた。――ああ、思い出してしまう。初めて唇を奪ったあの時。興奮と衝動に任せてすべてをぶつけた。抱いた腰の細さ。睫毛の端からこぼれた雫。蕩けるような舌。交わされる熱と熱。忘れられるわけがない。もう一度、あの感覚を味わいたいと思わずにはいられない。
喉が鳴る。心臓の音がうるさい。寒くもないのに熱を感じる。呼吸が浅くなる。

ここでいきなり唇を塞いだら、こいつはどんな反応をするだろう。長い睫毛がばっと上に持ち上がって、目をいっぱいに見開くに違いない。俺を押し返そうとする手を掴んで、そのまま芝生の上に押し倒す。抵抗されたら体の自由を奪う。やめろと言われてもやめてやらない。とろとろになるまで舌を絡めて、溢れる唾液を吸う。きっと耳も弱い。耳を齧って、ねぶって、力が入らなくなるまで責めてやりたい。首筋や鎖骨に吸い付いてあの白い肌に印をつける。俺のものだと刻み付けて分からせてやる。体に触れて、着ているものも全部脱がせて、なにもかも晒し上げる。無理矢理にでも体をこじ開けて、それから――

「ん……」

砂月の体の下で、トキヤが身をよじった。
「………………っっっ!!!!!」
瞬時に我に返った砂月は、一息で3メートル後方へ飛び退った。ドッドッドッドッと心臓が割れんばかりに脈打っている。全身から冷や汗が吹き出した。
トキヤはもぞもぞ体を動かすと、何やら寝言を呟いてまた動かなくなった。長い沈黙が襲う。穏やかに寝息を立てるトキヤとは対照的に、砂月はひどく緊張したまま硬直している。

――なんてことを考えているんだ、俺は。
トキヤの寝顔が穏やかであればあるほど、砂月の罪悪感は深く刻まれる。恐る恐る視線を下に向ければ、体は素直すぎるほどに反応していた。
砂月は無言で自分の頬を殴り付けた。全力で、容赦なく。間髪を入れずにもう片方の頬も殴る。鈍い音が青空の下に響いた。衝撃で視界が歪み、鼻血が吹き出た。それでも構わず自分を殴った。何度も何度も。
異変に気付いて起きたトキヤが慌てて止めに入るまで、砂月は繰り返し自分の頬を殴り続けていた。


◆◆◆


放課後。
神宮寺レンは両隣に女子生徒を侍らせ、今日はこの後どこに行こうか、ゆっくり散歩でもしながらお話しようか、などと他愛もない会話を楽しんでいた。今日は珍しく授業に全部出たのだからそれくらいいいだろう。
ウフフアハハと周りに蝶が舞っていそうな空気を思う存分味わっていたのだが、目の前に現れた人影が一瞬にしてその空気を台無しにした。

「おい……顔貸せ」

四ノ宮砂月である。たぶん。砂月その人だと自信をもって言い切れないのは、彼があまりにも酷い顔をしていたからだった。両頬はぱんぱんに赤く腫れ上がり、申し訳程度に貼り付けられたガーゼはほとんど意味を成していない。どこぞのヤクザの抗争にでも巻き込まれたかというような有様だ。
顔も酷いが、彼の纏うオーラはそれ以上に重く淀んでいた。この世のすべてを呪いそうなほど。

ゾンビのような砂月の風体を見て恐れをなした女子生徒たちは、蜘蛛の子を散らすようにレンから離れていった。周囲を歩いていた他の生徒たちも、砂月を見るとぎょっとして後ずさり、早足でその場を立ち去っていく。
ただごとではない。レンは顔を引きつらせた笑顔で砂月と相対する。
「……できればお断りしたいんだけど、そういうわけにはいかなさそうだね」
「…………」
無言の圧。砂月はおどろおどろしいオーラを発したまま拳を握った。ぎりり、と唇を噛む。そしてしばらく何かに耐えるように床を凝視していたが、ようやく顔を上げた。

「お前を『愛の伝道師』と見込んで頼みがある……」

いやそれそんな屈辱的な目をして言う?
レンは発しかけた言葉を慌てて呑み込んだ。砂月の口から「愛の伝道師」などという単語が飛び出してくるとは思わず、つい吹き出しそうになったが必死でこらえた。こんな状況で笑ったら命の保証はない。砂月にとって、神宮寺レンという男を頼るということは屈辱以外の何物でもないのだ。そして、そんな屈辱に耐えてまで砂月は何かをしようとしている。
何?オレ、犯罪にでも巻き込まれるの?背筋にひやりと冷たいものが走るが、気のせいであってほしい。
顔を青ざめさせたレンに、砂月が一歩近付いた。ゾンビのような動きで両腕が上がり、レンの肩をがっと掴む。

「――助けてくれ」

砂月の口から出てきた言葉は、存外素直な言葉だった。




人けのない場所をどうにか探し当てて、置かれたベンチに砂月を座らせる。腰を落ち着けた砂月は、重く低い溜息をついた。
その隣でレンは、どうしたものかと思案を巡らせる。ご指名で助けを求められて、適当な相談を受けるわけにもいかない。まして相手はあのプライドの高さに定評のある砂月だ。どれほどの悲壮感で縋ってきたのか。
一応、おおかたの事情は察してるつもりではあるが、砂月がここまで気を落とす状況になるとは思わなかった。トキヤが関係していることは間違いない。そういえば午後の授業は二人とも来ていなかったが、そこで何かあったのだろうか。

「シノミー、そのすごい怪我どうしたの?」
「…………」
無言。頑なな空気を感じる。どうやら絶対に言いたくないことらしい。問い詰めないほうが懸命だ。
「……あのさ、何をそんなに思いつめてるんだい?」
「………………トキヤの、ことで……」
ようやく砂月が口を開いた。だが口が重い。自分で言葉にして伝えるのが難しいようだ。感情の整理がつかないうちは仕方ないだろう。ここは、砂月が答えやすいように質問を変えるべきだと判断した。一問一答形式なら、今の砂月でもなんとか答えられるだろう。

「イッチーと喧嘩した?」
首を横に振る。
「じゃあ、イッチーが何かしてるのを見てショックを受けた、とか」
また首を横に振る。
「……あいつは、何もしてない。俺自身の問題だ」
「うーん……」
このままでは埒が明かない。レンの見立てでは、二人にこれといったトラブルがあるようには見えなかったし、むしろその逆で、いかにも両片想いの恥ずかしい空気ににやけ顔が止まらないくらいだった。くっつくのは時間の問題だと思っていたのだが。……そもそも、くっつく以前にどこまで進展しているんだ、この二人は?
「そうだ」とレンは声を上げた。

「正直なところ、二人は福岡旅行の時にどこまで行ったの?」
「どこまでって……」
「だから、例えばセッ……」
そこまで言いかけたところで、砂月が猛烈な勢いでレンの顔を鷲掴みにした。いわゆるアイアンクローだ。
「……それ以上言ったら殺す」
「いだだだだだストップストップ!!!ごめんって!」
砂月は物凄い形相でレンの顔を締め上げる。「殺す」の言葉に偽りはない。レンが必死で謝り倒すと、砂月はようやく手を離した。レンは痛むこめかみを押さえながらひいひいと声を上げた。この状態の砂月を怒らせるものじゃない。
砂月はもう一度ベンチに座り直した。これ以上無いほど眉間に皺が寄っている。長い長い沈黙の後、聞こえるか聞こえないかくらいの声でぼそりと言った。

「……………………………………キスは、した」

すごい溜めたなあ……というのがレンの率直な感想だった。その「溜め」の中にさぞかし色々な記憶と感情が籠もっているのだろうと察する。
キスは、とわざわざ言うからには、それ以上のことはまだしていないらしい。二人のそわそわした距離感からして、てっきり最後まで済ませたのかと思っていた。案外純情なんだね、と拍子抜けしてしまう。

「でもあの時は、俺もあいつもかなり感情が高ぶってて……その場の勢いというか……」
「イッチーは嫌がったりしたの?」
「いや……割とすんなり応え……おい言わせんな」
「言ってきたのそっちでしょ」
砂月の顔が赤い。シノミーも男の子だねえ、と口元が緩んでしまう。そんなことを言えばまた顔を鷲掴みにされそうだから黙っているけれど。

「……受け入れられたから、分からねえんだよ。あいつが俺に気を許してくれてんのは分かるし、信頼されてるのも感じる。でも、そういう関係として見てるのかは分からない。俺があいつに向けてる感情と、あいつが俺に向けてる感情は、たぶん違う。……あいつは、俺がこんなになってることも知らない……」

そうしてまた項垂れる。重症だ。真っ赤に腫れた両頬が痛々しい。
「シノミーのその怪我って、もしかして自分でやったの?」
こくり。一度だけ頷いた。……ははあ。なんとなく掴めてきた。レンは顎に手を添えて何度か頷いた。

「つまり、シノミーはイッチーとキス以上のあれやこれもしたくてどうしよう、ってこと?」
「………………」
「イッチーのことを大事にしたいし、そもそもイッチーが自分を好きかどうかも自信がないから、今は一生懸命耐えてるものの……正直、我慢の限界だと」
「……………………………………」

沈黙が痛い。砂月は握り締めてわなわなと震えている。再度の鷲掴みの危険を察知してレンは身構えたが、砂月のアイアンクローが飛んでくることはなかった。……ほぼ、レンの言った通りだったからだ。無言の肯定だった。
レンは天を仰いで唸った。別にそんなに悩むことじゃなくない?とすら思う。傍から見ている分には二人は十分すぎるほど両片想いだし、砂月がそれほど自分を抑え込む必要もないと感じてしまうのだ。ただ、それは第三者から見た感想にすぎない。当事者の砂月にとっては超えられない分厚い壁があるのだろう。

「まあ、好きかどうかに関してだけ言えば……心配しなくても、イッチーは確実にシノミーのこと好きだと思うけどね」
「……本当か」
「だってイッチー、すごく顔に出るし。あれで好きじゃなかったら詐欺だよ」
「……………………そうか」
砂月が安堵したように肩の力を抜いた。よかった、少しは気が楽になったかなと思ったら、今度は頭を抱えた。また何かあるのか。

「……好きなら好きで、問題だ」
「何が」
「またあいつを目の前にしたら……歯止めが利かなくなりそうで……怖い」

蚊の鳴くような声だった。
こんなにしょげ返っている四ノ宮砂月は貴重だった。普段は百獣の王のごとく振る舞っているのに、今日はそんな姿は見る影もない。垂れた耳としっぽの幻覚が見えるようだった。
もっと自分から押すタイプなのかと思っていたが、意外と奥手で臆病なところもあるらしい。

「あいつのことは……大切に、したいんだ」

――オレは惚気話を聞かされるためにここに来たのかな?
砂月は本気で思いつめているので茶化すわけにはいかないのだが、どうもそう思わずにはいられなかった。
好きな子をいじめてしまうという子供はよくいるが、実際は接し方が分からなくてその方法しか取れないだけなのだ。砂月はその極端な例と言える。そして彼は、親しくなるまでは喧嘩や意地悪を繰り返してコミュニケーションを図るものの、実際のところ、本当に好きになった相手は大切に守り抜いて、誰にも傷つけさせないように抱きかかえていたいと思う人間なのだ。那月に対しての態度を見ればよく分かる。やや過保護すぎるきらいがあるのもそのせいだろう。
そして厄介なことに、彼は他人が傷つけるのはもちろん許さないが、自分が相手を傷つけるのはもっと許せないと思う人間でもある。だからこんなに拗れているというわけだ。

「んー……シノミーの気持ちはよく分かったよ。でもさ、シノミーはイッチーがどう思ってるか考えたことある?『分からない』ってばかり言ってるけど」
レンの言葉に、砂月は顔を上げた。
「イッチーの顔、思い出してみなよ。どんな表情でシノミーを見て、どんな声で呼んだか」

――仏頂面。駄目出しを食らって不機嫌な顔。負けじと言い返そうと釣り上がる眉毛。不意にこぼれる笑顔。自信をなくして震える唇。安心したように細められた目。さつき、と呼ぶ声。まるで大切なものを抱き締めるように、その三文字を紡ぐ声。……お前も、俺と同じ気持ちなのか。

砂月の表情を見て、レンは眉を下げて笑った。そうだよ、シノミーが考えている通りだよ、と微笑む。
「シノミーが思うほどイッチーはか弱くもないし、そんなことで気持ちが揺らぐほどヤワでもないと思うよ。イッチーの強さはシノミーが一番よく分かってるだろう?隣でずっと見てきたんだから」

間違っても、守られてばかりで震えるだけのか弱いお姫様などではない。自分のやりたいことに向かって突き進み、誰に何を言われてもぶれない芯があった。どんなに打ちのめされても立ち上がって藻掻く。悪あがきをする。
HAYATOの件で報道で取り沙汰された時もそうだった。突然歌うことができなくなった時も。心がずたずたに引き裂かれそうになっても、最後は必ず前を向いた。歯を食いしばりながらその場に留まり続けた。
砂月が知る「一ノ瀬トキヤ」は、そういう人間だった。

「……じゃあ、俺は一体どうすればいいんだよ」
「それこそ、正直にそのまま打ち明けてみれば?」
「それができれば苦労しないっつうの……」
「頭の中でぐるぐる悩んでるなんてシノミーらしくないな。もっと素直にいってごらんよ。ハートの炎の赴くままに、さ」

砂月はまた黙り込んだ。レンは、もうこれ以上の言葉掛けはいらないだろうと感じた。砂月の想いは十分に引き出せただろう。あとは各々がどうにか互いの気持ちを伝え合うしかない。そればかりは、当事者の二人にしかできないことなのだから。




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