ふたりで奏でるソリスティア【前編】2


――本当に、どうしてこんなことになったのか。

白いまな板の上で玉葱を櫛切りにするトキヤの表情は曇っていた。
たんたんたんたん、と包丁の軽やかな音が手狭なキッチン内に響く。野菜を切るのはもう慣れたものだ。考え事をしながらでも完璧に、一ミリの狂いもなく等間隔に切れる。それは自炊生活で培ってきた経験からくる自信だった。
……ここが四ノ宮砂月の部屋の中でなければ、もっと気楽に料理ができただろうに。眉間の皺が深くなる。そう、こんな場所、こんな時でなければ。
砂月の命令には逆らえず、結局トキヤはわざわざ砂月の部屋を訪れ、こうして肉じゃがを作るはめになってしまった。

ノックしたドアが開けられ、砂月が「よく来たな」と出迎えたあの瞬間の表情を忘れることができない。自分から罠にかかりに来やがって馬鹿だなお前、とでも言いたげな顔に見えた。思い返すにつけて腹立たしい。しかもその後ろくな会話も交わさずに「肉じゃが」と一言だけ言ってキッチンを顎で指したのも気に食わない。あの男はトキヤを家政婦か何かとしか思っていないのだ。それでよくパートナーだペアだと言える。
あの時、堪忍袋の緒を切らせていなかっことは褒められていいはずだ、とトキヤは自分の忍耐強さを讃えることで何とか理性を保っていた。

じんわりと瞼の裏側に滲む熱が、玉葱によって目が染みた結果のものなのか、それとも別の要因によって引き起こされたものなのかは、トキヤにも分からなかった。
これから二人で食卓を囲まなければならないかと思うと気が遠くなるが、砂月をカボチャだとでも思えばまあ何とか持ちこたえられるだろう。とにかく一刻も早くこの部屋から出たい。そのためにも夕食を完成させなければ、とトキヤは包丁の動きを速めるのだった。



結果、テーブルに並べられたのは、THE・無難と表現したくなるような、当り障りのないごく普通の和食メニューだった。
砂月がメニューに唯一指定してきた肉じゃがを中心に、豆腐、ワカメ、えのき、じゃがいもを入れた味噌汁と、ごぼうサラダ、焼き魚、だし巻き卵、そして白米。これでいいのかと作っている最中に何度も頭を悩ませたが、本人から指定されたのが一品だけなのだから、それに合わせたメニューを考えるしかなかった。文句は言わせない。

「……へえ、なかなかだな」

トキヤが料理をしている間、手伝いもせず部屋のソファーにふんぞり返っていた砂月は、美味しそうな匂いにつられてテーブルへとやって来た。
言うに事欠いてそれか、とトキヤは内心溜息をついた。砂月の評価軸で「なかなか」がどれだけの位置にあるかは分からないが、感心したような口ぶりからすると、どうせ「お前にしては」という言葉がその前についているのだろうと思った。

幸いなのは、冷蔵庫の中にそれなりの食材が揃えられていたことだ。今日のために用意したというわけではなさそうで、使いかけの食材も見られた。
もしかしたら砂月は日常的に自炊をしているのだろうか。那月の作る料理は悲惨だが、血が繋がっているからといって料理の腕前も似るとは限らないらしい。自分で作れるならわざわざ私に頼まないでくださいよ、と不満が零れそうになるが頭の中だけに留める。

本当ならここでお暇申し上げたいところだが、食事を共にするというのが今回の主旨らしい。砂月は既にテーブルについている。トキヤは渋々ながらエプロンを脱いで着席した。
二人しかいないのだから当たり前だが、真正面から向き合うのはトキヤにとって非常に気まずかった。何が悲しくて同室でもない相手と食卓を囲まなければならないのか。相手が音也ならば仕方ないことだと諦められるしもう慣れているが、今目の前にいるのはよりによって砂月だ。せっかく作った夕食も満足に味わえないのではないかという気にさえなる。ここは腹をくくるしかない、とトキヤは思い直して箸を取ろうとした。

――が、そこでふと、あることに気付く。砂月はトキヤよりも先に席についていたのに、一向に食べようとしないどころか箸にさえ手を付けていない。これはどういうことだろう。
トキヤは恐る恐る視線を砂月に向けた。……思い切り目が合う。おそらく席に着いた時からだろう、砂月はトキヤをじっと睨みつけていた。

「……あの、」
「早くしろ」
「え?」
「『いただきます』するんだよ」

砂月はそれが当たり前のことであるかのように言い切った。もしかしてそのために待っていたのか、とトキヤはやっと砂月の行動の理由に思い至る。砂月が両手を目の前に合わせる仕草をすると、トキヤも慌ててそれに倣う。

「「いただきます」」

高さの異なる二人の声がぴったりと重なり、六文字の言葉を紡いだ。
砂月はその言葉と共に軽く頭を下げ、閉じていた目を開けて箸を手に取った。しかしトキヤは、いただきますを終えた状態のまま、ぽかんと呆けたように砂月を見ていた。未だに信じられないとでもいうかのように。
それにも構わず砂月は白米をもぐもぐと食べていたが、トキヤの視線に気付いたのか目だけを上にずらす。

「……何だよその顔は」
「いえ……ちゃんと『いただきます』を言うのが少し意外で」

まさに「意外」という表現しかなかった。トキヤが抱く砂月の印象といえば、暴力的で非常識で礼儀がまるでなっていない、という悪の三連コンボだった。実際にそれを身にもって体験してきたのだから今更否定する気はないが、しかし。

「意外?飯食う前に食べ物に感謝を示すのは常識だろうが」

――と、彼は言うのである。
確かに常識といえば常識だが、一ノ瀬トキヤがイメージする四ノ宮砂月像に照らし合わせるとどうも噛み合わない。彼の「常識」は幾分ずれているというか、一般的に「常識」とされている部分をすっ飛ばして、普通は誰も気にしないような部分だけを折り目正しく守っている。おそらく彼はゴミを自分に向かってポイ捨てされたとして、ゴミが自分に当たったことよりも、美しい景観がゴミによって乱されたことに対してマジ切れするタイプだろう。そんな気がする。

黙々と食べ進む彼の背筋はぴんと伸ばされ、焼き魚を始めとする食べ方もとても綺麗だ。見た目と普段の素行からは考えられないほどの丁寧さだった。こういった場でこそその人自身の本質が表れるというが、果たしてどれを信じればいいのだろう。
混乱しつつも味噌汁を啜る。だしの良い香りが鼻を掠め、トキヤは我ながら中々の出来だと思った。

「お前料理上手いんだな。気に入ったぜ、この味」
それまで無言で食事をしていた砂月が、不意に声をかけてきた。見れば彼の器に盛った肉じゃがが既になくなっていた。食べ方こそ丁寧だが、食べるスピードはかなり速い。
彼から賞賛の言葉をかけられたのは初めてのような気もするが、あまり褒められたような気がしないのは、普段の散々な言われようを経験しているからだろう。

「私の実家では、普通より少し甘めの味付けをしているので。気に入ってもらえたなら何よりです。……料理の腕に関しては聖川さん程じゃありませんけどね」
一人暮らしをして一番役に立ったのは、自炊のレパートリーが増えたということだろう。必要に迫られれば誰でも上達する。だが、それはあくまでほとんど一から始めた頃と比べてという話で、昔から日常的に料理をしてきた人と比較しようとは思わない。
ごく当たり前のことを言ったはずだったのだが、砂月は納得いかないというように首を傾げた。

「でも、この味はお前にしか出せないだろう。……歌だって同じだ」

トキヤはきょとんと目を見開いた。箸を止め、何度か瞬きを繰り返して砂月を見る。
――これは、肯定されている、と受け取ってもいいのだろうか。上手い下手は関係なく、自分にしかできないことこそ大切だと。
だが、砂月は自らが発した言葉の意味になど頓着していないのか、トキヤの視線を気にも留めずだし巻き玉子を頬張った。歌について触れたのはついでのような感覚だったのかもしれない。彼はたぶん、そこまで深く考えて発言しているわけではなく感覚で喋っている。だが、その研ぎ澄まされた感覚が選ぶ言葉は、トキヤの胸の奥に柔らかく着地した。

(……少しは、見直すべきかもしれませんね)

トキヤの砂月に対する印象は僅かに変化していた。第一印象が最悪だったのだから、そこからは下がりようがないとも言えるが、少なくとも悪い方へは行っていない。
かといって彼を認めたわけではなかった。入学してから積み重ねられてきた恨みつらみはまだ根強く残っている。この程度で絆されるほど軽いつもりはない。

「おい」
砂月の一声で、トキヤはそれまでの思考を中断させた。顔を上げると砂月が茶碗を差し出していた。おかわり、という無言の要求だ。

「……何ですかそれ」
「見れば分かるだろ」
「いいえ?言葉で言われないと分かりません」
「……」

砂月は忌々しげに眉をしかめて「おかわり」とぶっきらぼうに言った。だがトキヤの追撃は止まらない。
「それが人にものを頼む態度ですか?単語だけで伝わるなら文法なんていりませんよ。ちゃんと一文にして言いなさい」
まるで教師が小学生に生活指導をするかのように言い含める。砂月はますます顔全体を歪めたが、トキヤが徹底抗戦の態度を見せると、ここは大人しく従う方が楽だと判断したらしい。それでもプライドが簡単に許してくれないのか、数秒間の沈黙が過ぎ去る。

「……おかわりを、オネガイシマス」

不本意丸出しの声は見事な棒読みだったが、助詞と丁寧語が使えているだけまだ良い。トキヤは目論見が達成されたことの満足感からにやりと口の端を持ち上げ、「いいでしょう」とわざとらしく茶碗を受け取った。砂月が悔しそうな顔をしているのが心底楽しくて仕方がない。
丁寧な頼み方がそんなに嫌なら、自分で席を立ってよそえばいいのだ。しかし砂月の頭の中には、「自分でやる」という選択肢がそもそも最初から入っていないようだった。そのあたりが常識のずれた彼らしいとも思う。
これは中々教育のしがいがある、とトキヤは内心で密かに笑った。

彼はまだ、気付いていない。この「食事会」が一回きりではなく、この先も毎日のように続いていくことを、自分が当たり前のように受け入れている事実に。





いつだったか、一緒に食事をするようにと提案したレンの言葉を思い出す。

――互いを知るには良い場じゃないかい?

その指摘は、あながち間違いでもなかったらしい。
食事を共にしていくにつれ、彼について新しく分かったことがいくつかある。

ひとつ、彼は意外とお子様舌だということ。
特にオムライスやグラタンなどといった、子供が喜びそうなメニューを好んで食べる。以前ドリアを出したことがあったが、どうやら彼は食べてみるまでそれがグラタンだと思い込んでいたらしく、一口食べた後「こいつ……米が入ってやがる……」と世界の終わりのような顔で呆然と呟いたのを見た時にはうっかり笑ってしまった。

それとナスがどうも苦手らしい。食べられないというわけではないのだが、おかずの中で毎回必ずと言っていいほど最後に残るのはナスを使ったものだった。
なんとかナスへの抵抗をなくそうと手を変え品を変え試してみたが、極細切りにしたりすり潰したり、どんなに上手くナスを紛れ込ませても、ことごとく見破られてしまった。
砂月がナスの気配を察知する瞬間は分かりやすい。好きなメニューを食べて緩んだ頬が、一瞬にして強張るのだ。それでも渋々ながら完食してくれるので救われているが、ナスを知らず知らずに食べさせる勝負にはまた負けたのだと思い知らされてしまう。この勝負に関してはまだ改善の余地がある。

ふたつ、彼は食事というものに大して厳格な自分ルールを設定しているということ。
食前食後の「いただきます」「ごちそうさま」は絶対に欠かさない上、食卓を囲む全員が揃って言わなければならないと考えている。「いただきます」の際はトキヤが席に着くまで待っている。「ごちそうさま」も、大抵砂月の方がおかわりも含めて早く完食してしまうのだが、トキヤが食べ終わるまでは席を立たない。
また、食後の片付けは自分がやると決めているようで、トキヤには「そこに座ってろ」と言ったきり片付け作業には一切関わらせない。料理を作るのがトキヤなら、その後の片付けは自分がやるという役割分担が彼の中で成されているらしい。

みっつ、頑固なように見えて意外と素直だということ。
彼は、一度こうと決めたことに関しては絶対に修正を許さない。トキヤをパートナーにする、と決めたらどんなに拒絶されようと押し通しているのが良い例だ。
そこは本当に厄介なのだが、一方でその範囲から外れる部分に対する縛りは緩い。おかわりの頼み方について意外とあっさりと折れたように、トキヤがしっかりと理由付けて説明してやると素直に受け入れる。頑固さと柔軟さを同時に持ち合わせているのだ。

よっつ、彼の気遣いは親しい人間に対してのみ発揮されるということ。
逆を言えば、親しくない人間にはとことん容赦無いということだ。かといって、トキヤは自分が砂月に親しみを持たれているとは到底思えないが。
初めのうちは料理も食卓の準備も全てトキヤにやらせていたが、しばらくして徐々に手伝ってくれるようになった。テーブルを拭いたり、皿や箸などの食器の準備をしたり。テーブルの上にちゃんと箸が置かれているのを最初に目にした時はかなりの感動だった。

最近では料理の方の手伝いもしようとしてくれているらしい。トキヤが料理をしている最中、その背後に立って無駄な威圧感を放っているのは、トキヤを監視しているのではなくて、手伝う機会を探しているからなのだろう。
これをこうしてくださいと指示をするのは簡単だが、トキヤは砂月が自分から手伝いを申し出てくるのを待つことにしていた。きっと近いうちにそれは実現するだろうから。



「……もうそれは、すっかり打ち解けていると言ってもいいのではないか?」
「はい?」

真斗の訝るようなコメントに、トキヤは素っ頓狂な声を上げた。
休日の昼過ぎ。二人は共用のキッチンスペースで昼食を作り、今ちょうどそれを食べ終わった所だった。雑談にでもとトキヤは近況を話していたのだが、まさか真斗からそんな反応が返ってくるとは思わずに目を剥いた。真斗はずず、と茶を啜った。

「お前から、ナスの調理法を尋ねられた時には驚いたものだったが……話を聞いて納得した。一ノ瀬と四ノ宮はうまくいっているのだな」

ナスをうまく誤魔化して調理する方法を見つけるために、どうか聖川さんの知恵を貸してください――二人がこうして昼食を共にしているのは、他でもないトキヤの頼みがあってのことだった。トキヤ自身、なんとか砂月に気付かれないようにしてナスを紛れ込ませる方法を模索していたのだが、とうとうネタ切れを起こして真斗に縋った。そして真斗の提案により、調理法を工夫したナス料理を作って実食したのだった。きっとこれなら砂月もナスと気付かずに食べてしまうだろう。さっそく試したくて仕方がない。
教わったばかりのレシピを実践したくてうずうずしているトキヤを見て、真斗が微笑みとともに発したのが先ほどの言葉だった。

「いや、ちょっと待ってください聖川さん、何か誤解してますよ。別にあの人と私は仲良しでも馴れ合っているわけでもありません。私はただ、駄々をこねるあの人に嫌々付き合っているだけです」
「俺にはそうは見えん。嫌いな相手のために、わざわざ貴重な休日の時間を割くことはしないだろう?」
「……それは、そうかもしれませんけど……」

食べ終えた皿の横にはトキヤのレシピノートが置かれている。ナスの選び方から火加減まで、真斗の教えが事細かにびっしりとメモされていた。
トキヤは一旦火がつくと納得がいくまでとことん極めなくては気が済まない。その性格もあって、最近のナスに傾ける情熱は尋常ではなかった。

砂月と夕食を共にするようになって、彼について分かったことは沢山ある。良い面も悪い面も両方見て――少なくとも入学したての頃に比べれば、彼に対する印象はずっと良くなった。嫌いではないのだろうと思う。性格が合わない部分は多々あるが、その中に潜む優しさや気遣いを知らないわけではない。
……だが、トキヤが彼のために料理を工夫しようとしていることと、彼自身を好ましく思うことは、おそらく根本的に違う。

どうせ料理を作るのであれば、少しでも美味しいものを出したい。相手が幸せそうな顔をしてくれると報われた気持ちになる。それは誰もが考えることだろう。トキヤにとってはその相手が砂月というだけなのだ、きっと。
そう自分に言い聞かせながら、手元に置いてある緑茶を飲む。少し冷めかけたそれは、すっきりとした苦味と共に喉の奥へ染み渡った。
前を見ると、真斗がじっとこちらを見つめていることに気付く。唇は柔らかな笑みを描いていた。

「喜んでくれるといいな」
「……ええ」

トキヤが零す微笑みは無意識なのだろう。自分のことに疎い彼がその微笑みの理由を知るのは、おそらくもう少し先の話だ。
それまでは、さりげなく力添えをする程度に留めておこうと真斗は思った。

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