迎えに行くから月で待ってて


四ノ宮砂月が消えた。
それを聞かされたのは翔からだった。四ノ宮さんの中にいるもうひとつの人格が、消えた、と。
「……あんまり驚かないんだな」
「ええ、まあ」
拍子抜けしたような翔の言葉にどう反応すればいいのか分からず、曖昧な返事しか出て来なかった。
実際、驚きと呼べるようなものはほとんど無かった。いずれ彼はいなくなるのだろうという予感は、もう随分と前からあったのだ。その予感が現実になった、ただそれだけのこと。
翔は腑に落ちない表情でじっと私を見る。私の表情の変化から何かを懸命に読み取ろうとしているようだ。だが、驚きも何も無いのだから表情など変化しようがない。流石にこうもあからさまにじろじろと見られると居心地が悪かった。

「私が驚かないのがそんなに不満ですか?」
「不満ってわけじゃないけど」
慌てて翔が視線を外す。
「……俺、那月と部屋一緒だからさ、分かるんだよ。夜になるとあいつが、ベッドの脇に眼鏡置いたまま時々ふらっと外に出て行くってこと。厄介事に巻き込まれるのはゴメンだから見て見ぬ振りしてたけど、あいつ――砂月は、お前に会うために、」
「翔」

それから先を言おうとするのを制した。翔の肩がびくりと震える。
「彼がどこへ行き、誰と会っていたかなど……今更確かめた所で何の意味もないでしょう」
発せられた声は思いの外冷たい響きを含んでいて、どうしてこんなに心が冷えているのだろうと不思議に思った。
問われても知らないふりを決め込めばいいだけの話なのに、これではまるで、私と彼が夜な夜な密かに会っていたことを認めているようなものではないか。きっと私は自暴自棄になっているのだ。
これ以上翔に問い詰められると、何を口走ってしまうか分からない。私はすぐさま翔に背を向けてその場を立ち去ろうとした。
「待てよトキヤ!お前、それでいいのかよ……!」
翔が私の背中に向かって叫んだが構わず振り切る。足早に廊下を横切り、誰もいない教室に逃げ込んだ。急いだせいか、それとも心理的な要因からか、心臓の鼓動がうるさい。

……「それでいいのか」なんて、私に聞いてどうする。
もっと彼のことを知りたかった、もっと彼に触れたかった。そうやって泣き叫べば何かが変わるのか?いいや何も変わらない。虚しさの穴を広げるばかりだ。
もう彼はいなくなってしまったのだ。私が何を思ったとしても彼が戻ってくるはずはない。ならば嘆くだけ無駄だろう。
私はただ、彼のいない元の生活に戻るだけ。夜になったら部屋の窓を開けて彼がいつもの場所にいることを確認する必要もなくなる。

すべてが、彼と初めて会った夜の前に戻る――それは本来、歓迎すべきことのはずだった。
かつての私が望んでいたのは、誰にも邪魔をされない穏やかな夜。なのに、彼と会ってからは夜に対する価値観がまるで変わってしまった。私はいつしか、彼と共に過ごす夜を、身を焦がすような熱い夜を求めるようになっていた。
だが彼がいなくなった今、私を待つのは、ただ静かなだけの冷え冷えとした夜だ。そんな寂しい夜に、これからの私は耐えられるだろうか。

「砂月……」

小さくその名前を呟いた。呼んだとしても、応えてくれる彼はもういない。
さよならすら告げずに、彼は手の届かない場所へ行ってしまった。

彼――砂月は、最後に会った夜も、いつものように私の前に現れて熱を求めてきた。自分がもうじき消えるという素振りなど欠片も見せなかった。
私たちの関係など所詮それまでのものだ。気紛れに会い、体を重ねて、僅かに言葉を交わすだけの薄い繋がり。互いにそれで十分だと思っていた。必要以上の馴れ合いなど必要ない。欲しい時にひっそりと寄り添って、言葉少なに孤独を分かち合うことができさえすれば、あとは何もいらなかった。

それにしても、別れの言葉もなく消えるとは。彼は私が思っていた以上に、私との関係に対して淡白な見方をしていたのかもしれない。こうもあっけなく繋がりが絶たれてしまうと、驚きや寂しさを感じることもできない。
私はあの夜本当に、彼の隣にいたのだろうか。疑いようのない事実にも疑問を投げかける。そのくらい、私と彼の間にある糸は細く頼りなく、切れたのかどうかすら分からないほど曖昧なものだった。

不思議と涙は出なかった。心にぽっかりと空いた穴だけが、そこにいたはずの人の不在を雄弁に物語っている。
まるで彼の存在など初めから無かったかのように過ぎていく日常が、怖かった。



「……トキヤくん?」
聞き慣れた声で背後から名を呼ばれ、驚いて振り向く。
「四ノ宮、さん」
そこにいたのは私が今一番会いたくない人物だった。
四ノ宮砂月を生み出した張本人、四ノ宮那月。もう彼の中に砂月はいない。彼の傷つきやすい心を守るために生まれた砂月は、那月が強さを手に入れたことで役割を果たし、消えた。

「ここにいたんですね。よかった、見つかって」
私の焦りなど気にもせず四ノ宮さんはにっこりと私に笑いかけた。
彼の優しげな目を見て、本当に砂月はいなくなったのだと思い知る。だから会いたくなかったのだ。動揺を悟られないよう唇を引き結んだ。
砂月が消えたことで彼を責めるつもりはない。砂月という人格の消滅は、彼の心の成長の結果として当然あってしかるべき出来事であり、むしろ喜ぶべきことのはずだ。
「……私に、何か用ですか」
感情を表に出さないよう細心の注意を払いながら言葉を選ぶ。思うがままに喋れば、それこそ心の内にざわめいている本音の全てを晒してしまうかもしれない。それだけは避けなければならなかった。

四ノ宮さんは小さく頷き、脇に抱えていた大きめの封筒を私に向かって差し出した。
「はい。……これを、トキヤくんに渡したくて」
どうぞ、と受け渡された封筒はひどく軽かった。何が入っているのだろう。
私と四ノ宮さんの接点は薄い。クラスが違うこともあり、二人で会話することなど稀だ。そんな彼が私に渡したいものが何なのか、私には到底思いつかなかった。
ちらりと目配せをして確認を取ってから、おもむろに封筒を開ける。
「これは……」
私は思わず驚きの声を上げていた。

中に入っていたのは手書きの楽譜だった。
一目見てそれが砂月の書いたものだと分かった。私は以前、砂月が作曲している姿を見たことがあった。砂月は、最初から頭の中に曲の構成が完璧に出来上がっているかのように、迷いなく音を楽譜に書き込んでいく。その真剣な横顔に見とれていたら怪訝そうな顔をされたのを覚えている。
「……さっちゃんは、僕の中から消えてしまう前に、自分が作った曲の楽譜をほとんど処分してしまったみたいなんです。でもこの楽譜だけは、机の引き出しの一番奥に、大切にしまってありました」
静かに四ノ宮さんが語る。私は楽譜を手に持ったまま硬直していた。

「こんな大切なもの……受け取れません」
砂月は形あるものを残さず消えてしまった。彼が確かに存在していたことを証明できるのは、残された人々の記憶だけだ。
だからこそ受け取れない。彼が残した唯一の形見と言っていいそれを、私だけの所有物にするなど。これは四ノ宮さん自身が持っているべきものだ。
しかし四ノ宮さんは、私の断りなど聞こえていないかのように続ける。
「どうしてこの楽譜だけ処分せずにいたんだろうと不思議だったんですけど……譜面を見てすぐに分かりました。さっちゃんは、トキヤくんに歌ってほしくて、この曲を残したんだって」
「私、に……?」
四ノ宮さんはゆっくりと頷いた。
「この曲はトキヤくんが歌うために書かれました。間違いありません。……さっちゃんの曲に込められた想いは、僕が一番よく知っていますから」
その言葉には不思議な説得力があった。
四ノ宮さんは私が砂月とどんな関係にあったかを知らないはずなのに、彼は何の迷いもなく砂月の曲を私に結びつけた。理屈ではなくただの直感に違いない。その直感こそが何よりの真実だった。
きっぱりと言い切ってしまえるだけの自信は、彼と砂月の間にある絆に裏付けられたものなのだろう。

だが、私は楽譜を素直に受け取ることもできず、かといって四ノ宮さんに返すこともできないままでいた。
まるでこの曲が砂月そのものであるような気さえしてくる。四ノ宮さんを差し置いて私がそれを手にすることに対する罪悪感のようなものが胸を満たした。
「トキヤくんに持っていて欲しいんです。さっちゃんもきっとそれを望んでいます。……受け取ってくれますか?」
まっすぐに見つめられて、私は咄嗟に「はい」と小さな声で返事をすることで精一杯だった。
私なんかが貰ってもいいのですか、本当はあなたが持っているべきものではないのですか。言いたいことはいくらもあった。しかし肝心の言葉が口から出てこない。
結局私も、自分の願いには逆らえないのだ。心の奥底で、砂月の形見を手元に置いておきたいという思いが渦を巻いている。いつの間にか、砂月という存在は私の心の大きな部分を占めていた。……自覚は、していなかったけれど。

四ノ宮さんは満足そうににっこりと笑って、「それではまた」と踵を返した。
その後ろ姿に砂月の面影を見て思わず名前を呼んでしまいそうになる。
砂月、砂月、砂月。
声にはならず吐息だけが漏れた。砂月の名を呼んだところで無意味であることは嫌でも知っている。それでも、心の中でだけ呼ぶのは許されるだろう。

教室から出ていこうとする直前、四ノ宮さんの歩みが止まる。
「……さっちゃんは、約束したことは絶対に守ってくれます。だから」
私に背を向けたまま、彼はぽつりと呟く。

「さっちゃんのこと、待っていてください」

それは、祈りの言葉にも似ていた。



四ノ宮さんが去った後の教室で、私はその場から動くことができず棒立ちになっていた。
「約束」とは何のことだろう。私は砂月と約束を交わしたことなど一度もない。
もとより、私たちはあまり多くの言葉を必要としなかった。目を見て、触れて、感じるままに伝え合う。それは時として言葉以上に多くのことを語る。明確な形として残らないからこそ大切だった。

腕の中に収まっていた楽譜に目を落とす。歌詞は無く、ただメロディが記されているだけのごくあっさりとした譜面だ。タイトルすら付けられていない。
楽譜上の音符をひとつひとつ辿りながら、頭の中で音を思い描いていく。
その曲の形が明らかになるにつれ、私の心は揺れ動いた。砂月が作った曲だとは思えないほど、穏やかな旋律だった。信じられない思いで楽譜の音を追う。鋭い眼差しで他人を拒絶していた彼が、こんなにも優しくてあたたかい曲を作ったのか。
……ああ、でも、これは確かに砂月の曲だ。
砂月は荒々しい性格だと思われがちだが、その中に、四ノ宮さんに通じる繊細さと、人を思いやる優しさが同時に存在している。二人きりで過ごす夜を重ね、私は砂月の「本当」を知った。強い眼光の裏側に隠れた不器用な優しさに、何度救われたか分からない。

歌いたいと思った。彼が私のために作ったこの曲を。
そう思った時には既に、唇からメロディが零れ落ちていた。溢れ出す想いが自然と歌になって紡ぎ出される。次々と心に浮かんでくる私の言葉に砂月の曲を乗せ、私は歌った。誰もいない夕暮れの教室に私の歌声だけが響く。
柔らかな月の光に包まれているような感覚。夜空に輝く月に触れることはできなくても、月光は変わらない優しさで心の闇を溶かしてくれる。

歌い終えた後、私の心は冴え冴えとしていた。澄み切った湖のような静寂が広がる。
――改めて思った。この歌は砂月そのものだ。
砂月は、ここにいる。消えたわけではない。見えなくなっただけだ。
探していた答えをやっと手にできたような気がした。

もう一度楽譜を見る。丁寧に書き込まれた音の全てに砂月の想いを感じて目を細めた。
「……ん?」
ふと、楽譜の最終ページに目が行った。今まで気付かなかったが、ページの余白に何かメモのようなものが小さく書かれている。
私はすぐさまその文字を食い入るように見つめた。

『必ず迎えに行くから待ってろ』

たった、一言。確かに砂月の字で、そう記されていた。
―――さっちゃんは、約束したことは絶対に守ってくれます。
四ノ宮さんの言葉の意味を私はようやく理解した。
……これは、約束だ。一方的で、脈絡がなくて、上から目線にも程がある、だけど決して破られることのない約束。

「当たり前、です……」
誰に向けるでもなく呟いた。声が、震える。
「そんなこと、言われなくたって……待つに決まっているじゃないですか」
その約束を受け入れるということは即ち、待つ覚悟を決めるということと同義だ。しかし覚悟などという堅い言葉とは裏腹に、私の心は軽かった。
約束がいつ果たされるのかなど誰にも分からない。だが私はいくらでも待っていられるだろう。たとえ百年だろうと、千年だろうと。命が終わってもきっと待っている。待ち続ける。
たった一言で私の生き方すら決定付けてしまうなんて、彼はとんでもない人だ。けれどそれすらも幸せだと感じる私もどうかしている。なんだかおかしく思えて私は小さく笑った。

私と彼を繋ぐ糸は相変わらず細くて頼りないままだったが、絶対に途切れないということだけは自信を持って言える。いつか彼がその糸を辿って私に会いに来るまで、意地でも手放さないでいようと思った。
彼と交わした約束が、心に空いた隙間を埋めていく。
夜に移り変わっていく空を見上げると、沈みゆく太陽の反対側で、夕暮れの月が静かに瞬いていた。


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2011/10/14


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