▼ A-dur 1
昔の僕は、不思議に思っていた。声を失った海のお姫さまは、どうやって王子さまに気持ちを伝えようとしたのだろう、と。
瞳で?仕草で?だって、言葉がないと。結局何も伝わらない。
…けれど今の僕にはわかる。
彼女は伝えたいなんて思っていなかったんだ。望むのは、彼の隣にいること。それだけで。
僕には、そうまでして会いたいひとはいない。欲しいものだってない。
だからそんな僕が、魔女に声を奪ってほしいなんて、おこがましいにもほどがあるのに。
バチがあたるというのは、きっとこういうことなんだろう。
舞台の袖で、僕は深呼吸をした。今日はとうとうコンクール。
寮を出る直前まで指を動かしていたし、空調もちょうどいいから指のコンディションとしては万全。けれど久しぶりのコンクールで、僕はかなり緊張している。
最後のお茶会の日、すみれさんにもらったオレンジ色のキャンディはもったいなくてその日のうちには食べられなかったけれど、かちこちになった今の自分にはかなり必要なもので、落ち着かせるためにパクリと口に入れた。
お茶会室のピアノは、とてもいい音がしたな、と思い出す。あれを弾くために親衛隊に入ったようなものだから、僕の目標は達成できたということで。すみれさんにも再会できたことだし、本当に入ってよかった。
お茶会室のピアノで課題曲であるワルツを弾き終わり、指を離して。あのときの達成感は、きっと忘れられない。
そのあと、すみれさんに作ったマフィンを渡すと、その場でうまいうまいと食べてくれた。
「そんなに食べたら、夜ごはんが入らなくなりますよお?」
「だってうめぇんだもん、これ。心配すんな、メシは別腹だから」
「ふふ、マフィンじゃなくてごはんが別腹なんですねえ」
「まーな」
僕の照れ隠しもふわりと受け止められて、くすぐったい。すみれさんの「帰るか」、の言葉で僕たちは寮に向かった。お茶会室からだと1年と3年の寮は逆方向に向かうことになるけれど、すみれさんは当然のように1年の寮をまわって帰ってくれた。
「ありがとうございました、僕、コンクールがんばります」
「おう。今日言ったこと、忘れんなよ」
「はいっ」
そんなやりとりを思い出して、あったかくなる。そっと取り出す「心」は、すみれさんと話しているときの気持ちがいいかもしれない。
最後にもう一度、楽譜を見ておこう。そう思って、持ち込んだ手提げに手を伸ばした。
(あれ…)
携帯のランプがぴかぴかと光っていて、メールを受信したことを伝えている。
誰かな、とロックを解除してメールを開く。
【悪い、時間に間に合わないかも】
一哉からの一通のメール。時間を見てみると、30分以上前に送られたもので、それ以降の連絡は特にない。
「間に合わない…」
口に出してみて、その言葉はもやもやと空気中にとどまったような気がした。
わかった、と返信しようと思ったけれど、鬱いでいく気持ちがそうさせてくれず…僕は携帯をしまった。
別に、一哉に聴いてもらうためだけにここまでがんばってきたわけじゃない。けれど、がんばる理由の一つとしては確かにそうで。
たとえば「見返してやろう」というような、そこまで大きなパワーじゃないにせよ、今の僕を見て欲しかった。一哉に依存してたあのときの僕じゃなく、少しずつ前に進んできた今の僕を。
「…」
じわり、じわりと湿っていく心を持て余していると、僕の出番が来てしまった。
こつり、こつり。
慣れない革靴で舞台を歩いて、椅子の前に立った。一番弾きやすい距離のところまでそっと椅子を引いて、腰かける。
目をつぶった。
一哉が来ないという事実が、僕の気持ちに影を落とす。
ー 俺、お前のピアノ好きだよ。
彼は、僕のピアノが、すきだと言ってくれたのに。なんで。
なんで来てくれないの。
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