その先にあるもの
「……千歳さん、何する気?」
返事は無い。
「ねぇ。冗談でしょ?」
耳に届くのは、カチャカチャと冷たい金属音だけ。千歳さんは無言のまま自分のベルトを外している。俺は確かに馬鹿だけど、いくらなんでも何をしようとしているのかくらいは想像がつく。
「…本当はここまでするつもりじゃなかったんだけどな。」
見上げた千歳さんの表情がすごく冷たくて、怖くて。
咄嗟にとはいえ、どうしてあんなこと言ってしまったのか、今になって後悔が押し寄せてきた。千歳さんが"自分と同類"なんて何の根拠も無かったのに。だけどこのあからさまな反応からすると、俺の考えに間違いなかったのかもしれない。
『モカちゃんは思ったことを何にも考えずに、すぐに口に出しちゃうようなタイプだよね。』って。
千歳さんの言葉を思い出した。そういうところが嫌いだって、さっき言われたばかりなのに。
ベッドのスプリングが軋む音。下半身が下着だけになった千歳さんが覆い被さる。
「……千歳さん!」
そのとき、玄関のチャイムが鳴り響いた。
突然のことに身体が固まる。千歳さんも身体を起こして、ドアの方を見つめたまま立ち上がる様子もない。こんな状況で出るに出られないんだろう。
しばらく無言の時間が過ぎた後、机の上に置いてあった千歳さんの携帯が振動した。タイミング的に、ドアの向こうにいる誰かからの着信かな。
「……もしもし。」
「――――いや、今は家にいない。」
「――うん、夜には帰るから。また後で。」
声を潜めながら短い会話をして千歳さんはすぐに電話を切った。それと同時にドアの向こうで立ち去っていく足音がする。
「……そろそろ帰ろうか、モカちゃん。」
「え。えっ?」
今までの異常な空気を打ち消して
拍子抜けするくらいあっさりとそう言ったから、咄嗟に返事が出来なかった。
「もう遅いし家まで送るよ。服は着替えていく?」
「…はい、そうします。」
「車庫から車出しておくから、準備できたら外に出てきてね。これ家の鍵。」
「……わかりました。」
えーっと。ちょっと待って。そんなにいきなり普通に戻られても困るんだけど。
なんだったんだろう。短時間で色んなことが起こりすぎて頭の回転が追いつかない。
結果的に未遂で済んで助かったけどさ…あれ?いや違う。全然未遂じゃない。最後まではされなかったとはいえ、それでも俺すごいことされたよね?
ここから俺の家まで片道1時間くらい。千歳さんは何事も無かったように部屋を出て行ったけど、車の中で2人きり、一体どんな雰囲気になるんだろう。
服を着替えて、憂鬱な気分のまま部屋を出てアパートの階段を降りると、千歳さんが車の中で待っていてくれていた。
一瞬迷ったけど、後部座席に乗るもの不自然な気がして大人しく助手席に乗り込む。
「忘れ物無い?」
「大丈夫です。」
「ごめんね、ご飯食べに行く時間無くなっちゃった。」
「いや、それは別に…。」
むしろこんな状態で顔突き合わせて食事なんて出来るわけないし。千歳さんの態度があまりにも普通すぎて面食らう。
走り出した車内で、それ以降はお互い無言のまま。元々口数の少ない人だから俺が話さないと会話なんて生まれない。
部屋と同じように余計なものが一切置かれていない車内は綺麗で清潔なのになぜか居心地が悪い。
まるで病的な程に、何もかもを自分から遠ざけているみたいに思えるんだ。嫌いなものも。好きなものでさえ。
千歳さんの本当に好きなものって、一体どんなものなんだろう。
「そうだ。モカちゃん、後ろにある僕の鞄取ってくれない?」
「え?ああ、これですか?」
「その中に箱が入ってるでしょ。」
言われたとおり、レザーのショルダーバッグの中に入っていた細長い木の箱を取り出す。
「それ今日のお礼。たいしたものじゃないけど。」
蓋を開けるとネックレスが入っていた。金色で、アルファベットチーフの飾りが付いている。薬指の先程の大きさの"m"の文字。その横で小さなオレンジの石とコットンパールが一つずつ、控えめに揺れている。
「……千歳さんって俺のこと嫌いなんですよね?」
「そうだけど。」
「これわざわざ作ってくれたんですか?」
「そうだよ。」
「お礼だとしても、こんな可愛いやつ、わざわざ俺のイニシャルのやつとか…作んないですよ普通…!」
「気に入ってもらえたなら良かったけど。」
「もう1回聞くけど、俺のこと嫌いなんですよね?」
「それとこれとは関係なくない?」
千歳さんはなんてことない顔で、さも当たり前みたいに言う。
これって俺が変なの?千歳さんの考えていることが全然わからない。
「……なに、なんかもうわかんなくなってきた!嫌がらせとか変なことしたりとか、意味わかんないし!俺このまま帰ったらモヤモヤして夜寝れないと思うんですけど!」
「いいんじゃない?たまには頭使うのも。」
「いや…っ、俺だってたまには色々考えたりするし!そりゃ人と比べたら少ないかもしれないけど…。」
「そうだよね。モカちゃんが何も考えてなさそうだったからもっと悩んで苦しめばいいのにって思ったんだよ。」
「……大きなお世話です。」
「まぁ八つ当たりに近いかな。羨ましかたったのかも。モカちゃんは自分に無いものを沢山持ってるから。」
そう呟いて、真っ直ぐ前を見つめたまま自嘲気味に笑う。
千歳さんに無くて俺が持ってるもの。整った横顔を見つめながら一生懸命考えるけど、そんなもの全然思い浮かばない。
無茶苦茶なことをされても、ひどいことを言われても、俺は千歳さんのことを嫌いにはなれなかった。それがどうしてだかわかった気がする。
俺に対する明確な悪意。
千歳さんはそういうのを、過剰なくらいストレートに表現してくれる。
友達のような顔をして影で何かを言っていたり、本人の気がつかないところで無自覚に見下されたり。馬鹿の俺には見えない透明の線を引かれたり。
そういうのが無い。冷たい言葉も優しい行為にも裏や表が無いから、そのままの意味でただ受け止めるだけでいい。
難しいことを考えずに向き合うことができるのは正直とても楽だったから。
家に着く頃には辺りはすっかり暗くなっていて外灯が灯り始めていた。結局、一番気になっていたことは最後まで聞けなかった。
家の前で降ろしてもらい走り去る車を見送った後、何気なく渡良瀬の部屋の窓を見上げる。
真っ暗だ。いないのかな。どうしよう。
今日持って行った女装用の服を渡良瀬の部屋にしまいに行きたいんだけど、正直あんなことがあった後でどんな顔していいのかよくわからない。
家の前でウロウロしながらしばらく迷ったけど、結局渡良瀬の家に行くことに決めた。
「お邪魔しまーす。あ、友ちゃん渡良瀬は?」
いつものように勝手にお邪魔してリビングを覗くと、友ちゃんはソファに寝転んでテレビを見ていた。
「お風呂入ってるよ。部屋で待ってれば?」
「うん、そうする。」
渡良瀬の部屋に入り、紙袋に入れていた服を床に広げる。白いブラウスとスカート。眺めているとさっきの出来事を思い出してしまう。
いつも通り丁寧に畳み直してクローゼットの中にしまい、そのままベッドに倒れ込むと顔を埋めた枕から渡良瀬の匂いがする。
しばらくするとドアの向こうで階段を上がってくる足音が聞こえてきた。渡良瀬だ。お風呂上がったんだな。
「萌佳、来てたんだ。」
「うん。千歳さんに送ってもらってそのまま来た。」
「そっか、今日撮影だったんだっけ。」
起き上がってベッドの上に座り直すと、渡良瀬は俺の隣に腰を下ろした。
お風呂上りにはいつもペットボトルでコーラを飲んでいる。甘いお菓子とか炭酸ジュースが大好きなのに、体育以外は運動も一切していないくせに、渡良瀬は全然太らない。
黒いTシャツと下はスウェット。
ドライヤーなんて使わないから、濡れたままの髪。
石鹸の匂いが鼻を掠める。
「……渡良瀬今日泊まってもいい?」
「お前いつも勝手に泊まっていくじゃん。」
「だよね。うん、そうだったよね。」
多分ね、後ろ暗いことがあるからだと思う。
俺がさっきからずっと渡良瀬を意識しちゃってるから。
千歳さんのせいだよ。
あんなこと言うから。
本当に最悪だ。どうするんだよこれから。
これで渡良瀬と俺が変な感じになったら、どう責任取ってくれんの。
それとも今日の出来事は単なるきっかけに過ぎなくて、それが無くてもいつか自分自身で気がついていたんだろうか。
渡良瀬と友達じゃなく、それ以上の関係を望んでいること。
もし今日千歳さんにされたことを話したら、渡良瀬はどんな顔するのかな。
「萌佳どうした?」
「……何?何か変?」
「変ていうか、変なのはいつもだけど。」
渡良瀬は不思議そうな表情のまま枕元にあったゲーム機に手を伸ばす。あ、そういえば新作の発売日今日だった。ゲームを始めたらきっと俺には一切構ってくれなくなっちゃうだろうな。
「ねぇ渡良瀬、千歳さんに無くて俺にあるものって何か思いつく?」
「なにそれ。どういうこと?」
「今日千歳さんが俺のこと羨ましいって言ったんだよ。千歳さんが羨ましがるようなものって何だろう。」
「…………………。」
「えっ、そんなに考える?」
ひどい。幼馴染ならさ、せめて一個くらい何かないの。
「根本的に違うから難しいよ。」
「じゃあ俺の長所とか。」
「何なんだよお前。なんか今日うざい。」
「えぇー、いいじゃん、教えてよ。俺の好きなところとか!」
渡良瀬は心底面倒臭いって顔をしたけど、しばらくしてから
「……何があっても楽しそうにしてるところは好きだよ。」
って呟いた。
それは偶然にも、千歳さんに『嫌い』だって言われた部分でもあった。
「それって能天気ってことだよね?」
「悪く言えばそうかもしれないけど。」
「ふーん……。へぇ。そう。じゃあもう渡良瀬ゲーム始めていいよ。はいどうぞ。」
「なんなんだよお前、自分から聞いておいて。」
だって。
これ以上話してたらやばいって思ったんだもん。
俺今絶対顔赤いから。
自分から無理矢理言わせた言葉だけどさ。あーあ。失敗した。最後のとこだけ録音しておけば良かった。
「俺はね、渡良瀬のことは全部好きだよ。」
「……それはどうも。」
千歳さんに投げかけられた言葉が頭から離れない。
渡良瀬に、女の子みたいに"そういう"目的で触られたら。
漠然と感じていた最後の扉が開いた音がした。強制的に開かされたって言った方が正確かもしれないけれど。
友達同士じゃできないこと。それよりも先にある何か。俺はきっとそれを望んでいる。
そんな日が来るはずないって、頭の中ではわかっているのに。
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