> Part.3新羅 行動は闇の中 |
「も、もう、やめ、助け――――」 「うーん、これはさぁ」 こつこつと靴音だけが古びた倉庫内に響き渡る。錆びついて饐えた匂いしかしない、僕が住んでいる清浄で綺麗な世界からこの場所に飛び込んだ理由は、一つしかなかった。 一歩ずつゆっくりと、恐怖に怯える目の前の男に近づいていく。多種多様な薬、メス、医療用のある種凶器になりえるようなものを詰めた鞄からは、時折カチャカチャと可愛らしい音が鳴っていた。手の中にあるメスを弄びつつ綺麗な笑みを見せれば、眼下の男が短い悲鳴を上げて後ずさる。 「これは僕の想像に過ぎないんだけど、きっとそんなちんけな命乞いは、静雄たちは言わなかっただろうね。自分だけ助かっても意味がないって考えているんだ。まったくもってお人好しだよ。少しは自分の身も省みるべきだってことをいい加減覚えなくちゃならないし、治療する僕の身にもなって欲しいなぁ。特に静雄は一般の医療機器じゃ中々通用しない身体だから経費が嵩んで仕方ないよ。もちろん治すのが私の仕事だから、それを放棄する気はないんだけどさぁ」 こつん、と最後の音を鳴らして、僕は逃げ回っている最中に汚れたらしい彼の首元に、薄くて良く切れるメスを突き付けた。パニック状態で何も言えないのか、身体だけが馬鹿みたいに震えている。そのせいで自分から誤って首を切ってしまいそうだ。僕はセルティと一緒に過ごせない、ましてや会うこともままならない刑務所になんて入りたくないから、微調整をして裂かないように、けれど確かにひんやりとした温度をもった金属が当てられていることを理解できるように一定の間隔を保ちながら喋り続ける。 「つまり俺が言いたいのはね、君、今周りの仲間たちなんかどうでもいいから自分だけはなんとかして助かりたいと思っているだろう?」 今僕はどんな笑みを浮かべているんだろうか? 後ろから「あの人も俺らと同種の人間っすねー、いやまったく性質が悪い」「だねー、敵に回すとコワイ人だ」なんて声が聞こえてくる。彼らは彼らで自分の仕事を終えたんだろう。微かに人毛の燃えた匂いがする。えげつないのはどっちだよ、と嘆息して、僕は命乞いをしてくる弱々しい人間を睨みつけた。 「っ、俺は、俺はっ、ただ外で見張ってただけだ! アイツ等には指一本触れて……!」 「一緒だよ。黙認していた時点で、君は共犯者だ」 ずっと下を向いていたせいでずれ始めた眼鏡を左手で押し上げつつ、首に向かって力を入れた。途端に赤い玉が浮き出て流れ落ちていく。男は苦痛の呻きすら上げなかった。僕から視線が逸らせないのか、目玉が零れ落ちそうなほど目を見開いて、絶望に満ちた表情で見上げてくる。 僕はそんな彼を可哀想だと思った。だからにこやかな顔を作って、せめて苦痛を少しでも減らしてやろうと優しく優しく、語りかけてやったんだ。 「冒頭に戻ろうか。……だからさ、今から同じ仕打ちをされたとしても、君から“助けて”なんて言葉が出るのは、それこそ言語道断なんだよ」 *** ばたばたと雨が窓を打つ音だけが、広い部屋に響いていた。雷を交えた豪雨は激しさを増す一方で、陰鬱な気分が一層沈んでいく。 一通りのことが終わってから、僕は門田君を家に招いた。彼は彼なりに考えることもあるだろうし、気楽にワゴン車へと戻る気にもなれなかったんだろう、素直に進められたソファに座っている。目を閉じ腕を組んで黙する門田君を視界に入れた後、セルティが入れてくれたコーヒーを見下ろした。黒い液体は波打つこともなく綺麗に僕の疲れ切った顔を反射している。 『新羅、大丈夫か?』 不意に差し出されたPDAに打ち込まれた文字を見て顔を上げれば、隣に座っているセルティが心配そうな目で――もちろん目なんて彼女にはないのだけれど――こちらを見つめていた。大丈夫だよ、と苦笑混じりに口を動かしても、ただの気休めにしかならない言葉だということは分かっている。 「静雄は耳、臨也は目、か。……これからあいつ等、どうするつもりなんだろうな」 身じろぎもせず、一人ごちるように呟いた門田君の声を聞きながら、僕は曇った心の内を吐き出すかのように喋り始めた。じゃないと、焦燥感や不安感で潰されそうだった。 「有名な言葉があってさ、ヘレン・ケラーの格言だよ。『目が見えないことは人と物を切り離す。耳が聞こえないことは人と人を切り離す』。目が視えない臨也は音に頼るしかない、かといって静雄は耳が聞こえないから、視覚でしか情報を受容できない。それにどれだけの声量でどんな風に話しているのか分からない静雄はそのことで笑われたら……声を出すのが恐くなってしまうだろうね。でももし静雄が話すことを止めたらさ、今度は臨也とのコミュニケーションの方法が絶たれる。臨也は静雄の声で感情の揺れを図るしかないんだ。あまり話そうとしない静雄にいつだって不安を抱くしかない。かといってあの捩じ曲がったプライドが臨也を素直になんかさせるわけもなから、結局二人に待つのは……」 それ以上の言葉は、紡げなかった。喉の奥がからからに乾いて、咽てしまいそうだ。 少し先の未来をこんなに怖いと思ったのは、セルティが首を求めて当てもなく彷徨い、街中を探し回っていたあの年月以来だ。ひどく似た感情が身体の内側から溢れ出ていく感覚に、身震いする。 昼間から開かれっぱなしのカーテンを見やれば、まだ十七時にもなっていないというのに薄暗かった。窓はしっかりと閉じられていたけれど、雨独特の湿気た空気が肌に纏わりついて気持ち悪い。どこかでまた雷が落ちる音が鼓膜を震わせた。 「命があるからマシ、なんて……酷い話さ。本当にね。それはあくまで他者の考えであって、本人からすれば生きている方が残酷なのかもしれない」 ぽつりぽつりと流れて出ていくのは、半分は本心だったのかもしれないし、そうじゃなかったのかもしれない。 ただこの部屋に落ちている重い空気をどうにかしたかった。少しでも黙ってしまえば押し潰されてしまいそうだったから。 この辛い心情を、吐き出したくて。 この苦しい状況を、打破したくて。 それでも、あの二人のこれからがもう見てられないくらい悲しいものだと分かっていたから、余計に何かに縋りつきたくなった。 本当にそうしたいのは、助けを求めているのは、本人達だろうに。医者のくせに助けてあげることができない。確かな医術の腕はあるのに、何もしてあげられない。方法がない。それが不甲斐なくて仕方なかった。 だからいっそのこと、二人共幸せに逝ってしまった方が良かったんじゃないかと、言ってはいけない残酷な言葉が勝手に口をついて出てきた。 「馬鹿なこと抜かしてんじゃねぇよ」 肩を竦めておどけているように話をする俺に、門田君が珍しく声を荒げた。明らかに怒っている彼を見て、僕は薄く微笑む。 あぁ、やっぱり門田君は良心のある人間だ。大人で、出来ることとできないことの区別がちゃんとついていて、僕達四人の誰よりも相手を理解しようと努力してくれて、危ない橋を渡ろうとすれば止めてくれて、――誰よりも、優しい。 私や臨也なんかとは正反対の、だけど静雄とはまた違う優しさ。 今だってほら、僕なんかは未来が怖くて堪らないから、言ってはいけない絶望の言葉を吐いてしまったけれど。 門田君はそれが耐えられる人だ。そしてその言葉を制してくれる。厳しい言葉をかけてくれる。そうして彼なりのやり方で正してくれる。 「ごめんごめん。まぁ、続きを聞いてくれよ」 だからつい、私は甘えてしまうんだ。 だからつい、君に思っていること全てを話してしまうんだ。 「だけど、生きていて本当に良かった。本当に、良かったよ…………」 最後は、上手く言葉にならなかった。横にいるセルティが、また背中を擦ってくれる。僕はぐいと眼鏡を押し上げて、腕で乱暴に目元を拭いた。 灰色にくすんだ世界がぐにゃりと歪むのは、今日くらい許して欲しい。 二人の前では、僕は残酷で性格があまり良くなくて、ヘタレで道化でセルティしか眼中にない、そこ抜けに明るく笑う闇医者であろうと、今この瞬間に決めたから。 例え臨也に僕の姿が視えなかろうと、例え静雄に僕の声が届かなかろうと。 僕はいつもの僕であると、誓ったんだ。 → |