> Part.2静雄 声が聞こえない





 門田の戒めが解かれた瞬間、俺は近くの壁を無意識に殴り付けていた。
 どうしようもない絶望感が全身を駆け巡って、いつもとは違う制御しがたい感情に呑まれるがままに何度も何度も壁に拳を打ちつけた。轟音のはずのそれすら聞こえなくて、それがまたこの言葉にできない感情に拍車をかけた。それこそ皮膚が破けて血が滲むまで、何度も何度も何度も壁に拳を叩きつける。
 聞こえない。音がない。池袋の喧騒も、ビル風の音も、セルティが乗るバイクの嘶きも、自販機を投げつけた時の轟音も、新羅や門田や幽やトムさんの声も、そして、

「大嫌いの反対は何でしょう? 答えられたら、ご褒美でもあげるよ」

 いつも人を小馬鹿にしたような、

「はい制限時間オーバーでシズちゃんの負けー。何、本当に分からなかったの? そんなシズちゃんのために俺が代わりに答えを言ってあげようか?」

 男にしちゃ少し高めの、臨也の声も。

「……大好き、だよ」

 ニ度と、聞くことができねぇ。
 門田に腕を掴まれて、急に我に返った。真っ黒に染まっていた視界が晴れれば、俺が壊しまくった壁の残骸がそこら中に落ちていた。部屋も心なしか埃っぽい。けほ、と咳をしながら門田の方を振り返れば、首を振るだけだった。なぁ、いつもの手前なら、説教しただろ? 高校の時だってよ、喧嘩した俺ら二人を押さえつけて呆れながらも叱ってくれたじゃねぇか。今俺は病院の壁粉砕したんだぞ。なんで、何も言わねぇんだよ。なんで、……。
「……嘘だ」
 その呟きすら、俺の中でしか反響しねぇ。そんなんじゃ、本当に俺が聞こえねぇみたいじゃねぇか。止めろ、止めろ、こんなんただの一時的なもんなんだろ。すぐに聞こえるようになるんじゃねぇのかよ……!
 聞こえない。何もかも、死んだ世界。
『君とはいえまだ塞がってない傷も多々あるんだ。大人しくしてくれ!』
 そうは言われたものの、確かに身体は多少痛ぇが、別段気にならなかった。重症だろうが軽傷だろうが、俺の身体は常人より遥かに早いペースで傷を完治させてくからちょっとやそっとの無理程度なら平気だ。むしろそうして作られた頑丈な身体は、これくらいものともしねぇ。
 それよりも、さっきまでの怒りが元凶を引き起こした奴らに向かってくのを止められなかった。止めてやる義理もねぇ。俺と臨也をこんな目に遭わせた奴ら。あいつらを殺さなけりゃ気が済まねぇ。殺す、殺す、今すぐ殺す、殺してやる……!
 手の骨を鳴らし始めた俺を見て推測したのか、新羅が慌てたように俺に静止を求めた。
『落ち着いてくれ! 隣の部屋には臨也が眠っているんだ!』
 出て行くのを止めるには、十分すぎる内容だった。

「止めろ……!」
「あはは、池袋最凶が何喧嘩人形庇ってんだよ!?」
「何、ホントは仲いいのー?」
「犬猿じゃなくて実はお付き合いしてる仲ってかー?」
「うわ気持ち悪っ」
「うるさいシズちゃんから離れろ……!」


 朦朧とした意識の中、確かに見た最後の光景がまたフラッシュバックして、ハヴリングしたマイクのような耳鳴りが俺を襲った。汚い倉庫も、血だらけになっても抵抗を止めねぇ臨也も、あいつに庇われたことも、何もかもがさっきよりも鮮明に戻って来る。
「――っ!」
 新羅に掴みかかって臨也の病状を聞こうとすれば、奴は先に答えを打ちこんでた。セルティと長年過ごしてるのは伊達じゃないらしい。
『臨也は……君と違って一般人だから。駆け付けた時はひどい傷だった。目も当てられないほどにね。二人共、死んでないのが奇跡なんだよ。あるいは、わざとそうしたか』
「そんなに、酷ぇのか」
 門田にも確認の意味を込めて振り返れば、頷かれる。怒りは収まりそうになくて、今度はベッドフレームを曲げた。常人以上の力で握りしめたそれは、指の痕がくっきりとついて変形してることだろう。二人はそれを何も言わずに見てるだけだった。
『静雄。さっき君の鼓膜はもう破れて音が聞こえない、って言ったよね』
 あぁ、嫌な予感しかしねぇよ、もう。
 耳鳴りが酷い。頭が重い。立ってるのも億劫になって、そのまま地面に座り込んだ。
『臨也は、――目が、視えなくなった。失明したんだ』
「――」
 は、と静かに息を吐いた。
 なんで自分の病状知った時よりもダメージがひどいんだよ。普通、逆じゃねぇの? あいつの心配してる暇なんか、ねぇだろ?
 目を閉じてみた。何もかも視えなくて、墨を零したような世界しか迫ってこねぇ。
 これをずっと、一生、臨也は視てなくちゃいけねぇのか?
「――っ!」
 ちくしょう、畜生。なんでこうなる。いつもいつも、なんで俺は俺の周りを傷つける?
 俺と一緒にいたから、こうなったのか? 臨也は、今、どんな気持ちで――。
 もう怒る気力すらなかった。何もかもなかったことにして、今はただ寝ちまいたかった。楽になりたかった。
『臨也はまだ気を失ったままだ。……ちなみに君が寝ていたのは丸一日、臨也はもっとかかるかもしれない』
「…………そうか」
 漏れるようにして言葉を吐いた。もう何も聞きたくなかった。
 暴れた部屋はひどい有様だったから、部屋を交換してもらった。新羅が何か言いたそうだったが『また今度』と書き残すと、心配そうな顔をしながらも帰っていった。二人がいなくなった後、俺は一日中惰眠を貪った。
 考えることを、放棄したんだ。


***


 傷は順調に治っていった。四日目には、もう退院できるくらいに回復してた。
 けど、まだ隣の部屋の臨也は眠ったままだ。何度俺が様子を見に行っても、起きる気配はなかった。
 さら、と艶やかな黒髪を撫でる。至る所にある裂傷に痣、身体中を包帯でぐるぐる巻きにされた臨也は、目も当てられないほど傷がひどかった。驚くほど完治が早い自分の身体は異常なんだと再確認させられる。
 ぽん、肩に誰かの手が置かれる。後ろを振り返れば、新羅と門田が痛々しそうな顔で俺たちを見つめていた。
『そろそろ行こうか』
 差し出されたPDAに、俺はゆっくりと頷いた。


『それで、話ってなんだい?』
 いつも饒舌な新羅がここまでぶつ切りの単語になるのは、慣れない機械を通しての会話だからだろう。いつもは気配を読んで相手に合わせて喋るのが当たり前で、まさか自分がセルティと同じ方法で誰かと話すことになるとは考えてなかったに違いねぇ。
「――――――――」
 自分の声が、今どれくらいのでかさになってるかも分からねぇ状態で、俺は新羅と門田に延々と話した。言葉を重ねる度に二人の顔が険しくなっていったが、見て見ぬ振りをした。
『それは、……それは、臨也が本当のことを知った時、……いや、いい。なんでもないよ。これは君が決めることだ』
 辛そうに眉根を寄せて眼鏡を掛け直す新羅に、俺はちゃんと笑えたんだろうか?

 臨也を、助けられなかった。
 俺だけが強力な睡眠薬と筋弛緩剤を使われて、最初からほとんど意識は飛んでいた。暴力による痛みすら強い眠気のせいで感じたかどうかも覚えてねぇ。
 けど、臨也は違った。
 俺のように楽にはさせてもらえなかった。ぼやける視界の中で見たのは、抵抗できなくされた俺を必死で庇おうと苦戦するあいつが映っていて、その度に蹴られて、殴られて、刺されて、……。考えるだけでもブチ切れそうだった。
 なんで庇った。なんで俺を置いていかなかった。手前一人くれぇなら、抜け出せただろ? お荷物だった俺を抱えてたから、そんなことになったんだ。挙句の果てに失明だぁ? 笑わせんじゃねぇよ。
 本当に、笑わせんな。

「臨也には、俺が聴覚を失ったことは伏せておいて欲しい」

 二人には、そう頼んだ。臨也は自分が失明だと知って、きっと自分自身の予想を遥かに超えて苦しむんじゃねぇかと思ったからだ。
 そこに俺が、臨也に命がけで守られた俺が、聴力を失くしたなんて言えるはずがねぇんだよ。





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