> Part.2静雄 声が聞こえない





***


 ……それが、一週間前の話だった。
 リンチされてから十日目に、やっと臨也は目覚めた。その頃俺はもう退院していて、自宅で様子を見ながらも仕事に復帰できそうなところまでいっていた。
 見舞いに行ってやりたいと思う半面、どんな顔して臨也の前に立てばいいか分からなくて、病院に行けなった。丸一日悩んで悩んで、俺はようやく臨也に合わせる顔を持って病室に入った。
 何もかも白い部屋はドラマのワンシーンみてぇで、そこに座る臨也もまた、テレビから出てきたみてぇだった。
 見舞いに来た、と小さな声で呟けば、何かを言われた。
 臨也の声は、届かなかった。
「――――――――――、―――――――――――――――――――――――、――――――――――――――――――。――――――、―――――――――――――――。――――――――――――――――――――――――、―、――――――?」
 それからずっと、臨也は喋り続けた。何を言ってるのか決して理解できねぇ俺に向かって減らない言葉を並べたてていく。
 楽しそうに話す臨也は、偽りの表情をつくってることに俺が気付くはずがねぇと信じて止まなねぇようだった。
 俺も臨也も、治るのは絶望的だった。俺の場合は鼓膜のほとんどが破けたせいで、生来治癒能力があるはずのそれは修復が不可能な状態になってるらしい。手術をしたところで無意味だとも言われた。臨也もまた眼球自体が傷ついていて治すことはできないそうだ。辛そうに新羅が真実を告げてくれたことを思い出す。
「――――――――――――――――。―――――――――――――――――――――……。――――――。――――――――――――――――――――――――――――――――。――――――――――。――――。―――――――――――――――。――――――――――――――――――――――――。――――――――――――――――――――――――――――――――」
 臨也は、健気にも俺の前で“いつも”を振る舞っていた。俺に心配をかけさせねぇように、自分は大丈夫だと偽るために。
 それが何の役にも立ってないことすら、臨也自身、きっと気付いてねぇ。
「いざや」
 自分の声だけは、無駄に通った。他の音が聞こえねぇから、囁くような小さな声でも、ばかでかく感じた。久々に使った喉は、掠れてた。
「―、―――――――――――。―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――、―――。――――――――――――――? ――――――? ――――――、――――――――――――――――――――――、――――――――――――、――……―――――――――、―――」
 臨也の態度は変わらなかった。それでもいつもの数倍は動く口は、不安を殺してるようにしか見えねぇ。
 もしかしたら、臨也は自分の病状を俺が知らねぇと思ってるんじゃないだろうか? 目が視えない、それをひた隠そうとして、こんなにも饒舌になってるんだろうか?
「―、――――」
 口が動く。辛うじて水が欲しいということを理解した俺は、傍にあった冷蔵庫からあらかじめ入ってたミネラルウォーターを取り出すと、キャップを開けて臨也に渡した。表面の凸凹をなぞって、それからキャップが外されてることに気付いたのか、一瞬だけ顔が歪む。それを抑えるようにして水を流し込むその喉元を見れば、はっきりではないが視認できる程度の手形を発見した。
 恐らく首を絞められた時の跡だろう。大きい手はぐるりと臨也の首を一周している。ぐつぐつと煮え滾るような怒りが腹の底から這い上がってきた。
「―、……――――」
 ペットボトルを不意打ちで返されて、俺は怒りの矛先を見失った。差し出されたそれを受け取って元の場所に戻す。その直前、臨也が悔しそうに唇を噛んでいるのが見えちまった。それも一瞬、見間違えかと思うほどの出来事だったが、臨也の話はそれきりぱたりと止まった。考え事でもしてるのか、俯いたまま固まってる。
 その姿はあの折原臨也とは考えられねぇほど、弱ってた。
「いざや」
「――」
「……いざや」
「―――、―――――――――?」
 完璧に笑う臨也は俺を見てなかった。――視えて、なかった。
 気丈なこいつは、一人ここで泣いたんだろうか? 視覚を失った奴らが見る世界は、白いらしい。眩しいくらいの白い世界で、何をずっと感じてたんだろうか?
 もう一生できねぇ仕事に対しても、これから視覚のない世界で生きてくことに対しても。
 全部背負って、一人孤独に泣いてたのか……?
「作り笑いするくらいなら、泣いちまえ」
 丸椅子から臨也のベッドへ腰を掛けると同時に、後頭部に手を回した。さらりとした髪の毛の感触が心地いい。眼下の臨也の顔が少しだけ、ほんの少しだけ、歪んだ気がした。
「…………――――。―――、――――、―――……?」
 泣いちまえ。誰の前でも泣けねぇなら、せめて俺の前でくらいはいいだろ? もう何もかも知った仲になら、見せられるだろ?
「な、いざや」
 そっと、腫れものでも扱うみてぇに臨也を抱き締めた。眠り続けていたのと、起きてからもろくに食事が喉を通らなかったのが相まって、腕の中の臨也は痩せて衰弱してた。どこもかしこも細くなった身体は、今にも折れそうで怖かった。
 臨也の身体から緊張が解けていくのが伝わってくる。徐々に俺の方へと体重を掛けてきたと思ったら、いつの間にか背中に回されていた手で強くしがみつかれた。震え始めた背中をゆっくりと、なるべく刺激のないようにさする。泣いてるんだと気付くのに、そう時間はかからなかった。


 どれくらいそうしてたのかなんて、分からねぇ。ただ窓から入る日差しは傾いてて、オレンジ色の光が部屋に差し込んできていた。
「いざや、」
 ようやく泣きやんだ臨也の唇に、啄ばむように口づける。
「――――、―――――。――、―――」
 臨也が何かを発してるのは分かるのに、何も聞こえねぇ。
 俺が答えないのに不思議に思ったのか、臨也は眉を顰めた。何度も何度も確認を取るようにゆっくりと、口を動かす。ぐい、と胸板を押されて、ようやくもう放して大丈夫、と言われたことが分かった。
 そう気付いたところでもう遅ぇ。臨也は完全に俺を怪しんでいた。
 やっぱ、ばれちまったか。知らずの内に息をつく。
 完全に隠し通せるとは思ってなかった。臨也は鋭い。俺の何倍も人の考えを読むのに長けてるから、会えば勘付かれるってことも薄々気付いてた。それでも新羅や門田に口止めをしたのは、俺の病状に万一気付かなかった時、第三者からばれるのを危ぶんだからだ。
 そっと、臨也の唇をなぞる。不安そうな表情で俺を見上げるヤツの乾いた唇にもう一度俺のを当てて、囁くような声色で白状した。

「悪ぃ、臨也」


 手前の声が、聞こえねぇんだ。




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