獄都夢 | ナノ




おしぼりとお水でございます


 




普段は各自の部署に収納されるが如く静かな館の廊下も、この時間はまるで商店街のように賑わう。短い休息の時を各自有効活用しようと、働く獄卒達や妖怪、鬼などが好きに動き回る正午。その大半は館の食堂へと足を運んでおり、平腹も例外なくその中の一人だった。


「はらへったー…」


口にせずとも彼の胃からは物を懇願する悲鳴のような呻きが間髪置かずひっきりなしに鳴り続けていた。平腹は自身のお腹を擦りながら自前の丸い目を珍しく伏せって眉を下げる。今までずっと書類と睨めっこしていた彼は、何百何千と生きても慣れないデスクワークに早いうちから気力を消耗させていた。朝食べてきたものも速攻でエネルギーに変換されてしまったのだろう。彼の腹の音は仕事開始から一時間と経たぬ内に騒ぎ始めたのだった。

食堂に着く前から券売機の前で列ができているのが見え、平腹は全身の力を地に落とすかのように猫背になって肩を落とす。だがふとその最前列に見知った顔が居る事に気が付くと、水を得た魚のように情けないくらい笑顔になって叫ぶようにその名を呼んだ。


「斬島ぁぁあああ!!」

「……ん…?」

「斬島ぁあオレかつ丼と天丼!」


斬島は券売機に小銭を入れながらこちらを振り向いた。手を振りながら人ごみを縫って歩み寄ってくる平腹を視界に捉えるとチラリと自身の背後を一瞥した。長蛇の列が今か今かと自分の番を待っている。


「並んで買え」

「うぇぇえええぇ!!」

「あ、間違えちゃった」


平腹が「ケチ!」と言いかけたその時、隣の券売機を使用していたらしい佐疫が小さく声を上げた。どうしたのかと二人が振り向けば佐疫は困ったように笑んで肩を竦める。その指は『天丼』を押していた。


「あ、また間違えた」

「佐疫……」

「俺が食べたいのはグラタン。そうグラタン」

「佐疫ぃいぃいいい!!オレ席取ってくるから!水も席に置いとくから!」


グラタン、と楽しげに言いながらようやくグラタンのボタンを押す佐疫の手にはカツ丼と天丼の食券。斬島はその姿に小さく息をつきながら自分も買った食券を持って厨房のカウンターに提示しに向かう。無表情な顔は相変わらずだがどこか曇った空気を放つ親友に佐疫は苦笑し「ごめん」と笑いかけた。


「そんなに怒るなよ。だってあんな平腹見てられないじゃないか」

「……皆平等に並ぶべきだ」

「ほら、平腹席も水も取ってくれるんだから、ギブアンドテイク。だろ?」

「……しかし、」


斬島がカウンターに『カレー』と書かれた食券を差し出した時だった。腕を伸ばしたことで緩んだ筋肉があったのだろう。彼の胃が短くその声を漏らした。それはいくら厨房が慌ただしく、食器や換気扇の音で溢れていても隠し切れない音。佐疫は思わず彼の腹に目を落として、納得したように頷いた。


「斬島もおなかペコペコなんだね。だから平腹がちょっとうらやましいんだ」

「……ちがう…」

「ふふ。あ、また鳴った」


外套を揺らして楽しげに笑う佐疫に、斬島はいたたまれず視線を明後日の方へ泳がせた。そこへ嬉々としてスキップを匂わせた早歩きで平腹が詰め寄ってくる。そのまま勢いよく佐疫の肩を抱くと彼の手を取り握りしめた。


「これ金!ありがとな佐疫!!」

「はい、確かに。どういたしまして」

「斬島は何食うんだ?カレー?やっぱりカレー?」

「まるでカレーしか食べないように言うな」

「でもカレーなんだろ?斬島カレー好きだよな!!オレも好きだけど」

「俺も好き。でも今日はグラタンな気分なんだ」

「……」


そうこうしているうちにそれぞれに頼んだものが用意され、平腹は厨房奥に居た半人半蛇のおばちゃんに声を掛けた後二つのどんぶりの乗った盆を手に、二人の前を先導して席へと向かった。しっかりと用意された水の入ったコップと、簡易なおしぼりまで綺麗に並べて置いてある様を見て、佐疫は微笑んだまま目を瞬かせる。斬島も切れ長の目をわずかに開いて首を傾げた。平腹だけが席に盆を置いて椅子に腰掛ける。



「お?どうした?」

「この水とか、平腹が用意してくれたんだよね?」

「当たり前だろ?何で?」

「…丁寧だからな。手拭きまである」

「あー!朱音がいつもくれるからな。オレも真似してみた!」

「……朱音?」

「現世の喫茶店の子だね」


この間行った所だよ、と佐疫は斬島に笑いかけながら平腹の向かいの席に着く。依然として思い出せないのか首を傾げたままに、斬島もその隣に続いた。平腹はおしぼりで顔を拭き、二人はそんな同僚を見ながら手を拭いた。セルフなせいか冷たいが、仕事の疲れには心地良い温度だ。


「そうだ佐疫。こないだ店に行ったら肋角さんが居てさ、お前に教えてもらったって言ってたぞ。お前に教えたのオレなのに!……なぁ、いつの間に?いつの間にお前行ったの?」


平腹が思い出したようにカツを口に運びながら向かいで手を合わせた佐疫に視線をやると、彼はおどけた表情でスプーンを手に取り眉を上げて笑んだ。


「ちゃんと平腹の事誘おうと思ったんだよ?でもお前が外の任務からまだ帰って来てなかったから、いつ帰ってくるかもわからないし斬島と二人で行ったんだ。ああ、でも斬島としてはあんまり好みじゃなかったんだよね」

「……元々コーヒーがそれほど好きじゃない。やはり緑茶が良い」

「マジかよ斬島ぁ…。肋角さんはー…よくわかんねーけど、何か美味しいって感じの事言ってたぞー」

「肋角さんも確か緑茶派だったよね。…と言うかさ!確かに俺肋角さんにお勧めはしたけれど、まさか本当に足を運ぶとは思わなかったな……」

「あの人の事だ。何か他に現世で目的があったんじゃないか…?」

「そうか、そのついでに寄ったのかも」


それぞれが思い思いに手を進めながら、その合間を縫って会話する。今日の午前中は何をしていただとか、それに関する小言だとか。特別話したい事がなくとも当たり前のように会話は弾む。本人たちに自覚はないが、彼らがまるで兄弟のように仲が良い事は周知の事実だった。


「そういえば平腹、明日の夜は俺と谷裂と一緒に現世の廃ホテルに調査だったよね。最近そこで亡者の目撃が相次いでるって肋角さん言ってたし、あの感じだと生者にも危害を及ぼしてるみたいだ」

「もーすぐ梅雨だろ。亡者にとって過ごしやすい季節だもんな、調子に乗る前に捕まえろって事だよなー。どんな奴がいるんだろ」

「……許されざる者には罰を」

「「獄卒の名にかけてな」!」


斬島の呟きに平腹と佐疫は彼を振り向いて合いの手を入れる。元は肋角の口癖のような座右の銘だが、彼の部下である獄卒の間では一つの掛け合い文句のように親しみのある言葉だ。もちろんその言葉自体の重みもわかった上で、彼らはお互いにそれを提示しあうのだ。


「残念だったね平腹、明日木曜日だろう。昨日も遅くまで任務に出てたみたいだし、今週はとりあえず土曜までコーヒーはお預けだね」

「…あぁ!?そうか!そうじゃんか…!」

「お店が閉まる前に亡者を捕まえられたら話は別だけどね」

「んんんんんん頼むぜ佐疫ぃぃい」

「頼まれても困るよー」


失笑する佐疫に平腹は心底落ち込んだ表情を見せた。しかしふと彼は眉を潜めると、丸い黄色い目玉を右へ左へと動かして何かを思案するような素振りで黙り込んだ。グラタンをほとんど食べ終えていた佐疫は最後の一すくいを器に置いて平腹の言葉を待つ。その横の斬島は一切介さずカレーについてきた小さなサラダに箸を向けていた。


「どっちにしろ行かねーわ!そういや明日朱音休みだって、こないだ行った時他の店員が教えてくれたの忘れてた」

「おや、そうか…。それはそれで残念」

「………気になったんだが」


最後の一すくいを再び口に近付けていた佐疫は、隣で黙々と食事を続けていた斬島が箸を止めたのに気が付いた。自然な動作で再びスプーンを器に戻しながら今度は斬島の言葉を待つ。平腹も手を止めて訝しげに細められている青い目を見つめた。


「平腹は前からそんなにコーヒーが好きだったか?田噛があの落ち着いた喫茶店に週一で行くのは何となく俺にもわかる。だが平腹がどうしてあの店にそこまで執着するのか皆目見当がつかん。あの店には他にも何かあるのか…?」


真剣な顔をして問う斬島に、平腹と佐疫は一瞬だけ目を合わせた。


「……斬島も肋角さんとおんなじ事言うんだなー」


平腹が眉を下げて発した言葉に、今度は佐疫と斬島が顔を見合わせる。ただ異なるのは斬島の表情がどことなく嬉しそうな所だ。佐疫はまだ自身の番が来ていないとでも言うかのように口を結んで、事を見守るつもりかひっそりと姿勢を正した。


「オレも考えたんだ。やー、オレもね?ただコーヒーと飯食いに行くだけなんて金もったいねーし、あんな眠くなる音楽趣味じゃねーし、何か静かだし、ってこうやって考えてる時はスゲー退屈で仕方ないんだけどな。でもそうやって考えててもさ、何かわくわくするんだよ。何が楽しいのかわかんねーのに、オレあの店行ったら楽しいって信じてるんだ。今も、楽しいのが待ってるって思ってわくわくするんだよな」

「……店に行く事が楽しいなら別に曜日で行かずとも、例えば今日あの店に赴いても良いんじゃないか?」

「それじゃうまいコーヒー飲めないだろぉ?」

「俺はあまり好みではなかったが、インスタントよりはいい香りだったし、味もコクがあったと思う。おそらく他の曜日のオリジナルブレンドも同等の、もしくはそれ以上のコーヒーだという可能性もあるだろう。それについては興味ないのか?」

「ない!全然興味ないなー。オレ別にそこまでコーヒーに思い入れない」

「?……。だがコーヒーを飲みに行くんだろう?」


食事の手は止まったままで、佐疫だけがコップの水に口を付けた。


「まー、うまいからな!後、わくわくするからな!」

「?何故だ?」

「だからわかんねーって!」

「……質問を変えるか。平腹が店に行って、一番その、わくわく、する時は何だ」

「一番……?」


コトリ、と平腹の前方で音がした。佐疫がコップをテーブルに置いた音だ。


違う、これじゃない。


探るように回転する脳内で、彼は無意識に思い出していた。


オレの好きな音は、こんな軽い音じゃない。
高そうな薄い白いコーヒーカップ。その中に入ってる焦げ茶色の良い香りのする熱い飲み物。そしてそれを運んでくる。



「……コーヒー。持ってきてくれた時」


オレと違う。細くて、血色のいい指。空気に溶けるような声。


「うまいって言うと、朱音スゲー笑うんだ。その時が一番、オレ、わくわくする」


思い出しただけでも、もう腹が膨れるくらいにわくわくする。



「……つまり。平腹はあの喫茶店にコーヒーを飲みに行くと言うより、その生者に会いに行っていると言う方が、正解なんじゃないか?」

「朱音な!」

「朱音か」

「で、何て?」

「……だから、平腹は朱音に会いに店に行っているんだ。朱音に会えるからわくわくするんだろう」


斬島はそう言い切ると自身がすっきりしたのか再びサラダに箸を伸ばした。レタスの上に乗っていたコーンがポロポロと皿の下へと落ちていく様子に幾らか顔を曇らせる。後にコーンだけが残るのは嫌だと、レタスを咀嚼しながらコーンを一粒一粒摘まんで口に運ぶ。


「斬島ぁぁああぁあ!!!」

「何だ。コーンはやらないぞ」

「いらねー!!ちげーよ!お前天才だよ!」

「獄卒一の秀才を前にしながら何を言い出すんだ。大丈夫か」

「クソ真面目ここで発揮すんなよ!でもありがとな!!スッキリした!オレ朱音に会いに行ってんだ!朱音と居るとわくわくするから!」

「わかってよかったな」


平腹は嬉々として一気に天丼を喉にかっ込むと、時計を指差して腰を上げた。彼は午後、外に出なければならないのだ。


「わりぃオレ次外だから!じゃあ佐疫また明日な!」

「うん。頑張ってね」


平らげて空になったどんぶりをお盆ごと持ち上げ、颯爽と返却口へと去っていく平腹を見送った佐疫は、微笑みながら少し長めの息をついた。それからすっかり冷めてしまったスプーンに残る最後の一すくいを見下ろし、呟くように苦笑いを零す。


「あと、もう一歩。あともう一歩行けたら良かったんだけどなぁ……」

「……?何の話だ」

「斬島も良いとこまで行ったのになぁ……」


秀才の悩みは凡人の俺には分からないだろうがそれでも話だけは聞いてやろうと斬島は耳を澄ませたが、それから佐疫が何かを呟くことはなく、ポツポツと普通に他愛ない話をした後二人は午後の就業時間10分前になると、どちらともなく席を立って食器を片づけそれぞれの持ち場へと歩いて行った。
















――――――――――
















どうしてこうなったのだろう。何故こんな所に居なければならないのだろう。
朱音は目を固く閉じてただただ身を小さくするかのように膝を抱えて座るしかなかった。そうしなければ暗闇と寒気に捕われてしまいそうだったのだ。自分の呼吸音しか耳に入ってこない事も恐ろしいが、その音すら何かを近づけるのではないかと恐怖を覚えてならない。ふとすると背後に何かいるかもしれない。目を開けたら眼前に迫っているかもしれない。全て自分の想像による恐れだとわかっていても、この態勢を崩す事はできなかった。早く誰か戻って来てと願う事でしか時間を過ごせない。今が何時で、ここに来てからどれほど経っているのかすらわからなかった。






「おい、聞こえたか」

「悲鳴かな」

「何してんだかなー」


甲高い叫び声が壁紙のはげ落ちた壁を伝って三人の耳に届いた。谷裂は鋭い紫の瞳を一層ギラつかせて佐疫と平腹の先頭を走る。行く手を阻むようにたむろう魑魅魍魎達を足蹴にし金棒で弾き飛ばしたその後ろを、佐疫は歩幅を短くして細やかに駆け、平腹は悠々と歩くようについて行っていた。今夜の任務は廃ホテルの調査。しかし実際は調査というよりもこのホテルに居つく魑魅魍魎を片付ける事の方が優先されるようだ。


「生者に寄ってきてるのかな。こんなに居るなんて情報なかったのに」

「先日此処で殺人があったのは聞いているだろう。俺はその殺された亡者が此処に留まっている事が原因だと考える。生者がこんな場所に引き寄せられるのも奴の仕業だろう」


先を走る二人の会話を聞きながら平腹は肩に乗ってくる小さな妖怪達を度々指で弾き遊んでいた。任務の詳細は二人が把握していれば問題ないという心構えだ。弾かれた妖怪達は遊んでくれていると喜び楽しげに笑いながら地に落ちていく。落ちた先が悪く平腹に踏まれてもケタケタと笑う様はやはり何処か気味が悪い。考察する二人に余計な口は挟むまいと弧を描いたままの口でだんまりを決め込んでいた平腹は、ふと袖を引かれて足を止めた。視線を落とすと顔だけが真っ白で全身が暗闇に溶けるように真っ黒な子どものような妖怪が彼の服の裾を引いてある方向を指さしている。その先を辿って見ると、ドアの壊れた部屋の奥に四角く穴のようになった窓があった。妖怪はそのガラスのない窓を指さして促すようにまた袖を引く。


「何かあんの?」


シャベルを担ぎ直しながら面白そうだと平腹は大股で窓の方へと歩んだ。満足したのか袖引き小僧はスッとその姿を消す。大きく開いた四角くから外を覗くと、鬱蒼と広がる木々の中、下方に一台の車が停まっているのが見えた。その車の周りを囲うように魑魅魍魎達が集まって何やら楽しげに会話している様子に、平腹は目を細めて何かを探ろうと車を凝視する。何もない無機物にあの者達は集まらない。おそらく中に何かある。


「谷裂ぃ、佐疫ぃ」

「貴様何処に行っていた」


だいぶん遅れて姿を現した平腹に谷裂は苛立ちのこもった声で問うた。ホテルの最上階、元は広々としたスイートルームだったのであろうその部屋で、谷裂は金棒を床に擦り付けて音を立てながら足元に転がる三人の人間を忌々しげに見下ろす。平腹もそちらへと歩みながら「あらら」と声を漏らした。


「死んでんの?」

「気を失っているだけだ。だが随分と衰弱している。それで貴様は何をしていた」

「それがさ、多分こいつらが乗ってきた車をな、見つけたんだよ」

「……それがどうした」

「中に何かあるっぽいんだよ」

「それは確認しなかったのか」

「うん。勝手に違うとこ行くと谷裂怒るだろ?お前の一撃痛いから報告してから見に行こうと思って」

「見てこい」

「佐疫は?」

「亡者を追っている」

「逃がしたのかー?」

「……分裂したんだ。異質な亡者を深追いするのは賢明ではない。本来なら俺も追って分析すべきだがお前が居なかったのだ、生者から目を離すわけにもいくまい。良いから早く行け」

「りょうかーい」


本当は動きたいのだろう。毅然とした態度で仁王立ちする谷裂だがその右足は落ち着かず小さくつま先で床を叩いている。これ以上長居して逆鱗に触れる事はないと平腹も悟り踵を返して車の元へと駆けだした。その瞬発力に弾かれたのか彼の肩に乗っていた妖怪達が一斉に床へと落ちてケタケタと笑い始めたので、谷裂は無言でそれらに金棒を振るって割れたガラスの大きな窓の外へと打ち上げたのだった。




気温が尋常じゃないほど低いのに湿気だけはまとわりつくように自身の周りを覆っている。朱音は膝を抱えた態勢のまま冷え切った自分の腕に頬を寄せる。延々と同じ態勢でいるせいか腰や腕や脚がピリピリと痺れてきている。それでも動いたらいけない気がして何もできないままだ。時折体がゆすられる感覚を覚えるのは朱音の居る車体が揺れるから。彼女は軽自動車の後部座席でじっと耐え忍んでいたのだ。


事の発端は久しぶりに友人二人と飲みに行った居酒屋であった。友人が足代わりにと連れて来た彼氏が店に置いてあった雑誌を見ている最中に、そこに掲載されていた心霊スポットが意外と近い所にあると言い出したのだ。初めは冗談のつもりで彼も話題にしたのだろうが女性人に酒が入ってくると次第に盛り上がり始め、朱音を除く三人は良い酔い冷ましになるからと廃ホテルに向かう事が決定したのだ。朱音はそれを嫌がったが久しぶりに顔を合わせた友人達と飲んだだけで離れる事を残念に思い、自分は車の中で待っているという条件で首を縦に振った。居酒屋を出て郊外の山道を行く際も、人が亡くなった地に面白半分で足を運ぶ事は不謹慎でよくない事だと控えめに諭してみたが結果は変わらなかった。車に一人残された朱音は初め三人がすぐに戻ってくるだろうと思い携帯のアプリで暇を潰していたが、その内彼女の中に残っていたアルコールが抜けてくると段々と恐怖心が表へと顔を出し始め、暗闇の中で煌々と光る携帯に危機感を覚え始める。夜も更け辺りに外灯一つないその場所で、一点だけ光っているというのはあまりにも目立つ。明かりに照らされたせいで車の窓ガラスに自身の姿が自分とは違う動きを見せるような気がして、朱音はそっと携帯を手放し膝を抱えた。車の中とはいえ室内の温度は徐々に外気に侵されていく。梅雨を間近に控えたこの時期の夜は寒い。恐怖心と相まって、朱音は追い詰められていくのだった。


突然車が音を立てた。ボンネットの方だ。固い鉄がへこむような音が、まるで這い上がってくるように徐々に朱音へと近付いて来ている。それだけでも血の気が引いて呼吸を忘れそうになるものだが、同時にすぐ横でガチャガチャと扉のノブを引く音まで鳴りはじめたのだ。友人たちが帰ってきたのだろうか。現実逃避したいと願う頭の中でも、朱音はそれが友人達ではない事を察していた。帰ってきたのなら鍵を開けて入ってくるはずだ。こんな体制をしている自分を笑うはずだ。これは友人達じゃない。確認しなくてもわかりきった事だった。背筋が凍りつき強張る体と痺れた四肢の感覚は最早無いものと同じだった。今はただ必死に「ごめんなさい」と心中で謝る事しかできない。やはりこんな所に来るべきではないのだ。友人たちの笑い顔を思い出しながら心細さに涙が滲む。彼女たちは無事でいるだろうかと言う心配もろくにできやしない。心臓だけが痛いくらいに生きようと動き続けていた。その内車とは違う金属音が耳につき始め、何かを叩くような音が近づいてくるのが分かった。車の窓ガラスを隔てても聞こえてくるという事はそれなりの大きな音なのか、もしくは霊的な存在だから直接脳に届くのか、どちらにしても朱音にとっては絶望でしかない。相変わらず車の上では何かが動き回っており、ドアノブどころか扉を思い切り叩いてくる音もする。もう限界だ。音の正体を確かめて気を失ってしまいたい。気が狂いそうだと彼女は息切れた呼吸を繰り返した。叩くような金属音は、もうすぐそこに迫って来ていた。






「……」


一二度、風を切るような大きな金属音が車の周りで鳴った後、全ての奇怪な音が消え去った。辺りは初めと同じように静まり返り、自身の呼吸音が息苦しそうに耳に届くだけだ。一体何が起きたのだろう。いや、こうして安心させて顔を上げさせようとしているのかもしれない。恐ろしいモノ達の策略かも知れない。疑心暗鬼になり狼狽える朱音はもう少し様子を見ようと耳を澄ませた。その間にも不思議な事に先程まで感じていた寒気が緩んで体温が上昇していく感覚を覚えていく。

丁度彼女と扉を隔てたその横で、何かが地面に突き刺さる音がした。


「朱音ー?」


窓ガラスを二度、軽く小突かれた。そして遮断された空間に漏れるように届いた声は、よく知る平腹の物だった。


「朱音。おーい。大丈夫かー」


ガラスのせいで幾分かくぐもっているが平腹の声だ。だがこれも罠かもしれない。一番安心する声を利用するなんてひどいと、朱音は思わず涙を零して体を震わせる。彼の声は自分の中に巣くう恐怖をじわじわとほぐして涙に変えていってしまうようだ。こんな所に彼が居るわけがないのに、ありえないのに、信じたくてたまらない。平腹が助けに来てくれたんだと、まるで客観的に喜劇でも見ているような気分になって笑えて来てしまう。朱音はすっかり乾いた喉の奥で、その名前を呼んでしまいたい衝動に駆られた。


「……朱音。もう大丈夫だって。なぁ、オレの事わかる?オレの声聞こえてる?もしかして聞こえない?ガラスのせい?」


もう、目を開けてしまいたい。こんなに平腹さんにそっくりに演技できる幽霊なら、姿もそっくりかもしれない。


「朱音。朱音ー。なぁ。寝てんの?寝てんならしかたねーけど……。んーーーでもやっぱ起きて!せっかく会えてんのに顔見えないとか寂しいじゃん。なーーー起きてーーー」


思わず、本当に笑ってしまった。


「……平腹さん?」

「え!?何!?ガラスで全然聞こえねえ!あ、おはよー」


半ば諦めるように顔を上げた朱音は、痺れた首を擦りながら窓の外からこちらを覗く黄色い目を見上げた。いつぞやの軍服を着こなしている彼の姿に、どうしてか瞬時にこれは『平腹さん』本人だと確信を持ってしまった。軍帽で表情はわかりにくいものの、暗闇に慣れた目だけでも十分に平腹の姿を見つめる事ができる。朱音は頬を伝っていた涙を拭いながら、窓ガラスに当てられた彼の手に指を添える。


「どうしてここに……?」

「それはこっちの台詞だろぉ?まー車から下りなかったのは正解だとは思うけどな。…あ、ホテルの中に三人、倒れてたぞ。朱音の知り合いか?」

「男一人と女二人…?」

「あー…多分。あんまり覚えてねーや、ごめん」

「三人は、無事でした?」

「ちょっと弱ってるみたいだけど生きてる。今谷裂が見張ってる。……それより朱音は、大丈夫か?」


窓越しに見つめてくる平腹の目線は朱音の涙を追っているようだ。拭っても拭っても落ちてくるそれに、彼女自身も苦笑して見せる。自分でも戸惑う程に安心して気が緩んでいるせいだろう。珍しく真剣な表情で居る平腹に「大丈夫」と小さく言ってみせると、声は届かずとも口の形で分かったのだろう、平腹は頷いて窓ガラスを指で撫ぜた。このままでは話しずらいだろうと朱音は扉のロックを外そうと手を伸ばす。


「だめだ朱音。扉は開けるな」


急に顔を険しくさせて平腹は扉を抑えた。その剣幕に彼女は肩を竦めて思わず手を引き、驚いたように目を瞬かせて彼を見る。すれば平腹は困ったように笑んで見せると首を振って車を軽く小突いた。


「扉を開いたら妖怪も亡者も朱音を捕まえに入って来れるようになる。さっきまで此処の周りにスゲー集まってたんだぜ。今は追っ払ったからいないけどな、すぐにまた寄ってくる。朝が来るまで開けちゃだめだ。そこに居れば襲われる事は絶対にないから」


そう話す平腹の肩に、小さな毛むくじゃらに手足が生えたようなモノがよじ登って来ていた。件の妖怪だろうかと朱音が思う暇もなく、彼はそれを指で弾き飛ばしてしまう。


「オレは逃げた亡者探さないといけないし、多分肋角さんにこの状況を報告しに獄都に戻らないと行けないし、早く戻らないと谷裂に殴られるかもだし、」

「……平腹さんは、人間じゃないの…?」

「うん、獄卒。……あ、」


しまったというような顔をした。その反応でその答えが偽りでないのだと証明している。


「あ、これ言っちゃダメだったか?谷裂に怒られるかな。あれ、別に大丈夫だったかな」

「……じゃあ聞かなかったことにしましょうか」

「うん?」


思わず口走ってしまった言葉に朱音は後悔する。人ではないのだと言われ思いの外ショックを受けたのだ。しかし決して彼を否定したかったわけではない。ただ、自分と違うのだと思い胸が痛くなっただけなのだ。


「……何でもないです。扉、絶対に開けませんから安心してください」

「絶対だからな!朱音に何かあったらオレ、もう会いに行けない」


地面から何かを引き抜く音がしたと思えば平腹の肩にシャベルが乗った。それを目にした朱音は先程まで鳴っていた叩くような金属音の正体がわかった気がした。平腹は車から離れホテルを見上げると、肩を回して欠伸を一つした。そうして彼女へと振り向いて微笑んでみせる。


「じゃあ、またなー朱音」


言い残して駆けだした彼の背中を見送りながら、朱音はだいぶん落ち着いた息を吐いて後部座席に寝転がった。また暗闇に一人。しかし扉を開けなければ大丈夫だと言われたせいか、以前のような恐怖心は微塵も溢れてこなかった。代わりに今までとっていた態勢と精神的な疲労がどっと押し寄せて、彼女の瞼を重たく下ろしていく。もう怖くない。安心して眠りに落ちる頃、足元に落下していた携帯が歪な音と共に一度だけ震えた事を、彼女が気付くはずもなかった。

















2015.04.22

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