獄都夢 | ナノ




煙草はお吸いになりますか?





今生きている日本人の半数は、毎日を繰り返しながらどこかで非日常を求めている。昨日とは違う今日。本当は毎日同じ日など有りはしないのだが、行動が規則的に同じ動作を続けていると新しい刺激が欲しいと求めてしまう。文明の利器が発達し比較的皆が簡単に物を手に入れられる時代。様々な情報が行き交い必要であれば即時検索し誰でも知り得る事ができる。確立された事柄でなくともあらゆる人の意見や批判が当たり前のように目に入り、人々は知らず知らずのうちに不確かな情報や無遠慮に拡散される情報を鵜呑みにし理解した気で日々を過ごす。自分の都合のいい非日常を手軽に得る事ができるようになったおかげで、奇しくも興味を継続して保てなくなった人間が増えてきている事は否めない。しかしそれでも非日常を欲する人間の業は今も相変わらずだ。


扉を開くと同時に少しだけ耳に痛い鈴の音が頭上近くで鳴った。身長が日本人の平均値を悠に二十以上超えているせいだ。彼は正面のカウンターに立つ従業員と左右に分かれたホールから出迎えの言葉を掛けられながら、サングラス越しに店内を一瞥して見回した。落ち着いた照明とアンティークな木製で統一された内装。何処にでもありそうなカフェの形態。珍しいものはそう有りはしない。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

「ああ」

「禁煙席と喫煙席をご用意しておりますが、どちらになさいますか?」

「喫煙席にしよう」

「それでは此方へどうぞ」


自身よりもずっと低い位置から見上げてくる従業員の女性は平然とした態度で微笑むが、その瞳が動揺で揺れているのは手に取るようにわかっていた。先を歩く彼女にゆっくりとついて行きながら店内の入り口から向かって左の奥に通された。「お好きな席をどうぞ」と告げて去っていく従業員の背を少しだけ見送ると、彼は近くの席に腰を落とした。喫煙席の利用者は今の所自分一人のようだ。存分に吸わせてもらおうとスーツの内ポケットから煙草を取り出した。普段は煙管で嗜むが現世ではもう馴染み深くない為紙巻き煙草を代用する。正直煙管よりも紙巻き煙草の方が遠慮なく吸えるので愛煙家としてはありがたい。


「お冷やをお持ち致しました」


一服ついたところで従業員が姿を現した。先程とは違う人間だ。大方「怖いから代わって」とでも言われたのだろうか。彼は小さく鼻で笑いながらテーブルに置かれるコップと押しぼりを目で追った。


「オリジナルブレンドをいただこうか」


自前の低い声でそう言うと従業員は僅かに驚いたように目を見開いた。それから直ぐに営業専用の笑顔に戻るとかしこまりましたと頭を下げて席を離れていく。さて、プレッシャーを掛けられるのは恐らく二度目だろう彼女は、俺にも美味いコーヒーを出す事ができるだろうか。肋角は悪戯に笑みながら煙草の煙を宙に吐いた。



バックで待ち構えていた仲間に朱音は激しく首を振りながら狼狽える。


「ヤバイよ本当にその筋の人っぽいねあの人」

「だから言ったじゃない!夜なのにサングラス掛けてるし、髪型オールバックだしスーツだし!」


冷静に考えればその見方は個人やメディアの映す固定観念に捉われた価値観だとわかるものだが、朱音と従業員仲間はすかっりその気で話を続ける。


「どうしよう失敗したくないなぁ…」

「大丈夫だって、いつも通り淹れるだけ」

「気に入ってもらえなかったらやっぱり怒られるかなぁ、あああ今世紀最大のピンチ!」

「朱音さん大袈裟ー」


恐怖半分、好奇心半分。怖い怖いと言いながらも二人の口元は緩んでおりこの状況を楽しんでいるようにも見える。実際の所都合の悪い事が起きたわけではないので単純に予想外の事態に興奮しているというのが真実だ。それでもコーヒーを淹れる方の朱音は緊張で胸が詰まるのだが。


「今日はまだいらっしゃいませんけど、もしいつものあのお客様が来たらちょっと静かにしてもらわないと怖いよね」

「あのお客様?」

「うまいコーヒーの人!」

「あ、ああー…」


平腹の事を言われているのだと察する。彼は初めて来た時からずっとオリジナルブレンドの事を『うまいコーヒー』と称し続けている。忙しい時に朱音以外が平腹を担当しても彼は決まって『うまいコーヒー』と注文してくる為、火木土日に働く従業員は皆平腹を『うまいコーヒーの人』と呼んでいた。最近は店内の雰囲気を打ち破るほどの破天荒さは見られず、割と静かにひと時を過ごして行かれることが多くなったが、それでも何かと言動の激しい人なので従業員は他のお客様の迷惑にならない事をいつも願っている。朱音は知らないが彼女の都合で店を休んでいた日、一度だけ平腹が来店した事があった。その時気を利かせた従業員の一人が彼が席に向かう前に朱音の不在を伝えると、案の定彼は物凄く落胆した声を上げてそのまま帰って行ったのだ。この事を朱音に伝えるか否かでその日の従業員たちは悩んだが、一番年長の者が何を勘ぐったのか人の恋路に他人が助力をするのは無粋だとしてこの事は他言無用とした。故にこの日から朱音以外の従業員達は密かに平腹の事を『朱音専の人』とも呼んでいた。


「もし今日来られたら朱音さん対応お願いしますね」


バックの奥からディナーを運んできたもう一人の従業員がそう笑いかけてホールへと出て行く。朱音の傍にいた従業員も何かを含むような笑みで彼女にウィンクして見せる。その胡散臭さに怪訝そうな表情を返した朱音は、幾らか緊張の解れた肩でオリジナルブレンドを用意し始めた。平腹さん程のリアクションは求めないけれど、美味しいと言ってもらえたら嬉しいなと彼女は願った。















――――――――――
















客の数もだいぶん減ってきた店内。ラストオーダーまで後三十分、閉店まで一時間と言ったところだろうか。肋角は来店してから喫煙席の番人のように席に座り続けていた。初めはコーヒーを飲みながら新聞を読んでいたが、その後何か気に入ったのか店内の漫画と女性誌以外の雑誌を順に手に取り、間にディナーセットを口にしながら今もまた雑誌を読み耽っていた。何故居座り続けるのだろうか、閉店間際に何か言われるのだろうかと他の従業員は言い知れない不安感に駆られていたが、コーヒーのおかわりやディナーセットを運んでいた朱音はそんなに心配するような人物ではなさそうだと思うようになった。熱心に読んでいる最中でも声を掛ければ顔を上げて「ありがとう」と応える様子は体格に反して物腰がとても柔らかい事を告げている。未だにサングラスを外す事はないがそれは些細な事だろう。それよりも彼女は今、平腹が来ない事に気分が落ちていた。特別楽しみにしていたわけではなかったが従業員から彼の存在が提示されてからはどこか期待を寄せてしまっていたようで、朱音は思わず自分に苦笑した。来ても来なくても気が気でない。そんな妙な感覚を自覚していないわけではなかったが、あっさりと認めてしまうには何だか早すぎる気がした。単純に面白い人だとは思う。もう少し空気が読めると良いけれどと従業員としては感じるが、正直良くも悪くも素直な彼に好感を抱かないはずはなく、実質自分以外も困った顔をしながら憎めない客だと言って笑っている。平腹の事を外見以外全く知らないが、今はそれでも十分だった。彼は一人のお客様で、自分は彼が満足できるようお手伝いをするだけ。この関係が丁度いい。


「朱音!」

「え、あ、いらっしゃいませ」


ひどくボーっとしていたようだ。朱音はレジカウンターに立ち出入り口の正面に立っていたはずなのに平腹が来店して来た事に気が付かなかった。今の今思い浮かべていた顔が目の前に有り、一瞬幻覚かと思ってまばたきをする。


「うまいコーヒー…て、あれ?」


こんなに遅くに来店されるのは初めてだ。仕事が忙しかったのだろうかと思いながら朱音は平腹からのいつもの注文を待っていたが、彼は注文する途中で何かに気付いたように眉をひそめた。大きな黄色の瞳が不思議そうにぱちぱちと開閉される。


「このタバコーのにおい……。何で?」

「え?」

「オレこのにおい知ってる!でも何で?なんで?」


カウンターの向かいから身を乗り出すようにして朱音の両肩を掴んだ平腹は、強引に引き寄せ彼女の肩口に顔を近づけた。すんと鼻を鳴らせた彼は依然眉を潜めたままで朱音を見つめる。急な接近と至近距離で絡む視線に動揺して答えが瞬時に返せない。奥の席に煙草を吸われている方がいるから、その人に給仕していたから。平腹がこのにおいを知っているという疑問は頭から抜け落ちていた。何せ彼の瞳がどこか責めるように細められており、朱音は何とかして弁解したいとそればかり考えていたからだ。


「平腹。女性に断りなく触れるのは良くないぞ」

「!」


一層強い煙草のにおいがしたかと思えば平腹の肩に男の手が乗った。肋角を見上げてから彼の言葉を受けた平腹は、朱音に振り向くと慌てて自身の両腕を引く。それから肋角と朱音を交互に見つめてからやっと合点がいったと言うように笑うと、違う雑誌を手にして自席に戻っていく上司の後を追った。暫く今起こった事を整理しようと立ちすくんでいた朱音だったが、ふと俯きながら自身の服のにおいを確認する。確かに煙草のにおいがしみ込んでおり、自分では気付かないものだと納得した。いや、そんな事をしている場合ではない。
慌ててお冷を用意しようとバックの方へ振り返った朱音を、いつからそこに居たのか従業員が肩を並べて見つめていた。その表情は各々で含むものが違うが皆同一に笑顔だ。一人が親指を突き出してグーサインを送ってくるので、彼女は丁寧にその指を折り曲げてやった。


「肋角さんこの店知ってたんですか?」

「佐疫がお勧めだと言っていたからな。田噛のお墨付きだとも聞いた」

「佐疫ぃ?アイツいつの間に?」

「……お前も随分気に入っているようだな」


向かいに座った平腹へと雑誌に注いでいた視線を上げてやれば、ずっとこちらを見つめていたらしい無邪気な目が嬉しそうに細められた。


「肋角さんは?肋角さんは気に入りました?」


それ、と平腹は脇に寄せられたコーヒーカップを指差した。入ってるものがオリジナルブレンドだと確信しているのはその香りのせいだろうか、それともそれ以外の選択肢がそもそも彼の脳に無いからか。何よりも自分の事のように嬉しげに興奮している平腹に肋角は無言で笑んで煙草を吸った。


「……俺は緑茶派だが、これなら緑茶が切れた時の代用に飲んでも良いな」

「それって美味しいって事ですかー?」

「そういう事だ」

「……お、冷をお持ちしました…」


直接言われるよりも間接的に感想を告げられる方が照れくさいのは何故だろうか。朱音は平腹の注文を承ると居た堪れず足早に席を後にし戻って行った。その背中を見送る平腹を肋角は一瞥する。


「俺はお前の方が意外だと思うがな。こういった静かな場所は退屈で苦手じゃなかったか」

「んー……。そういえばそうだ」

「大方普段は窓際に座るだろう。変わり映えのしない景色に耐えられんだろうからな」

「肋角さんすげー!せいかい!」

「……だがそれだけではこの雰囲気を打開できんだろう。何がそんなにお前を楽しませている…?」


肋角の問いに平腹はハトが豆鉄砲を食らったような顔をした。考えてもみなかった事だろう。元々楽しいこと好きの平腹が一人で喫茶店に入る事すら意外な事なのだ。どれだけ楽しくてもいつかは終わりか飽きが来る。その度に何か楽しい事はないかと探すのが平腹の常だった。改めて思い返してみればもう長い事この店で寛ぐ日々が続いている。店を田噛から教わってから暫くは仕事が終わった後特に何も予定もなく、したい事もない時に美味しい物を食べたくなって足を運んでいた。その内夜食を摂る為に赴くようになり、最近では仕事明けで酷い疲れを覚えない限りはこの店に来てゆっくりしたいと思うようになっていた。今日だって報告書が終わらずに職場に残って居たにも関わらず、閉店時間になる前に終わったら絶対に来ようと決めていた。しかし今、どうしてそんな風に思ってここに来たのか、理由が浮かんでこない。来ることが本能と同じく習慣になりつつあるからだろうか。否。ここに来るまでに言い知れない高揚感で満ちていたことを平腹は覚えている。これが本能だけでは成り立たない感情である事くらい、彼にだってわかる。


「よく、わかりません…。オレ、今すっげぇ楽しいけど、それが何でかはわからないです」


急に花がしおれたように眉を下げた平腹が少し予想外な反応だったのか、肋角は顔を上げて彼を見据えた。まだ答えを探すように目線を泳がせる部下の姿に肋角は何か思いついたように笑むと持っていた煙草を吸いがら受けに押し付けて火を消す。煙草の煙が消えて少しだけ視界がクリアになった。


「俺も人間臭い事を聞いて悪かったな。そもそも理由など誤魔化しの種でしかない後付けの代物だ。言動は常に生きる為に必要な事を選択しているにすぎん。それを如何に正当化して説明して見せるか。それが理由だ。人間は考える生き物だからな、無駄に事を細かく分析しようとするのだ。本来は思考を認識する前に脳がそれを体中に伝達しているから理由など必要ない。結果が全て。……お前は此処に来たいから来た。それだけで十分だろう」

「うーん……?」

「そう難しく考えるな」


平腹の目がぐるぐると回り出したのを見て肋角は肩をすくめる。少し意地悪し過ぎたようだ。だがもう一声だけ言わせてほしい。


「……もしそれでもお前が腑に落ちないというのならば、ここに来たいから来たのではないという事だ」


普段使わない脳を平腹なりにフル稼働させたのだろう。思考が停止したのか眠そうに瞼を下げた彼に、肋角はラストオーダーはパフェにしてやるかと、『うまいコーヒー』を運んでくる朱音の足音を聞きながら失笑した。










2015.04.16

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