悋気、劣等、痛み分け(鉢尾)*


「ちょ、……な、ん、でっ」
「ん?」
「だから! 手!」
「……? お前がして、って」

 ここは長屋の曲がり角。「声がでかいと人が来るぞ」と言われて、「あらやだいけない廊下のど真ん中だものね」と返して後、手首と手首の凌ぎ合いが開戦する。鉢屋とおれの力具合は、こと上半身に関しては、拮抗している。(下半身? おれの方が太もも太いし鍛えてるから踏ん張り効くよ。)

「ああ言ったさ、おれはね鉢屋、キスをしてちょうだいと。そして、キスをしたら帰ってねと、そう言ったの。」

 おわかり? わかってないでしょうねえ。鉢屋は下の句でも考えているのか、いつになく長考である。

「たしかに、聴こえた。帰ってとな。でもさ、私は、したいんだよ」
「でしょうねえ」
「したいんだよ〜」

 ぐい、ぐい。胸元に差し込まれようとする指先を、掴んで阻止している。おれの方が逆手で力を加えている分、筋繊維が鍛えられているのではないか。しかし残念、これは鍛錬ではない。

「おれだって、したいよ。でも、そんなに、セックスばっかり、してられないのッ。わかって」

 本音のところ、今日は気分ではない、それだけである。最後まで頑張れる気がしなく、鉢屋の身体の下で、無為に時間を過ごしてしまうのなら、と考えての、甲斐甲斐しい拒絶であった。

「かんえも〜〜ん」
「はいはい三郎くん、キミのどこでもドアはあっち。」
「なに。ガチ勢としてそのセリフは聞き捨てならないぞ」

 あーんもう。オタクってこういう時でも知恵ひけらかすからキライ。悪いのはおれもだけども、でもさ、ここはもっと、ロマンチックなこととか言って、バチっと締めるべきところであってさ。

「じゃあもいちど……」
「三十秒」
「短い」
「誰が来るかもわかんないぞ!」

 鉢屋は顎に手を当てて思案する素振りを見せたが、ゆめゆめ、好きにさせるものか。まるっと舌を舐めて、けろっと帰るのだ。学級委員長の朝は早い。知らんけど。
 柱のところにもたれたおれに、鉢屋が顔を近づける。先頃の口吸いでぬれたくちびるを、鉢屋の舌がなぞって、さらに濡らしてゆく。触れては熱く、離れれば冷たい。
 十六、十七、十八……。
 ん、と鼻から抜ける声を聞かされる。ムラッとこないわけがない。それをなんとか打ち克って、数を数えている。何某委員長に言わせれば、「欲に耐えるのも鍛錬だ!」か。(しかし再三言うが、これは鍛錬ではない。)
 二十八、二十九、……。

「む、っは、おわり。」
「別の奴のことを考えていただろ」
「えっ? ……どうだろ」
「あっ、UFOだ」
「は?」

 鉢屋が庭の躑躅の植え込みを指差してそう言ったのが、唐突で、つじつまも合いやしないので、呆気にとられていると、

「ん、んむ! うぷ!」
「んっ、コラ、……」

口の端と端をぴったり合わせ、顎を傾けてから、唾液を流し込んでくる。おれはこれがかなり嫌いで、(なのに鉢屋は都合が悪くなるといつもこれをやってくるのだ。)ベタかとは思うけれど、鉢屋の胸元をどんどんと拳で叩いて抗議する。

「んう、ぐ! おおお!」

 色気がないと言われようが構わん。そう思って呻いていると、小鼻を摘まれる。

「しー、静かにと言っている」

 そうだった、と言いかけてしまった。(言っているバヤイではない。)「イーッ」と口を結んで反抗の気を見せると、鉢屋は「ハハ」と上辺だけで笑ってから、

「一緒に居たいんだ」

と乞うては、おれの頭から首の後ろまでを、撫でるのである。それにしなだれない、男があるか。おれは今、自分のこころの弱さを嘆いている。


〜〜〜


 鉢屋の手が袷を開く。時たま上目遣いで見てくるものだから、こっちはまさにいとおしくなって、目を細めて返してやると、ぺろ、と舌を出して肌をさらってゆく。
 今日のおれには自負が欠けている。こうして息を荒くしてもなお、鉢屋を満足させられるかどうか、分からずにいるままだ。こんな時、おれにたゆたう胸があり、そこで鉢屋を満足に泳がせていられれば、どんなによかったかと、重くなってゆく首の後ろの感覚を呪いながら、思うのである。

「ああ、は、」
「期待してる?」
「さあ、……ね」

 この憂鬱を、悟られたくはない。だから、恋しいと思う気持ちをこころに注いで、無かったことにするのだ。

「てか、このままするの?」
「そのつもりだけど」
「ここで?」
「そのつもりだけど」

 冷静になってみれば、きわめてトンチキな話だ。なのに、今晩のおれは弱いから、いつのまにやら鉢屋の愛情を受け入れたくて仕方なくなっている。

「ん、ぐるぐる、や……」

 鉢屋は無言でおれの胸元を弄っている。

「カリカリも、やだぁ……」
「何ならいいんだよ」
「も、部屋行こ、」
「却下」
「おれ声我慢できないよ?」
「じゃあ塞いでやるから」

 合わさったくちびるの合間から、声が漏れ出てゆく。塞いだって、意味ないじゃないか。
 鉢屋の舌はぬるい。その温度に溺れて、気分もぼーっとしてくる。なんとはなしに、視線を廊下の先に漂わせる。

「!」

 おれは慌てて、鉢屋の口を手で覆う。鉢屋は「うぶ」と情けない声をあげる。

「兵助来る!」
「はぁ?」
「シッ!」

 乱れた袷を片手で掴んで、庭へ降りる。裸足だけれど、背に腹はかえられない。対面の倉庫裏へと跳んで身を隠すと、鉢屋が後を追ってくる。憮然とした表情だった。

「本当に来るのか? いいとこだったのに」
「兵助、毎日このころになると起きるんだ、多分厠」
「それを先に言っておけ。散々誰か来るとか懸念してたじゃないか」
「忘れてたんだよ」
「よかったから?」
「ん、んまあ、そうとも……言う?」
「ふーん」

 鉢屋は、にんまりと口角をあげている。

「嬉しそうにすんなよ」
「嬉しいだろ、そりゃ」
「好きだから?」
「ん、まあ、そうとも言う」

 ふたりで「でへへ」と笑ってから、正気に戻る。(鉢屋と居ると、どうもおちゃらけてしまって、よろしくないのだ。自覚はあるけれど、なかなか治らない。)
 陰から視線を向けて、兵助がやってくるのか、様子を伺う。

「忍者のたまごやっててよかった……」

と、おれが一息ついていると、鉢屋は背後からおれの夜着の裾をめくってくる。

「もう見せつけてやればいいさ」
「お前何言ってんの?」

 ばかでしょ。呆れつつも、視線を外すことはできなくて後ろ手でなんとか抵抗する。尻を諦めたらしい鉢屋は、腕をおれの腹に回して身体を密着させてくる。

「きた?」
「ま……いや、戸が開いた」

 やけにどきどきする。半分は、背中に鉢屋の呼吸を感じているからだ。

「兵助寝たら行くからね」
「ハーイ」
「思ってないだろ」

 首の匂いを嗅がれる。やめてよ。嬉しいと叫ぶ鼓動を、こぶしを固く握って押し殺す。

「ね、は……ちや、」
「ほんとここ好きだなお前」
「ん……ま、ね」

 お前にされるからだよ。──調子に乗るだろうから、言葉には出さないけど。

「ここは?」

 耳の裏側に鉢屋の息が当たって、あつい。

「……す、き」
「珍しく素直だな、今日」
「そう?」
「兵助は?」
「帰っ……た、ぁ」
「私たちに気付いてた?」
「……わか、な……」

 もうどうでもよくなったんだろ。……当たり。普段はへーすけへーすけってくっつきあってるくせに、こういう時は忘れるんだな。いや、あの、それは、うん。指が太ももの内側をなぞってゆく。鉢屋に触られると、なんでこんなに気持ちいんだろ。

「お前、はじめは乗り気じゃなかった」
「ん……」
「なぜ?」
「中三日の過密日程はちょっと……みたいな?」
「今は?」

 鉢屋、おれに訊いてばっかじゃん。ほんといい性格してるわ。

「正直、さっきのでもうたってる、から……」

 はやく、はやく、おねがい。手を取って触れてもらおうか、おれの理性が逡巡している。だめだ、そんな自分から、はしたないこと。

「兵助は、水分の摂りすぎだな」
「んん、ア、そこ、しゃべんな……」
「豆腐ばっかり食ってるから」
「あ、あ、だめ、はちや、」
「今度、兵助も呼んでみるか?」
「ば、そんな、の、」
「お前が悦んでたら、兵助も嬉しいだろ」

 こいつ、本気で言ってやがるのか。……舐めやがって。趣味が悪いにもほどがある。もういい。おれは奮起した。ようやく鉢屋の手をとり、口元に運ぶ。

「ね、はちや……」

 薬指を咥えて、口腔の奥へと導く。

「もう、へーすけの話は、いいからさ、」

 舌で包み、ちゅう、と吸って、ありったけの、扇情を籠めて。

「おれのこと、あいして……?」


〜〜〜


 夜風は寝衣の裾の辺りを駆け抜けてゆく。虫の声。倉庫の砂壁が手のひらに擦れてじりじりと鳴く。裸足で踏ん張って、小石を踏んづける。それを避けようと脚をあげると、腹の中のがいろんなところにあたって、ああ今おれは鉢屋のをくわえこんでるんだと思い知らされて、支配されている感覚が恥ずかしく、顔があつくなる。

「しー」
「んなこと言っても、ハ、こえ、でちゃ……」

 我慢しようと堪えるだけ、快感の逃げ場がなくなって、つらいのだ。それをわかっていて、そうするように仕向けているのなら、おれは鉢屋のことが、きらいだよ。

「あたま、わるくなりそ、……ン、〜〜ン!」
「私も。責任とってね」
「は……だれ、が!」

 相変わらず、鉢屋の息は首元から耳にかけてを行き来していて、でもそれがどんどん荒くなっていっていることに、ちょっとの愉悦を感じたりしている。鉢屋の細い指がおれの性器に絡んで、おれの呼吸も不恰好になっていることは、この際どうでもいい。

「きもちい?」
「ん……。」
「お前、前好きだもんなぁ」
「い、ちいち、いわなく……て、いいっ」
「中は? 感じない?」

 鉢屋がこちらを覗き込んでくる。頭が茹って、眼に張った涙の膜越しじゃ容貌もわからない(いつもわかってないじゃないか、って野次は、今は受け付けない)。

「そんなわけ、ないで、しょ……! んっ、わかんない?」

 そう言って腹部に力を込めると、遅れて鉢屋のうめき声が聞こえてくる。ざあまみろ、と悪態をつく力は残っていない。全てが密着しているのに安心して、いよいよ涙が溢れそうになる。けれど、すんでのところで泣けないでいる。

「ね、はちや、ぅ、早く、動いてよぉ……」
「……ほんとどうした? 今日」

 鉢屋は多少訝しんでるというか、面食らってるみたいだ。さもありなん。普段のおれであれば、こんなに強請ることを選びはしない。

「さっきも、自分から迎えに行って」
「だって、も、待てなかった……!」

 頭を振りながらそう言った。だいぶ、駄々をこねるような声色だったように思う。
 鉢屋の手が背面から伸び、おれの口元を塞ぐ。  

「それ以上、煽ってみろ。潰すからな」

 やれるもんならやってみろ。おれたちには、恥も外聞もあるのだ。ただただ自信だけが互いになくて、体温を求めてみたり、無駄な嫉妬をしてみたり。野蛮で、愚かないきものだ、心底。
 そして愚かないきものは呼吸することを止められず、おれの唾液が口周りと鉢屋の手のひらを汚す。被虐心が唆られるのを感じて、より呆れる。

「んん、ふっ、ン、……んん!」
「静かに、しろ、って」

 無理だよ。だって気持ちいい。どうせおれのことを抱き潰すつもりなんだ。そんなことは、とっくにお見通しだ。それでも、なけなしの理性では、抵抗するに足りていない。
 鉢屋はおれの口腔に指を差し入れ、舌を三本の指で掴んでくる。溢れた唾液と、先走りがぽたぽたと地面に垂れ、砂の色をわずかに濃くしている。おれだってこんなふうに泣いてしまえるのなら、鉢屋の子種を受け止めて、孕んでしまえるのなら、本当によかったのだけれど。

「ごめんね、は、ちや。ハ、きょ、おれっ……自信、なく、て」
「安心、しろ。どろどろ、に、溶かして、やるから」

 鉢屋の言葉が、純粋に有り難かった。自信がなくても、不自然に素直なおれでも、愛してくれようとしている。

「それで、鉢屋の、溶けちゃ……たら、ァ、ど、ッ、する?」

 溶かせるものなら溶かしてしまいたいのだ。身体の中を行き来するのがどうしても悲しくて、それでもいたく嬉しい。そうして輪郭のない感情で包み込めば、ずっとおれの中にいてくれる?

「その時は、お前の中で死ぬさ……」
「なにそれ……誠意?」
「そんなところだ。お前も、誠意見せろ」
「……ハッ。なるだけ、ね。」

 なんだよ誠意って。よくわからないで、融けた頭で返事をした。鉢屋は先ごろから動きを止め、腕をおれの身体の前に回し、胸のあたりに手のひらを当てている。
 誠意。たとえばすきと率直に伝えることがそれだとすれば、そのために高鳴る鼓動を読み取って、揶揄うことが目的なのか。──違うだろう。平時の鉢屋ならいざ知らず、今のお前なら、きっとおれが一番大事なことを伝えられていなくても、きっと汲んではくれるよね。少なくとも、部分的には。

「……わかるか?」
「合ってるかわかんないけど……うん。」
「そうか」

 鉢屋の鼓動もまた、そうなのだ。おれにわかることはまだ少なくて、その程度である。
 振り向くよう顎を引き寄せられ、口づける。にわかに差した月の光が、鉢屋の面の上で弾けている。やっぱりそうだ、身体のどこかで触れ合えば触れ合うほど、おれたちは互いを理解して、余計に不安がり、勝手に悲しみを深めていく。
 可哀想な鉢屋。決して他人のことを言えた立場ではないのだが、おれに許されるのであれば、守ってやりたい。そんなことを言ってしまえる勇気も、勿論ない。

「おれは、おれは、ね、鉢屋、」

 醒めた身体を奮い立たせ、腰を捩り、鉢屋の性器を中まで誘い込む。勇気がないから、おれたちはセックスをするしかないのだ。それは、身体だけでもいいから、との考えと、大差はないかもだけれど。

「ちゃんと、ん、あ、鉢屋の、もの、だよ」

 鉢屋はまたうめいて、それでも今度はためらうことなく動いてくれる。背中に縋るように覆い被さられて、それが変に心に沁みてくる。

「少なく……と、も、今の、っ、ところは。」

 息切れ。おれの言いたいことは、本当にこんなことだったか? わからなくなる。それを鉢屋が、

「勘、右衛門……」

と息を繋ぐように呼ぶものだから、こっちまで苦しくなって、肯定されたのに、どうして。

「勘右衛門、勘右衛門……」
「……うん、」
「…………。」
「死ぬまで、んっ、鉢屋の、ことっ、すき……だわ」
「だから、簡単に、言うなよ……」
「……だね、」

 咎められる理由は、わかる。すごく。でも、一生の約束、したっていいじゃん。破っても、少なくともおれは、怒ったりしないよ。

「ね、はやく……ハ、おく、きて…….」
「…….どうしてほしい?」
「おねがい、おく、おく、トントンして、っ」

 愛されたい。
 わかってる。十分なくらいもらってる。それでもこころが頼りなく、事実を得て、それをよすがにしたいのだ。
 濡れた太ももを風が乾かしてゆく。寒いからもっとくっついてよ。嘘吐くなよ。失礼な、嘘は半分だけだ。

「おまえは、ほんとに……わがまま、だっ」
「あっ、はちや、あ、あ、」
「わかってる癖に、見ない、ふりして、」
「あ、あ、んん、ああ!」
「私が、どれだけ、」

 ──どれだけ?
 一番好いところを突かれて、言葉にはならないけれど、脳みそは辛うじて、鉢屋への反論を用意している。誰に守られたいかを決めきれない、鉢屋のばかやろうめ。──こういうところがおれの可愛げのないところで、おれが勝手に沈んでいく要因のひとつなのに。
 こんなにこころが苦しいなら、早く気を遣ってしまいたい。しあわせ、間違いなくしあわせの渦中なのに、終わりを見つめては、諦観に連れ去られる。

「あ、も、もう、いきたい……!」

 鉢屋は何も言わなかった。ただ息の荒いまま、おれの下腹部に手を当てている。

「や、そこ……! おしたら、あ、あ、だめ、きちゃ……」
「押さない方がいいのか? どっちなんだよ」
「ううん、す、すきぃ……」
「…………。」

 どうして、恋にのぼせてしまった。
 どうして、愛を欲しがってしまう。
 どうして、将来をこいねがうのだ。

「……すき。」
「……ばかやろう」

 鉢屋も鉢屋で、ふてぶてしくそう吐き捨てる。互いに、明確でもない傷を舐め合っているのだ。ぬるま湯に浸かるような行為の心地よさ、それを許される期間が瞬く間に過ぎ去ること、その二つの軋轢が立てる波に、おれたちは毎日の思考を浚われている。
 見上げた月には鱗雲が重なり、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れている。

〜〜〜


「あーもう、尻にかけるなっていってんじゃん」
「私だって手、誰かさんのよだれでべとべとなんだが」
「ハー、早く洗いいこ」
「嫌だなあ、冷たいだろうなあ」
「ヤダヤダ言うなよ、お前のせいじゃないか」
「そっくりそのまま」
「お前のそういうとこ、好きでも嫌いでもないわ」
「あー。身体動かしたから疲れた」
「ポテチ食おポテチ」
「在庫あったか?」
「先週仕入れといた」
「お、いいねぇ」




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