途方に暮れて居ろ(勘竹)*


 引き戸の外側だ。けたたましい音によって、尾浜勘右衛門は意識を引き戻す。手の甲には唾液が垂れている。
 戸は思うよりずっと静かに開く。初めにツ、と引っかかる音がしてからは、なおのこと。
 現れたその姿は、勘右衛門にとっては予想のままであった。竹谷八左ヱ門が、月の大きい光を背に、だらりと立っている。

「勘右衛門…………」

 勘右衛門は口の前に人差し指を立て、その影に向かって示す。影はふらふらと寄り、やがて勘右衛門の身体に重なる。月の光がより大きくなるために、勘右衛門は目を眇めた。

「ちょ、はち、」

 そういえば、久々知兵助はどうだ。目を覚ました自分は戸に近い側の文机を使っていたから、今夜は彼の方が早く寝る、という段取りだったのだろう。八左ヱ門の身体の重量を肩のあたりに感じながら、確かにそのような会話があったと思い返す。首を無理に回せば、奥の文机で、(おそらくは少し前までの自分と同じように)突っ伏して寝こけている兵助の姿があった。
 八左ヱ門の身体は重い。まるで魂が抜けたかのようだった。こんな様子では、木偶の坊でも〈何か〉があったと判ってしまう。人より聡く、その自覚もある勘右衛門にとっては、相手の心情が思いやられるようであった。

「八左ヱ門、ほら」

 囁くが、できるだけ大きく、届くように咎める。床に身体がずぶずぶと沈んで衣摺れを起こさぬよう、腕で支えるのにも限りがある。力を込め、背の方まで回っていた顔を正してやり、表情を覗き込む。

「…………。」

 見るまでもなく、勘右衛門の慮ったたとおりに、八左ヱ門の茫然がある。まったくなぁ、とか、言ってやりたいことは概ね定まってはいたが、口には出せない。代わりに、

「……ン、」

 八左ヱ門の頬を片手で撫でつつ、口を塞ぐ。くちびるを舐め、歯を差し込む程深く押し入れば、相手の前歯と擦れて、ざり、と背筋の慄くような感覚がする。勘右衛門はひとつの水音も立てぬよう慎重に八左ヱ門の口腔を犯した。しかし、八左ヱ門が大きく息を溢そうとするので、小鼻を摘んで、

「……こら。」

と小さく呟く。その音が案外大きく響いた気がしたが、八左ヱ門を促して、勘右衛門は自室を後にする。敢えて振り返ることはしなかったが、それでも「布団くらい、掛けてやればよかっただろうか」などとは、思うのであった。


〜〜〜


「あのまましてくれてよかった」
「おれそーゆー趣味なくて」

 ごめんね、と、気の無い謝罪を受けながら、八左ヱ門は自身の衣類を解いていた。こういうときに甲斐甲斐しく脱がせてくれない勘右衛門の性質が、少し大人びて苦手だった。
 それでも何かあれば頼ってしまうのは、悲観的な夜を最後まで明かしてくれるからに他ならない。抱いて、と頼めば無下にせず、抱かせて、と乞えば程よく淡白に、そうしてくれるのが勘右衛門なりの励ましなのだ、と八左ヱ門は心得ている。

「準備できた」

 というより、〈できている〉の方が正しい。先刻、零れ落ちそうな涙を堪えて準備をしていたら、余計に惨めとなったのだ。感覚が蘇って、八左ヱ門は自分の身体を抱くように身を縮める。二の腕に触れた手の指は、自分のものとは思えない程に冷えていた。
 待てど、勘右衛門は触れてこない。

「……?」
「いやあね、おれはさ。中立を保とうかと」

 落ち着きが悪くなり、居ずまいを正した八左ヱ門に、勘右衛門はそう話し出す。

「それって……」
「してみる? ひとりで」
「……ッ、んな、」
「ごめん、嘘」

 虚を突かれて、八左ヱ門は言葉を失った。夜に夜を重ねたように、凄惨をこの身に与えられたのに、相手を責める気にはちっともなれない。勘右衛門も彼なりに、苦しんでいるのだ。自分と、兵助の間で。
 勘右衛門は八左ヱ門の前に立ち、頭を数度撫で、それから横髪を引っ張った。「ごめんね」と言う。今度のそれは、心からのものだろうと聞こえた。

「おれの役目を忘れていたよ」

 お前のおもりだもんな、大丈夫、今思い出したから。安心させるように諭す声色が、つらかった。八左ヱ門は、嗚咽の衝動に襲われて、それを堪えて口を結ぶ。勘右衛門の襦袢の袷を、裾の方から引きちぎり、下帯から性器を取り出して、側面から口に含む。

「ッ、はち」

 自分でも、行動に理由をつけられなかった。ただ、意味のない温度に触れていれば、悲しみが少しはましになるような気がしていた。
 舌を上に、下に這わせていく。ただ口に含むだけでは、「あんまりかな」と過去に聞いたのだ。そう、この男に。
 首を動かすと、陰毛が鼻にあたって不快だった。なにが楽しくてお前を悦ばせなきゃならないんだ。八左ヱ門は目の前の相手を呪う。俺がほんとうにしたいのは、ほんとうは……。

「ごめん、はち、怒った? いいよ舐めなくて。嫌いだろ?」

 ああ、嫌いだよ。八左ヱ門は心の内で返事をする。嫌いだから、お前が可哀想がるから、してやるよ。声には色を含ませる。コケにしたような興奮の徴に、性器が呼応していくのが愉快だった。

「う……。あ、ね。はち、どうしちゃった? もしかして、」

 おもねるような声を聴きたくなく、八左ヱ門は裾を下に引いて、勘右衛門の膝を落としてから、くちびるを奪う。自分でも歯を当てるように仕向け、内を雑に探ると、溜めていた唾液がツツ、と流れていく。

「ん、ふぅ、んぐ」

 訳がわからなかった。それでいいと思った。どうせそのつもりなのだった。どうせ、我を忘れ、勘右衛門に介抱されて、翌朝はけろっとして、していることを、強いられている。誰に言われたわけでもなく、人間の習性として、八左ヱ門は、そう生きていた。

「ぐ……はち、は、ち」

 困ったような勘右衛門の顔は、好きだと思った。そうやって、困っていればいい。俺の前でだけ、手に負えない程の感情を手にして、そう、眉を下げて、そうやって。



〜〜


 夜明けを待たず、勘右衛門は八左ヱ門の部屋を発つ。

「う……寒」

 温かな体温が恋しかったが、これ以上意味を持ってしまっては、後先になったも同然だ。腹のあたりを抱えるように縮こまりながら、長屋の廊下をぺたぺたと歩く。
 この頃は、と勘右衛門は自戒する。八左ヱ門を前にして、浅はかさを晒してしまうことが多いように思う。〈少しくらい考え過ぎの方が、いざという時傷付かなくて済む〉、というのが、勘右衛門の下賎な、信条である。あるのだが、そう教えてやったらば、八左ヱ門はさめざめと泣きだしたのだ。

「泣くかあそこで、普通……」

 獣も泣かぬ夜のしじまに、勘右衛門はぶつぶつとひとりごちている。

「でもまあ、泣いてるときは誰でも、子供ンときと、同じだよなぁ……」

 こころは仄かに燃えている。誰もが抱える悲しみを、その身に封じ込めるように。




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