イケメンとコンプレックス

 エレベーターに乗る。扉が閉まる。ふわり、と仄かに空間全体が浮き上がったような感覚を覚え、ともすれば次の瞬間、先程まで点灯していた「1」の表示が消灯し、その右隣の「2」という表示がそっと点灯した。
 ひとつ階を移動するだけだから、ゆっくり話をする時間などない。荷物を持ってくれている京に先に下りてもらうため、開いた方の手で開くボタンを押す。京が降りたのを見てから、自分もエレベーターを降りた。無人になった四角い箱は、どうやら上階から呼び出しが掛かっていたようで、扉が閉まるなり上へと移動を再開した。
 二○三号室。表札に「若藤」の名前を確認したところで、京の足が止まった。京は荷物を離さず、その状態から器用に鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。
「荷物下に置いてくれても良かったのに」
「まだ一応『お客さん』やさかいな」
「なんだそれ」
 開錠。外開きの玄関扉が少し軋んだ音を立てて開いていく。まず目に飛び込んできたのは、マンションの一室とは思えない光景だった。
「若藤探偵事務所……?」
 広々とした玄関口には、シックな木目調のパーテーションが設置されており、そこに『若藤探偵事務所』と描かれたプレートが掲げられていた。クラシカルな銀縁が上品さを漂わせており、少し足が竦んでしまう。
「あれ、言うてなかったっけ? 俺ここ自宅兼職場やねん。あ、靴箱そこやからな」
 当然だが、部屋主である京は平然と靴を脱ぎ、玄関右に横付けされた靴箱の扉を開いて、脱いだばかりのショートブーツを収納した。それに倣い、俺も脱いだ靴を靴箱へ入れさせてもらう。
 靴箱は大きかったが、なぜか三分の二ほどの面積を内戸が隠していた。残りの面積でも充分靴を収納できたが、気になって聞いてみたら自分の靴をそこにしまっているのだそう。ここはお客様にも利用してもらう靴箱なので、自分の靴が過半数を占めていると見目が悪い。かといって公私分けるのは面倒くさいので、こういう処置を取っているのだとか。そういえば、昔から服や靴に関心の多いおしゃれな男だったなあと思い出す。
 京に案内されて、中へと進んでいく。
 パーテーションの左側に通路が続いており、そこを抜けると広々とした応接間に出た。黒い革張りのカウチソファが二つ、向かい合わせに置かれており、その間にはガラス製のローテーブルが鎮座している。部屋の奥側に書棚があって、中には分厚い書籍やファイルのようなものが綺麗に並んで収められていた。
 大き目の書斎机の上では、アンティーク調のデスクライトが首をもたげている。全体的に調度品のテーマが揃っており、統一感のあるおしゃれな応接間だ。
「すげえ、事務所だ」
「事務所やもん。あ、洗面所は右っかわの扉入ってすぐな。手ぇ洗ってきたらそこらへん座っといて」
「おー」
 言われるままに、応接室の右側にあった扉を開く。入ってすぐ洗面台があり、左にはトイレ、右側には脱衣所を挟んで浴室があった。来客が使用することも考え、普段は脱衣所側の扉は閉めてあるのだろう。そういうプライベート空間であっても、一見整理整頓がされており、清潔な印象を与えた。男の一人暮らしの癖に。
 自分が以前まで住んでいた社員寮の一室とはわけが違うな、と思いながら洗面台で手洗いとうがいを終える。応接間に戻ると、いつの間にかテーブルの上に茶と菓子が用意されていた。
 俺がソファーに腰掛けると同時に、京が洗面所のほうへと入っていく。多分安物のカップや皿だとは思えど、室内の雰囲気的にちょっとお高そうに見えてくるのが不思議だ。
「コーヒーとかもあってんけど、きっさんいけたか分からんから無難なとこいっといた」
「俺コーヒーあんま好きじゃねえから助かる」
「自分味覚ガキやな」
「お前に言われたかねえよ」
 手洗いを終えてきた京は、向かいのソファに腰掛けるなり「さて、」と改まって話し出した。


***


 どうして、私は生きているのだろう、と思う。
 どうして、まだここにいるのだろう、と思う。
 見た目が醜いせいで、小さな頃から俯いて生きてきた。
 声を発することが怖かった。人の顔を見ることが怖かった。
 内向的で、暗くて、ずっと部屋にこもりきりの私を、きっとお母さんは迷惑に思っていたはずだ。
 それでもまだ死ねずにいるのは、認めてほしかったから?

 いっそ誰かを憎むことができたなら、どんなに楽だったろう。
 悲しい、悔しい、寂しい、虚しいって、そういった感情の矛先をされ課に向けられたなら、どんなに強く生きていけただろう。
 それができないのは、自分自身にそこまでする価値を見出せないからだ。

 私は醜い。私は、生きていて何の価値もない。
 誰からも必要とされない。路傍の石ころより、もっと侘しい。

「回覧板……受け取ってもらえるかしら」
 日中に活動するのは、よりいっそう惨めになるから嫌だった。そうであっても、最低限のやるべき事はこなさなければならない。
 私は重たい足取りで、お隣の二○三号室へと向かった。
 用件はひとつ。腕の中にある回覧板を、お隣さんへと渡すため。そこには今春に予定されているフリーマーケットのお知らせが記載されたプリントが挟まっている。用紙下部には確認印の欄。私、二○二号室の右隣、二○三号室以降の欄は空欄だ。これは未確認であることを示していて、つまり私がこれをきちんとお隣さんに託さなければ、残りの何十名と言う人たちにお知らせが行き届かないのだ。
 毎度毎度、回覧板を回すこの瞬間は気が滅入る。ただでさえ、他の人と交流することが怖いのに、お隣に住んでいる若藤さんと言う方はとてもかっこいい若い男の人なのだ。同姓も怖いが異性はもっと怖い。
 しかもご職業は探偵をされている。コミュニケーション能力が高いだけでなく、人様のお役に立つような素晴らしいお仕事をされているという、私とは百八十度違う人種の方。彼を目にするだけで、私と言う存在の矮小さが際立つから極力お会いしたくないのだが、こればかりは仕方ない。
 二○三号室の扉の前に立つ。重たい気分のまま、さっさと終わらせてしまえばいいのだと自分を奮い立たせてインターフォンを押す。ほどなくして奥から、誰かが歩いてくる音がして、咄嗟に顔を下げた。扉が開く。
「あ、あの、」
「はい?」
 ふと、頭上に降ってくる声に聞き覚えがないことに気づいた。驚いて、思わず顔をあげてしまう。
 そこに立っていたのは若藤さんではなく、始めてみる男性だった。若藤さんと同様に、この人もまた顔立ちが整っていてかっこよかったが、なんというか、若藤さんほど気取っていないような、いい意味で庶民らしさが強いと言うか、なんというか。
 やや太めの眉毛が特徴的で、自然と視線がそこに集まってしまう。男性は、少々困ったように笑い、
「何か用ですか?」
「あ、ひゃい! え、ええっと! こ、こここ、これ……」
 私としたことが、人様のお顔に醜い顔面を晒し続けたままでなんと無礼なことだろう。恥ずかしくなって慌てて俯き、回覧板を差し出す。男性はそれを受け取ると、
「京ー! 回覧板ー!」
と、なにやら奥に向かって叫んだ。
「おー、受け取っといてー!」
「んー!」
 奥のほうから小さく若藤さんの声が聞こえる。男性はそのように返事をすると、突然その場にしゃがみこみ、あろうことか私の顔を覗き込んだ。
「!?」
「ちゃんと渡しとくんで。ありがとうございます」
 それは、きちんと私の目を見つめて、発せられたもの。
 頭の中がぐるぐるとパニックに陥り、私は逃げるようにその場を後にして自室へと帰った。なんだか最後に呼び止められようとしたような気がしたが、きっと気のせい。
 家に帰り、ベッドへと飛び込んで、未だにばくばくとおさまらぬ心臓を落ち着かせるべく、ぎゅっと目を瞑った。そうしたところで効果があるわけでもないのに、ただただ一心に、それが静まりますようと祈り続けた。


***


「変な子だったなあ」
「なん、灰吹さん?」
「はいぶき?」
「二○二号室の人やろ。えらい外見コンプレックスとコミュ症拗らせてあんな感じやねん。まあ悪い子とはちゃうんちゃう?」
「ふーん……」
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