保健室の悪魔



うっすらと目を開ける。視界には真っ白なカーテンと、真っ白な天井。ここは・・・・・・

「気がついた?」
カーテンの隙間から男子生徒が顔を出した。誰だろう、この人。
「あ、すいません。ここ、保健室ですよね?」
わたしは体を起こした。清潔な消毒液のにおいのするベッドにわたしは寝かされていた。
「そうだよ。びっくりしたよ、きみ廊下に倒れているんだから」
ああ、そうだ、わたし廊下で散々長谷川先輩(とその取り巻き)にボッコボコにされたんだっけ。思い出すと背中や腹が痛い。
「う・・・」
思わず痛みに顔をしかめた。
「大丈夫?」
彼は心配そうに、わたしの顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫です・・・。それより、あなたがわたしを運んできてくれたんですか?」
「ああ。僕は保険委員会の委員長だしね」
委員長、ということは三年生か。お兄ちゃんと同じクラスってことは、ないよな・・・。
「きみさ、仙蔵の妹だろ」
えっ・・・・・・
「あの、なぜ、それを」
保険委員長は手品のように、わたしの生徒手帳を右手に掲げた。
「いつのまに・・・!」
「保健室の利用者名簿に名前を書かなくてはならないからね」
わたしは先輩から自分の生徒手帳を奪い返した。証明写真なんて、あまり人に見られたくない。
「似てないよね、仙蔵と」
・・・・・・こういうことを言われるから。
「・・・よく言われます。先輩はお兄ちゃんと同じクラスなんですか?」
「うん」
先輩は、ぎしりと音をたてベッドに腰掛けた。
「僕は善法寺伊作。よろしくね」
伊作先輩はにっこり笑って右手を差し出してきた。
「よろしくお願いします」
よろしく、なんて言って握手するだなんて、珍しい人・・・。でも、こんなに屈託の無い笑顔なのだから悪い人ではなさそうだ。
伊作先輩は、わたしの左手を握ると、
「きみ、お兄ちゃんのこと好きなの」
・・・・・・・え・・・・・・
「きょ、兄弟ですから、嫌いじゃないですけど・・・」
「そういう好きじゃなくてさ、男として、男性として好きなんじゃないの」
何この質問・・・。心臓がバクバクいってる。逃げたいけれど、伊作先輩は笑顔を浮かべたまま、わたしの左手を離そうとしない。
「・・・・・・・・・・・・」
何て返せばバレない?ああ、でも今のわたし絶対に顔が赤い。何も言い返せないわたし・・・。
「図星なんだ」
その言葉が、まるで死刑宣告のように聞こえた。あー、バレた。バレてしまった。今更言い訳なんて通用しない・・・。
「あの、なんで・・・」
「なんでわかったかって?ずっと、お兄ちゃんって寝言を言ってるからさ。その時の顔が兄弟にしては、ちょっとね」
そんな恥ずかしい言葉と顔を知らない人に晒してただなんて・・・ああ、死にたい!!
「で、それってきみの片思い?」
わたしは小さく頷いた。ますます死にたくなった。
しかし、こんな風に死にたくなっていただけでは最も回避しなくてはならない事件を引き起こしてしまう。
「助けてもらったうえに頼みごとなんて言いにくいんですけど・・・」
「黙っててあげるよ」
わたしは、ぱっと顔をあげた。そこにはさっきと変わらぬ笑顔。ああ、やっぱり、この人いい人!
「ありがとうございま・・・」
「その代わり、」
伊作先輩は、不意に右手を放した。ぽとり、と真っ白なシーツの上に、わたしの左手が落ちた。
伊作先輩は右手をわたしに突き立てると、
「僕と付き合って」
は・・・・・・・・・
「なんでですか・・・」
「別にいいだろ。きみ彼氏いるの?」
「いませんけど、なんでわたしが伊作先輩と・・・」
「言うよ?」
さっきと変わらない笑顔だ。それなのに、その言葉は脅し以外の何物でもない。いい人だなんて思っていたわたしは大馬鹿者・・・。
「伊作先輩は・・・その、わたしが・・・好き・・・なんですか・・・」
「そんなわけないだろ。勘違いするなよ、きみみたいな何の取り柄も無い女の子、好きにならない」
ちょ・・・・・・何の取り柄もないなんて自分でもわかってることをこうして第三者に改めて言われると、もう泣きたいんですけど・・・。
「じゃあ、なんで、あたしなんかと」
「ひ・ま・つ・ぶ・し」
そこで伊作先輩はとびきり輝かしい笑顔を見せた。
(悪魔・・・・)
こいつ本当に人か・・・・・・?
「きみは仙蔵が好きなのにね。僕と付き合うとか、笑えるよ」
なんてことだ・・・こんなやつが保険委員長だなんて、うちの学校終わってるわ・・・。
(お兄ちゃんにバレるよりはまし、お兄ちゃんにバレるよりはまし・・・)
自分の気持ちがお兄ちゃんに知られないだけ、まだ、まし。そう言い聞かせ、わたしはベッドから這い出た。
「あれ、もう行くの?」
「もう遅いし、帰ります」
時間が遅くなくても、こんなとこ一秒だっていたくない。
保健室をでようとすると伊作先輩は律儀にも出入り口までついてきた。ふと疑問が浮かび彼の方を向く。
「なんで見た目だけで、わたしが何の取り柄も無いって、わかったんですか」
「ああ、これで」
伊作先輩は、わたしのファスナーの開いた鞄に手を突っ込むと、ノートのようなものを一冊取り出した。
「ほとんど間違ってるし、字も汚いし、このレベルじゃ何やらせてもダメだろうな、ってね」
国語のワークブックだった。
あああああーーー!
「それ、忘れてた!」
放課後までに提出しなきゃいけないのに!しかもほとんど間違ってんのかよ!!
わたしは伊作先輩からワークブックを引っ手繰った。
「保健室まで運んできてくれたことはお礼いいます!じゃ、これで!ありがとうございました」
わたしは頭を一つさげ、その勢いで保健室を出た。
「桜子ちゃん!」
「え?」
名前を呼ばれ振り向くと、すぐ目の前に伊作先輩の顔があった。彼は目を閉じ、そのまま唇が重なった。柔らかい唇の感触・・・・・・。
「じゃあね」
伊作先輩はにっこり笑って保健室の扉を閉めた。バシンと廊下に響く音に、ふと我に返った。
(あたしの、ファーストキス・・・・・・)

『お前にはまだ早い』
昨日のお兄ちゃんの言葉が蘇る。

早いも何も、好きですらない人にキスされた。

なに、これ・・・泣きそう・・・。

わたしは保健室から離れたくて一気に職員室のほうへ駆け出した。

わたしだって、お兄ちゃんと結ばれるなんて思ってない。だから、いつかはこの気持ちを整理して、他の男の子を好きになる日がくるんだと思ってた。
でも、そんなわたしの些細な願望が、あっさりと崩されたわけで。けどそれは、お兄ちゃんを好きになってしまったわたしが悪いんであって、誰のせいでもない。

だから泣きたいけど、涙が出ない。
お兄ちゃんの前でだったら、どんな小さいことでも泣けるけど、今はそのお兄ちゃんもいないから。

わたしは涙を力いっぱい呑みこんだ。




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