彼女の反逆



※微裏注意




もしこの世界に恋のキューピットだか天使だか、とにかくハートの矢じりのついた矢とユニコーンの尾でできた弓を持って、ふわふわした羽の生えた妖精のような生き物がいるのなら、とことんわたしは彼ら(もしくは彼女ら)に嫌われている。ねえ、恋の女神様、なぜわたしは好きでもない人間にキスされてしまうのでしょうか。それも二回。
でも人間というのは恐ろしいもので、何度か繰り返されれば耐性がつくらしい。いくら好きでもないって言ったって、ただのキスじゃない。唇と唇が重なっただけ。単なる唾液の交換だろうが。ははははははっ・・・ううえぇーっ、やっぱ気持ちわるっ…。

昨日生徒にキスした人間が、さわやかな朝の光が差し込む教室で堂々とモーニングガイダンスをしているなんて、まじで狂ってんじゃないのか、こんな世の中。
「今日は短縮授業だ。五時限が終わったら掃除を始めるんだぞ」
土井先生が朝の連絡事項を読み上げる声に嫌悪感が湧いてくる。まともに顔を見ることなんてできないので、机に目を落としていた。できるなら耳までふさぎたいのだが、そんな目立つ奇行できるわけなく、破壊的なメガヘルツにひたすら我慢するしかない。こんな気持ちで朝の会を迎えるとは、今のわたしの学校生活は今まで生きてきた中でダントツに最悪だ。
「いつまでも文化祭気分じゃ困るからな。しっかり授業に集中するように」
お前が業務に集中しろやカスーっ!!
と脳内で大絶叫してみる。当然顔は下を向いたまま。土井先生の顔なんてできるなら二度と見たくない。しかし次の土井先生の言葉で、わたしは反射的に顔をあげてしまった。
「そうだ、忘れていた。文化祭の感想文を書いてもらう。文化祭実行委員はクラス分まとめて放課後私のところへ持ってくるように」
な、んだ、と……。
おもわず土井先生の顔を凝視する。文化祭は終わったというのに、まだこき使うつもりか。生徒を下僕にするのがそんなに楽しいんかボケ。
だけど、土井先生の意図がそんなんじゃないのは先生の顔を見てわかった。
いつもの嫌味な口角だけの笑いではなく、何かを必死に隠してそうなってしまったような無表情。無理に感情を無くさせているのに、滲んでしまう寂しさのような切なさのようなもの……。わたしは再び視線を下に向けた。そんな風に見つめられても、わたしが土井先生にできることなど何もないのだから。
「実行委員って誰だっけー?」
「知るか。俺に聞くなよ」
「桜子さんじゃね?」
クラスメイトのざわめきが、どこか薄いベールの向こう側にあるみたい。恋の女神様って本当に意地悪。かなわない恋なんて、わたしくらいでいいのに。






―――
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――――――



放課後、わたしは40枚の『文化祭を終えて』を抱え、国語準備室の前に立っていた。前に、ここに来たときのように人っ子一人いない廊下。こんな怪しいことをするにはうってつけの部屋を土井先生にあてるなんて、この学校の運営には問題があると言わざるをえない。
はあと息をついて覚悟を決める。トントンと軽いノック。どうぞ、と中から声がして、わたしは無言でドアを開けた。
ドアを開けると、そこにはすぐに、美術室の作業台のような木でできた大きな机がある。それに向かいあう形で黒い革張りのソファーがあり、机とソファーの奥、白いレースのカーテンがかかった窓に面して事務机が据えてあった。先生はこちらに背中を向けて、事務机でノートパソコンに向かっていた。
「先生、文化祭の感想文持ってきました」
「……桜子か。そこらへんに置いといてくれ」
先生がパソコンに向かったまま返事をした。そのほうがありがたい。わたしは、教科書やワークブックのサンプルが積み上げられた作業台にプリントの束を置いた。
「じゃ、わたしはこれで」
「桜子、」
ぎしっと音がした。振り返ると椅子から立ち上がった土井先生がこちらを見つめていた。朝のときと同じ表情。何をそんなに思いつめているのだろう。大人でもこんなカオするんだな…。
「先生、」
もしあなたが私を好きだとかもう一度ほざくなら、今度こそわたしは綺麗さっぱり言ってやらなくてはいけない。そう決めた矢先、先生の右足がわたしの方へ踏み出された。とっさに後ずさると、とん、と背中に机があたった。逃げ道が、ない。口頭部を手で包まれ、腰に腕を回される。この次に何をされるのか嫌でもわかる。
「んんー」
今までしたことのない濃厚なキス。唇を食べられてるみたいな錯覚に陥る。快楽なんて、ない。ただ唇と唇の接触という感覚しかわいてこないのは、相手が好きでもなんでもない相手だから。しかし、こんな余裕すぐに吹き飛んだ。次にわたしを支配したのは勿論快感なんてもんじゃなく、得体のしれない恐怖感だった。
「うあっ!?」
だんっと背中に衝撃が走り、まっすぐ天井の薄汚れた蛍光灯が目に入った。机に押し倒されたのだ。その反転した世界の主は、土井先生だ。彼は今やなんの表情も隠さず、そこにいた。寂しさも切なさも通り越した思慮深い瞳が質の悪い前髪の隙間から光る。
「先生…」
まさか、これ以上先に進みませんよね…?
なんて、無知な子供の考えること。先生はいとも簡単に左手だけでわたしの両腕をねじ上げるど、顔を首筋に埋め舌を這わせた。
「いやぁっ…!」
スカートに入れていたワイシャツの裾を引っ張り出された。シャツの裾から土井先生の手のひらが入ってくる。薄いお腹の皮膚を大きなざらついた手が滑ってく。さっきまでチョークを握っていた土井先生の手が、今わたしのシャツの下で這いずり回ってる……。思わず目をぎゅっとつぶった。
「や、めてください…!」
先生の手がお腹を撫でていたかと思うと、ゆっくり上にあがってきた。慣れた手つきでブラの下に手をいれ、胸を揉まれる。あまりの出来事に気を失いそうだ。何度も言うが、決して快楽でも快感でもない。いまや物理的な接触ではなく、はっきりと嫌悪と恐怖が湧いてきた。いやだいやだいやだ……。この先どうなっちゃうの?
ふと先生の背中越しに黒いソファーが見えた。先生とミチルがヤってたソファー。ミチル。土井先生に恋してた女の子。ううん、ミチルだけじゃない。あの巨乳の先輩も、あの絹のブラウスの似合う美しい女性も、この男が好きだったのだ。そんな彼女らの愛情を裏切って、別の女を組み敷くこの男に怒りが湧いてきた。
「……けろよ」
自分でも驚くくらい低い声が喉をついて出た。ぴたりと先生の動きが止まる。
「…桜子?」
首筋で先生の声がした。わたしは膝を勢いをつけて立てた。それは見事に先生の腹に入り、先生はうっと呻いた。拍子に両腕を掴んでいた力が緩んだ。
「どけろっつってんだよ変態ロリコン教師!」
わたしは思い切り両腕を振りほどき、自由になった右手で拳を作り、先生の頭にサイドからストレートパンチをかました。先生はぐはっと息を吐いて、よろめく。わたしは先生の体を押しのけ、作業台から、すたんと地に降りた。
「先生、あなた自分のしていること、わかってるんですか」
作業台に手をついて腰をおり、苦痛に顔をしかめ頭を抱えている先生を見下ろす。モテる男は女に何してもいいだなんてルール、あいにくだけどわたしには通用しない。
「帰ります」
これ以上ここにいても仕方ない。くるりと背中を返したときだった。
「ま、待て」
はあ?
これ以上ここにいたら何されるかわかったもんじゃありません。
「いやです」
「なぜだ」
なぜ!?
三股かけてるうえに性格最悪で生徒に手を出す人間の好意に応えられる人間のほうが珍しいとなぜ思わないのか。
「あんのですねえ、」
ぶちぶちと堪忍袋の尾に切れ目が入るのを感じながら振り向いた。そして、そこにある土井先生の瞳に、うっと声がつまった。ああ、これで今日三回目。
きゅうと唇を噛み、濡れた子犬のような瞳で、土井先生はわたしに言うのだ。
「好きなんだ」
………。
「わたしは先生のお気持ちに応えることはできません」
「なぜ?」
この人、失恋ってしたことないんだろうなあ…。
「先生よりも好きな人が他にいるから」
「…………」
先生が生まれて初めて失恋した相手は、わたし。そしてわたしが服の中に手を入れられた最初の相手は先生。なんで、こんなことになっちゃったんだろ。これでお相子様ってコトで、感情に折り合いをつけるしか、うまい方法が思いつかない。
先生は一瞬だけ深く目をつむると、ため息とともに、再びゆっくりと瞳を開いた。
「そうか」
わたしは頷く。
「恋人から奪おうなんて野暮なこと、しなければ良かったな」
…恋人?
「あの、恋人って…」
言いかけて、はっとした。そうだ、わたしは伊作先輩と付き合ってるってことになってたんだ!
あわてて口を押えたが、もう遅い。
「…お前、善法寺伊作と付き合っているんじゃないのか?」
先生は怪訝そうに言う。
「えっ、ええ、そうです」
上手に嘘がつけない…!!
先生は首を傾け、疑わしそうにこちらを見た。
「…お前、本当は伊作と付き合ってなんか、ないな」
……鋭い。いや、わたしがわかりやすいだけなのか…。
「そそ、そんなこと……」
「では伊作の血液型を言ってみろ」
知るかボケ―――っ!!
「……クワガタ」
「外れだ。お前は勉強だけじゃなく冗談も下手だな」
ほっとけや腐れ先公―――っ!!
「ちょっと先生なんなんですか!さっきはわたしのこと好きだとか抜かしておきながら!!」
「この私を振る女の思考が理解できんのだ」
こいつ、どんだけナルシスト入ってんだよ!
「あんたどんだけ自分がカッコイイと思ってんのよ!お兄ちゃんのほうが先生の何百倍もカッコいいんだからね!」
言いきって、はっとした。なんでここでお兄ちゃんなんて出しちゃうの……!
恐る恐る先生を見る。急に口をつぐんだわたしに、さまざまな女を手なずけてきたこの人が何も感じないわけはなく。
「・・・お前、以前もそんなこと言っていたな…まさか、立花仙蔵が好きなのか・・・?」
あっさりと、わたしの先生よりも好きな人は見破られてしまった。
かあっと顔が赤くなるのが自分でもわかる。
「桜子、」
先生の手が伸びてきた。わたしはそれを音を立てて振り払い、
「最低教師!」
捨て台詞を吐いて国語準備室を出た。




―――
――――
―――――
――――――



鞄を取りに教室に戻り、再び廊下へ出る。ぱたぱたと、わたしの上靴が廊下を踏む音だけが響く。まだ夕刻にも満たない時間帯。明るい午後三時半の陽の光が窓から差し込む。お日様が上がってる時間だというのに女を押し倒す土井先生って何者よ。
「はあ……」
自然とため息がこぼれた。もうこれ以上、わたしの平穏を崩してほしくない。誰にも。でも、人間が社会的生き物である以上、そんなの土台無理な話で。
「桜子ちゃん、」
廊下を曲がった柱の影から伊作先輩が現れた。わたしの上靴の動きが止まる。
「やっぱりまだ学校にいたんだね。鞄が教室にあったから、わかった」
先輩はにこっと微笑むと、わたしの手首をつかんだ。そして、そのまま引っ張られる。行先は言うまでもなく彼の支配する真っ白なお城。一歩中に入れば、消毒液のにおいが麻薬のように纏わりつく。
「保健だより、分けるの手伝って」
言い渡されたのは慣れた作業だった。わたしは鞄をベッドに放り投げると、机に重ねられた膨大な量のプリントを40枚ごとに数え始めた。
「いち、に、さん、し、ご」
自然と口からカウントが漏れる。先輩は壁に寄りかかりながら備品である銀色のボールペンをくるくると回し始めた。
「ろく、しち、」
「ねえ、なんでお兄さんが好きなの?」
「はち、きゅう、」
「兄弟だろう?結ばれっこないのに」
「じゅう、じゅういち、じゅうに、」
「こうやって僕の言いなりになるのも、恋心を仙蔵に知られたくないからだろう?」
「じゅうさん、じゅうよん、」
「なんでそこまでするんだ?」
「………」
銀色のボールペンが視界の隅でバレリーナのように回転している。わたしはプリントの枚数を数えるのを止めた。
「この間、先輩はわたしを助けてくれましたね、」
「…ここの裏でのこと?」
保健室の勝手口は校舎裏へと出る扉だ。
「一応お礼は言っておきます。ありがとうございました」
伊作先輩は何か言いかけようと口を開く。しかし、わたしは間髪入れずに、でも、と次の言葉を続けた。
「わざわざ助けてくれなくてもよかったのに」
ぴたんと銀色のボールペンは回転を止めた。
「わたしと伊作先輩は契約みたいなものでしょう?先輩はいい暇つぶしに、わたしは脅されて恋人のふりをする。恋愛感情なんてカケラもないのに、馬鹿らしい。わたしは伊作先輩がわたしの気持ちをお兄ちゃんにバラさなければ、先輩がどんな行動の選択をしようと構いませんから」
ああ、わたしは残酷な女かもしれない。恋愛感情なんてカケラもない人間が、相手の出方でペンを動かすことすらやめてしまうものだろうか。
「…僕がどんな行動の選択をしようと、構わない……」
わたしは無言で頷いた。
それを確認すると、先輩はプリントに置いていたわたしの手をぎゅっと強く握りしめた。
そして下からすくい上げるように先輩は乱暴に唇を押し付けた。
うわあ、伊作先輩、土井先生と間接キスじゃん。って、そういう問題じゃないっつーの……。
でも、わたしは無抵抗でいる。キスという行為に慣れた今、戸惑いもなければ、相手が伊作先輩である以上、胸の高鳴りなどあるわけがない。
ただされるがままになっているわたし。伊作先輩は、はあ、と熱い息を吐きながらわたしから唇を離した。うつむきながら彼は言う。
「長谷川さん、だっけ。あの女の子の言っていたこと、わかる気がするよ」
お兄ちゃんが好きでたまらないのに、何の興味も示されてこなかった、あの女性(ヒト)…。
「恋愛感情のカケラもない、それは君の方だけだ」
「先輩、わたしは、」
「知ってるさ。でもね、君と仙蔵は実の兄弟だろ?結ばれっこないじゃないか。いつまで夢見てるつもりだい?」
ぼんやりと、掴まれている右手が目に入る。
―――いつまで夢見てるつもりだい?
だなんて。散々わたしをコケにしてきた先輩が、わたしに好意を持った途端手のひらを返したように説教して口説いて、これって調子が良すぎるんじゃない…?
「あんたなんか大っ嫌い!!」
気が付けば口走っていた。
わたし、なんてことを……。
お兄ちゃんにバラされてしまうかも、という保身よりも、彼を傷つけてしまったんじゃないかという罪悪感のほうが圧倒的に胸を占めた。
はっとして先輩を見ると、彼は驚いたように目を見開いていた。でも驚いてるんじゃない。衝撃を受けたから目を見開いているだけで、わたしの言葉が何を意味するかようやくわかったとき、苦痛が彼に訪れるだろう。
しかし、伊作先輩は顔をくしゃくしゃにさせたり、うつむいたりしなかった。ただ、弱弱しく微笑んで、
「知ってる」
ああ、いたたまれない。わたしは伊作先輩の手に包まれた右手をすりぬかせると、膨大なプリントの山を残して保健室を後にした。








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善法寺伊作は全校生徒分の灰色のわら半紙を前に、ぼんやりと佇んでいた。
―――あんたなんか大っ嫌い!
先刻の少女の声が幾度となく脳内を巡っている。
そう言われても仕方のないことを自分はしてきた。だから納得はしている。しかし、ひどく胸がずきずきするのは理性で抑えることのできる代物ではない。
(立花仙蔵……)
伊作は事務机の引き出しを開けた。そこには今年の四月に行われた健康診断のファイルが収まっていた。青色のそれを引っ張り出し、ぱらぱらとめくる。そして“立花仙蔵”のページで手を止めた。
(…………)
じっと見つめていると、コンコンとノックがした。返事をする前にドアが開く。そこには彼が開いたページの名前の主が立っていた。
「仙蔵、どうしたんだい?」
伊作はすべての感情を一瞬で隠し、柔和な笑顔で言った。
仙蔵は室内を見回しながら中へと入ってきた。後ろ手にドアを閉める。
「妹が来なかったか」
「いいや、来てないよ」
「そうか。ここだと思ったんだがな」
「一緒に帰る約束でもしていた?」
「そういうわけじゃないが、気になってな。また変な連中に絡まれやしないか」
仙蔵はそこで足を止めた。薄いカーテンのかかったベッドの向こう。そこに黒い鞄が投げ出していある。あれは……。
「ねえ、きみの妹、僕にちょうだいよ」
振り返るとこの部屋の主、善法寺伊作が口に不敵な笑みを湛えていた。
仙蔵は小さくためいきをつく。
「何わけのわからないことを。お前と桜子は付き合っているじゃないか」
「ははっ、まだ茶番に付き合ってくれるのかい?君も妹のためなら何でもするんだね」
「………」
「桜子ちゃんを僕にくれないかな。どうしても欲しいんだ」
「………」
仙蔵は、黙りこくり伊作を見返した。
「こんなこと言っても無駄かな?きみたち、血、繋がってないだろ?」
仙蔵は一瞬だけ横に長い目を揺らしたが、すぐに無表情になり、相変わらず黙り続けた。
伊作はますます笑みを深くさせ、
「当たり」
そのとき開け放っていた窓から大きな風が入り込んだ。風はわら半紙の山を崩し、舞い上がった紙片が、ぱさぱさと灰色の雪のように二人を包んだ。




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