「ぃよっしゃーあ!これで自由の身だー!」
チャイムと同時に目の前の8番が大きく伸び上がった。後ろで俺っちもー!両肩を上下して首を回す姿。結局学生の本業はすっからかんにすっ飛んだ。見渡すまでもない。教室中の殆どが同じような顔で笑い合っていた。
いいだろ、ちょっとくらい。
テスト期間中は出席番号順に戻るその席は、まだ離れて二週間にもならない懐かしい定位置。背中で感じる天化の息に、目の前にある発の背中。流石に触れはしないものの、くすぐったかった3日間。
「カンニングに間違えられちゃたまんないかんねー」
すっかりイタズラに明るく笑うようになった後の席がそう言ったから。
「テスト開けたらよ、どっか行かね?デート」
既に懐かしい一週間前の秘密の約束は、問題用紙と睨めっこした数式より思いを巡らす初めてのこと。
「なぁ天化、決めた?」
眠さと怒涛の質問攻めに解放されて、振り返った目が輝いた。ニシャ!上がる口角に覗く八重歯。色っぽくて健康的で、イタズラな目で、肺がふわふわでいっぱいになる。煙草よりずっといい。くすぐったい馬鹿なヤツ。
「ん、」
ポケットの恋人。親指の恋人。小さい二つ折りのケータイから届く指令は二人の秘密。
「お、」
"5千円持って駅前集合"
その全角10文字に行き着くまでに、一体どれだけかかったことか。目の前で満開の笑顔が親指を立てた。駅前もなにも、結局教室からの道すがらずっと一緒なのに。
「ってか、ドコ?」
「んー、着くまでナイショさ」
土曜の今日は2限で終了。明日からはテスト休みと重なって、怒涛の稽古が待っている。青空の下のつかの間の恋人は、薄っぺらい鞄ふたつで並んでいた。
並木道を過ぎて電車で数駅。初めて口付けを交わした日、通った道。続く道。白いガードレール沿いのアスファルトが熱い。
「ほい!」
半歩先を行く天化の足が、くるり自信満々ターンを決めた。照り返す日が眩しくて目が眩む。
「……は?」
「ここ」
立てた親指で背中越しの建物を指す。カラフルな塗装。大きな看板に群がる親子連れから老夫婦まで。人に溢れて微笑む建物。外から内までなにからなにまでバラエティーに富んだ、目のチカチカする庶民の味方がソコだった。
「ちょい待て!意味わかんねぇ!」
「えっ…もしかして知らないさ?百均…」
「バカヤロんなこと言ってねぇよ!舐めんなコラ!」
「じゃあいいっしょ!俺っち決めていいって言ったさ」
「いや…冗談だろそれ…なぁ、」
「金持ってきた?」
「持ってるけどよ」
んじゃ!楽しげに走り出すソイツの気が知れない。
馬鹿じゃねぇの。
発の目が、影に落ちた。
髪の一本一本まで、短く黒く鮮明に。アスファルトを真っ黒に染める高い高い夏の影。目の前がぼやけるのは蜃気楼?違う、……馬鹿じゃねぇの、ホントに。
「王サマ?どーしたんさ?」
「…どーしたじゃねぇよ!」
きょろきょろ目を転がすソイツが、どこまで本気でそう言ってる……?
「王サマ?」
「"王様"じゃねぇ!」
無遠慮に覗き込んだ顔。楽しそうに腕を掴む腕を突き放すのに、思った以上の声が出た。きっと久しぶりだ、こんな声でこんな態度で。
「……なんさ?なんで」
「……なんでじゃねぇだろ」
アスファルトが黒く染まる。発の影。馬鹿馬鹿しい。楽しみだったのに。子供の頃の遠足なんて、楽しみはどこを探しても落っこちてなくて。それよりなにより待ち望んだのになんだろうこの場所は。よりによってなんでこの……――
「発の部屋」
頑なに棒立ちままの黒い影に、照れ笑いの影が重なった。髪の一本一本が、二人分。
「こないだ行ったらあんまりなんもないから」
「ほっとけよ」
「フライパンくらいなきゃ俺っちなんも作れないっしょ。……それじゃ腹減るさ」
照れ笑いの筈の身体がくるり翻る。逆光の背中が早口に告げた。
「コップもないと喉渇くし。ポットあんなら麦茶くらい出して欲しいさー」
そそくさ走る前の背中。
「……バッカじゃねぇの…」
馬鹿じゃねぇの。
きっと馬鹿は自分なんだけど。
真っ赤になってる耳が見え隠れする真昼の夏。
「押しかけ女房かよ、天化ちゃーん!」
走って追い付いた隣の空気が、露骨に嫌な顔をした。……いいや、今はそれが一番楽しい。
「初デートがココってやっぱ発想がチェリーっぽいよな。モテない典型?」
「黙るさばかッ!」
「うぐっ」
露骨に歪んで真っ赤になって、力一杯口と頬を塞がれた。ヘッドロックすら通り越したその腕に、振り回す両腕。
「死ぬ!死ぬからマジで!」
「……鼻出してりゃ死なないさ」
「んじゃ唇で塞いでよ」
「知らねぇさ!」
真っ赤になってまた走るその背を追うのが楽しい。だってだって、ソイツが睨まない。諦めきったあの目をしない。
「なに照れてんのー?」
「照れてない!」
「デート?チェリー?どっちよ?」
「あーたにウンザリしてるだけさ!」
「好きな癖に」
「うっさい!」
なんだってこの喧嘩腰で指を繋いで男二人で百均めぐりなんだ。
人混みはそんな二人に気付く程暇じゃない。誰もいない。広いひろい夏の街に二人だけ。カラフルな食器も銀のラックもチェックののれんも、なんだってこの世はあったかい。並んだ百円玉と五円玉。
「カップったらコレかな」
発の指がつまむブルーのマグカップ。
「だから暖色の方がイイって言ったさ!そのほう食欲沸くし」
「あ?…だんしょく…え?お前こないだから言ってたのそれのこと?」
「はぁ?」
必死に説明するその顔が、キョトンの似合う間抜け面に変わる。そんな瞬間が面白くて止められない。つくづく噛み合わない。笑い出したら止まらない。そんな瞬間がやっぱり好きで。
「なにさ?」
「んー、俺愛されてんなと思ってよ」
笑い転げたすぐ後で、歳よりずっと妖しく笑うその表情に魅せられっぱなしで悔しくて。くすくす笑う口の端が上がるのが、きっと好き。
「んで天化こっちな」
続けてつまむ隣のカップ。
「なんで俺っちピンクさ」
「暖色なら良いって言ったじゃんよ?」
「他にもあるっしょ!なんで王サマっていっつもそう…」
「んじゃサーモンピンク?あ、これいいじゃん!チェリーピンク!」
「………」
黙りこくった隣の頭は、目は口ほどになんとやら。真夏の昼間に冷房以上にひやりとした。
「……ごめんって」
拗ねた口が好きだなんて言ったら、きっと怒るんだろう。
「ソレ。言われんの嫌い」
「おう…うん、ごめん」
無表情のまま、カゴの中のカップが転んだ。
「発の中って何人住んでるさ?」
「え?」
あのとき一緒にいた人っしょ、それから廊下で肩抱いてた人、んで遊びに行ってた人、ファミレス連れてきてた人いっぱい。
俯いて続く声。
「……俺っちだけでいいっしょ!」
「……うん」
俯いて尖った唇が勢いよく動く様が、きっと好き。
目は口ほどにはんとやら。押し寄せる反省の波と愛おしさと、負けず嫌いなそれが好き。
謝る、抱き寄せる、髪を撫でる、キスをする。したいことも選択肢もいくつも足元に転がっていて、でも違う。発の頭半分だけ低い筈の隣の黒髪が、俯いて頭ひとつ分。鍛えた腕がカゴの中身をテキパキ棚に戻しにかかる。
ガキっぽい。意地っ張り。天邪鬼。それはきっとお互い様。
「てんかぁー腹減った」
「ん、なんにするさ?」
深呼吸と一緒に、胸の中で作った"ごめんな"。へばりついたら背中が熱い。
「なんでも好きなの作ってやるさ!」
子供に言い聞かせるかのように振り返った顔は誇らしげで、ほら。やっぱり一番好きな顔。
「チャーハンがいい、天化のチャーハン!」
「んじゃスーパーも寄ってくさ」
「おう」
「他もなんかいる?」
「作れんの?」
「当たり前さ!」
至近距離の大輪の笑顔。眉毛が得意気に上がる瞬間。顔をくしゃくしゃにして笑う瞬間。
「……やっぱ天化ってあったけぇ…」
「すみません、後」
狭い通路の後ろを通る買い物カゴに慌てて飛び上がったのは数秒後。気温も含めいろいろに沸騰した天化を引きずって、キンキン突き刺す冷房の中、炎天下のデートは続く。
「あ、なぁなぁ天化ーポテチー」
「ダメさ、高い」
「なんでよ?2コじゃん。2コ100円。」
「んー、それちょとグラム数少ないからさ。スーパー行って98円の買った方が10グラム多いかんね。」
「……お前そこまでやってんの?」
「財布の紐握ってんの俺っちだから」
ニシシ。自慢げに笑う顔。
「鬼嫁…」
「誰が嫁さ誰が!」
「知らねぇー、ほらスーパー行こーぜ、腹減ったー」
しょーがない人さ。そう笑う声が好きなんだから、確かにしょうがない人だった。