月の夜に君と



ここ数日重く垂れ込め、気まぐれに篠突く雨を降らせた雲が、ようやくすっかり姿を消した朝。高く青く晴れ渡った空の下、眩しそうに天を仰ぎ、汗を拭いながらその日の仕事に精を出す、若い農夫の顔もまた晴れやかに見えた。やがて日が頭上高く上り、腹を空かせた農夫は偶然側を通った饅頭売りの振り撒く香りの誘惑に負け、暖かく柔らかい饅頭をひとつ腹に収めると、小さくほぅと息をついた。しばらくして全てを売り捌いた饅頭売りは、次の饅頭を作る為の薪を買い求め、饅頭の代わりに薪と傾き始めた日を背負い家路についた。薪売りは夕暮れ時に薪の代金の一部を木こりに渡し、木こりは朝市で買い求めた野菜たっぷりの粥を夕食に、月の薄明かりの中満
たされた面持ちで眠りについた。


 今は亡き先代の統治者のもたらした恩恵は大きく、飢えにも、ならず者にも怯える事の無い治世の民の日々は平穏そのもので、その影で世話しなく動く者達の姿が無ければ争い事などとは無縁であるように思われた。
 時は殷と呼ばれる時代。かつて名君と呼ばれた紂王が仙女妲己の色に溺れた事により、永らく続いた王朝は終焉の時を迎えようとしている。殷を討つべく奮起した張本人の先代は、名を姫昌といった。殷の中心朝歌より西の小国二百余を治める西伯候の地位にあった姫昌の名は人徳者として広く知られ、民にその存在を国の宝と言わしめる程であった。そして現在その志を受け継ぐ姫昌の次男の名は姫発。紂王討つべしと発起し軍師太公望を抱え戦の基盤を整えたのは姫昌であったが、その姫昌が志半ばこの世を去った後、実際自らを武王と称し西岐を周として挙兵したのはこの姫発であった。
 ここは西岐、改め周。青白い月の光が壮麗な城を照らす。昼間の騒々しさが嘘のように、夜の帳が下りると共に静寂が辺りを包み込んでいた。燭台の明かりも届かない、しかし西岐の中心豊邑の町を一望出来る長い渡り廊下に佇む独りの影は、武王姫発その人だった。


姫発は揺らめく小さな明かりの元で文字を追い疲れた目頭を、両手で顔を包むようにぐりぐりと揉み解した。何度か瞬かせ重い瞼をゆっくり開くと彼の視界は明瞭さを取り戻し、月と闇が群青に染めた町並みを遠くまで見通すことが出来た。こうして独り平穏な町並みを眺めるのが姫発は好きだった。時折緩やかに吹く風が、姫発の長い前髪と頭の巻布の端を揺らした。
 王という肩書きを背負っているとはいえ、己にたいした才が無いということは、姫発自身が一番良く分かっていた。秀でた兄と弟の間にあったこともあり、随分長い時間自ら政には関わらぬように過ごしてきた。しかし殷の武成王にも引けをとらぬカリスマを備えていた兄伯邑考と偉大な父を失い、まさかこのような形でそのツケを払うことになるとは、姫発自身想像すらしていなかったことだ。朝歌に向かって進軍していた期間とは違い、豊邑に居る今政から逃れることは出来ない。内政に優れた弟周公旦に任せきりにする訳にもいかず、姫発が王としてこの先覚えなければならないことは無限にあるように思われた。


 姫発が小さく項垂れると、視線は遠くから真下の城内に落ちた。城では、所々見張り用の松明の朱がゆらゆらと揺らめいている。すぐ近くを移動している松明は見回り兵のものだろう。そのまま何気なく朱を追いかけていると、松明に赤い添え星のような小さな明かりが見えて、一瞬考えた姫発は直ぐに一人の男の顔を思い浮かべた。昨日までの空のように暗雲とした瞳が脳裏を過ぎった次の瞬間、姫発は身を翻しその男の元へと駆け出すのだった。
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