サンプルpage 01



「やだ、いやだぁぁぁ」
ぐずぐずと鳴り出した鼻と口元は拭われることもなく、行き交う大人たちの足の下で、発の身体は大きく跳ねた。
「う!?」
きっと抱き付いた父に似た誰かの膝に蹴り飛ばされたのだろう、漆喰の手摺の間を転がり出す身体。真っ逆さまに転がりながら小さな腹が空腹にきゅるきゅる鳴いて、子供は困り果てていた。宮廷に漂う甘い香りに、行き交う人の香の香り。目に飛び込む天は、豊邑と同じだけ青かった。それが少しだけ、意外でもある。

「あ──あれ? ここ、ドコだ…?」

城の裏か、中庭か、城下か。茂る緑と落ち葉の中で、ぺたりとついた尻がじんわり寒さを伝えていた。振り返った回廊から、二度三度転がったらしい。冷たいのは踏みつけて溶け出した霜柱の名残だ。鳴り止んだ知らぬ土地の音楽、訪れる静寂。鳶の声。それを打ち破ったのは威勢の良い剣呑な兵士の声だ。

「どっからきたさ、よそ者!!」
「わっ」

唐突に飛びかかる高い声に、発の肩が飛び上がる。今日何度目かの叫びが晴天を渦巻いて、後退りの尻餅がまた濡れた。ついた手が霜柱を崩す音。
「名をなのれっ!」
今度こそ喉元に突き付けられた切っ先に、
「しっ……」
「なのるさ!!」
「知るか無礼モン! 名乗らねぇテメェに名乗る名前なんざねぇや!!」
全身の血が立ち上がる。逆立ちの毛穴と逆流の血潮。沸き立った怒号と共にぐちゃぐちゃの右手で掴み取った切っ先を捻り上げ、瞬く間に相手の首元に突き返した。
「ふひゃッ!?」
刹那、随分甲高い声が、霜柱に背をつけて転がった。

「へ……?」

そして発は声を失うことになる。

発よりも随分細い、小さな身体。
幼い腕の長さの倍もある長い剣は、大人には程遠い木の剣。
目の中で零れまいと堪る水滴が、
「……ふ、っく」
一斉に水かさを増した。
「え、へ!? え? え?」
すっかり予想もしなかった。声の主が自分と変わらぬ子供だなんて。さらさらと風に流れる黒い髪。髪をおさえた白いバンダナが、雉の尾のように宙を踊り、発は未だ息を飲むしかない。おずおず差し出す発の手を振り切った子供は、左手で目元をぐちゃぐちゃ拭った。真っ赤に腫れ上がる頬は寒さの為か、それとも発の手が付けた傷か。
「ご、ごめ」
言い淀む言葉に、発の爪先が半歩近寄る。冷え切った右の指先がふくれた頬を撫でた瞬間。

「……うっ、ふ、ぇええぁぁあああーっ!!」

震える細い肩の上下が止まり、瞬く間に周囲を包む轟音に発が耳を塞いだのは言うまでもない。総毛立つ、子供独特の危険信号がそこにある。未だかつてない大声で天を裂き、泣き叫ぶ子にまた半歩近寄った。大きく天を仰いで惜しげもなく泣く子の頭を覆う物が、
「……ももいろ、」
春を待つ仔兎の耳のように、柔らかな桃色なのだと今知った。
「……これ、かわいいね」
激しさを増す鳴き声の真ん中で、しゃくる声に揺れる尻尾をちょんと摘まんで、発は笑った。どんな顔でどんな声で、自分より身分の低い子に触れたらいいのか――それは教えられた記憶はなかったけれど。
[ 1/3 ]
≪|
offline-top




[TOP 地図 連載 短編 off 日記 ]
- 発 天 途 上 郷 -



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -