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戦闘終了/本書冒頭


 走った。息が切れるのも躊躇わず、否、とっくに乱れているのだから仕方がない。今更構っている余裕はなかった。
右の手に持つ黒い宝剣は今まさに光を消したばかりで、我が腕の如く掌に吸い付いたまま捨てることすら叶わない。背後に追い縋る君主の声を耳から切り離した。――走らなければ。急がなければ。左で雑木をかき分ければブーツで踏み付ける枯れ薄。朝方の霜の名残が、ぐしゃりと音を立てて跳ねた。それは何故だかとても淫猥に、鼓膜すら絡め取るようにして脳髄に蟠る。
天化を突き動かすものは、ただ一つ。己にだけ忠実な衝動そのものだった。


 逃れたい。その一心だ。
まだ日も高い初冬の空の下に、濃霧のような赤い血が降ったこと。国境から外壁の隙間を縫って街に取り入る妖怪の類を、二、三匹その手にかけた。右と左にそれぞれ持った宝剣から放たれる光の筋は、少年自身の陽の気のものか、封ぜられた妖怪の魂魄か。見紛うほど鮮やかな戦況に、頷いたのは数歩後に駆け付けた軍師だった。バンダナを風に遊ばす少年の背後でひきつった声がしたのは、果たして誰のものだったか。
「天化……!」
不安と焦燥と。純粋なる恐怖を孕んだ青年の声は、時として君主としてのそれを帯びるようになった。さながら親を亡くした迷子のように天化の助けを求める声に、苛立ち、笑った日もあったのに。
「おい、お前らケガねぇか!?」
震える脚を自ら鼓舞し外套を翻しながら瓦礫の中を駆ける背に、軽く添えられる手があったこと――一足遅れて大空から宝貝と共に舞い降りた空色の長髪が風に交じる。
「武王は戻って!」
ああ、大丈夫だ。恐らくはもう任務を放棄しても構わない。――目下の護衛としての役目を終えたと認識した途端、走り出さずにはいられなかった。
「天化!?」
背に降り注ぐ声を振り切って。


「……っはっぁ、」

抑制を重ねた呼吸は酷く喉に突っかかり、肺を引っ掻く空気の鋭さにむせかえる喉を反らして、天化は今日の場所を探す。相場は決まっていた。周軍の本拠から離れすぎないことに加え、己の姿を隠せること。相反する二つを満たす場所は西岐の中でも数少ない。震えそうになる膝を大きく屈伸させて飛び上がったのは、西岐城の二階に位置する朱い作り窓だった。汗ばんだ天化のしなやかな四肢をあっという間に吸い込んだその南向きの小さな窓は、幾分かくたびれて、絡む蔦の中から朽木が見える。ギ、と不穏な音を立てて無粋な侵入を許した部屋から、立ち込める埃が太陽に舞った。着地の衝撃もそのままに擦り切れたデニムの膝を尚更擦って、天井まで積まれた竹簡の雪崩れた隙間へ蹲る。瞬間ぴくりと跳ねる肩から、じんわりと熱い脂汗が滲み、天化はきつく眉根を寄せた。それが快か不快かわからなかったのは、今に始まったことではない。
「……っ――!」
慌ただしく引きちぎらんばかりにして下されたデニムは悲鳴を上げ、転がる宝剣が埃の溜まった床の上に新しい道を作る。薄暗い部屋の中で逆光を浴びた天化は、腰に巻いた宝剣をしまうスリーブのボタンが外れないもどかしさに短い悲鳴を噛み殺しながら、何度も何度も頭を振った。早く、は、やく、――頭の中の喧騒が遠のいたのは、熱い両手で下肢に触れた瞬間だった。
「んッ、く……!」
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