▽ 1,思ひつつ
丑三つ時。
ぼんやりとした曖昧な視界の中、それは確かにこっちへ来ていた。
「……!!」
とっさに逃げを打とうとするものの、ここは自室で、私はベッドの上でつい数秒前までは眠りこけていたのだ。体が咄嗟の反応ができるわけもなく。
すらりと伸びた細い手が、その手からは想像できないほどの力で私の首に掴み掛る。
長すぎる黒髪はもがく私の動きにつられて揺れ、たらりと頬に落ちてきた。
それを払う暇なんてない。いま私にのしかかり殺そうとしてくるこの女に抵抗することもままならない
私にそんな余力はない。
視界は相変わらず曖昧なので女の顔は見えない。いよいよ意識が遠のき、じわじわと近くにまで迫り来ている死を明確に意識した。
そこで、いつものように、私の意識は暗転する。
1.思ひつつ
どうしてこんな日に限って、と毒づいた。
べつに昨夜遅くまで起きていたという訳でもない。なのに、なのに、こんな日に限って。
「どうして寝坊するの私の大馬鹿!!!」
寝坊である。完璧な。携帯のアラームが仕事しませんでした。恨むぜ柔銀行。
いつもなら叩き壊したい程の爆音アラームを喚き散らすというのに、起こしてほしい日に限って沈黙を決め込んでいる。
このまま窓の外へ完璧なフォームで投げてやってもいいのだが、そんなことをして苦しむのは自分自身だとよくわかっているので実行には移さない。
件の携帯をタップして電車の乗り換えを即座に確認し、現在の時刻と照らし合わせる。ギリギリセーフ、かもしれない。化粧、身だしなみ、・・・女のプライドを捨てて駅までダッシュすれば、なんとか。
今日はサークルの人々との親睦会を目的とする小旅行の出発日だ。
今年から大学生になった私は地元を出て一人暮らし。その一人暮らしももう三か月が経とうとしている。
もともと家に家族がずっといる…という家庭ではなかったので、今さら一人暮らしになったといっても真新しさはなかった。
しかし、やはり田舎から都会に越してきて驚いたことはたくさんあった。主に通勤ラッシュとか。通勤ラッシュとか。通勤ラッシュとか。
伊達に日本の中心やってない、東京。人の多さに驚いて、コンビニの店舗数に驚いて、バスの本数の多さに驚いて、山手線の運行スピードに驚いて。
夜になっても明りがある窓の外に、漠然と「ああ、都会だ」と初日に実感したのを覚えている。
昨夜に届いた旅行に関する最終確認メール。指定の時間と集合場所。そして最後には「集合時間前にこれなかった人は容赦なくおいていきます!注意!!」の一文。
参加必須の行事ではないから、遅刻者には一切の情けなしといったところか。
「容赦ねえ…」
思わずもれたつぶやきを拾う者は誰もおらず、私は昨晩に用意しておいたボストンバッグ
を無造作に手繰り寄せた。
本当に昨日準備しておいて助かった。
着替えや諸々が入ったそれとは別の、サイフや定期をいれたバッグの中身をもう一度確認し、寝間着のジャージを脱ぎ捨てて適当な服を着る。
この際どんな服でもいい。間に合えばこっちのものだ。
脱ぎ捨てたジャージをゴミを捨てるように洗濯籠の中に放り込んで、準備は万端だ。腕時計へ目をやる。
これは、間に合う!かもしれない。
ヒールが低めのサンダルをつっかけ、ドアを開ける間も惜しい。
勢いにまかせてドアを押す。
鍵を片手に、いざ。時間との戦いの始まり。駅までの全力疾走だ!
ゴン。
「………………………………え?」
足に込めた力が、行き場をなくして消えていった気がした。
手はドアノブを握ったまま、両肩にかかったバッグがずるりと腕の中程まで下がる。
何かに、ぶつかった。一体何だ。マンションの、しかも人の家の前に物を置くなんて失礼な住居者がいるもんだ。
そう、ドアがぶつかったものが、「物」であったらどれだけよかったことか。
黒い。そして大きい。黒い衣服から伸びる手は、それと相俟って余計に色白に見えた。
ドアがぶつかったのは「物」ではなく「者」。間違いなく人だ。
しばらく固まる他なかったが、ずっと握りしめていたドアノブを離して再び倒れている黒い人を凝視する。
酔っ払いだろうか。
いや、いくらここのマンションが駅近だとはいっても、さすがにラウンジのセキュリティがついているドアを潜り抜け、四階まで上ってきてぶっ倒れるだろうか(ちなみに私の部屋は401である)。
答えはもちろん否だ。そんなことあるわけない。
だとすると、このマンションの住居者だ。きっと酔っぱらって前後不覚に陥りそのまま倒れたんだろう。
そうときまればやることは一つ。このマンションの管理人さんに連絡だ。
そしていち早くこの酔っ払いを私の家の前から撤去してもらはないといけない。
家の前で知らない人が倒れているのはもちろん心地のいいものではない。
いそいでマンションの一階に降りようとエレベーターへ向かう。
その倒れている黒い人を刺激しないよう跨いで(なんかの弾みで起きてからまれたくない)、エレベーターへ向かう途中、ちらりと倒れているその人を振り返ったが相変わらずピクリともしていなかった。
エレベーターに乗り込んでボタンを慌てて押し、少しの浮遊感の後一階到着のランプが灯る。ゆっくりと空くドアをこじ開けるように飛び出して、管理室を目指した。
「まじですか」
しかし、現実の神様は私を簡単に見放した。
そう、朝早すぎて管理人がマンションにまだきていなかったのだ。「管理人室」とかかれたドアには無情にも「ただいま不在」のプレート。
いまはこのプレートが憎らしくて堪らない。
ああ、打つ手なしだ。どうしよう。こうなったら管理人が来るまでここで待つか。
人が玄関前に倒れている自室になんてもう帰りたくない。
ていうか、なんでこんな朝早くに私は起きたんだ。腕時計をみること、今は5時25分………
「ああああっっ!!!電車!!!」
響き渡る絶叫。しかし、時間が戻るわけでもなく。
危うい手つきで携帯を操作し、メール画面を呼び出す。
「集合…5:30に東京駅新幹線乗り場前。※集合時間前にこれなかった人は容赦なくおいていきます!注意!!」
5時30分。只今5時26分。間に合わない。もうだめだ。
このマンション徒歩約三分の駅まで行き、そこから数駅電車に乗って東京駅だ。どうあがいても絶望。間に合う訳がない。
「おいて行かれた…」
肩にかかったボストンバッグの重みが今さらのようにのしかかり、思わずぺたりとマンションの冷たい床に座り込む。
初夏が過ぎ、本格的な夏が始まりかかっているというのにひんやりとした冷たさが足を伝う。
楽しみにしていた親睦旅行。それは儚く散った。
遅れて行ってもいいのだがが、コミュ障な私だ。
仮に遅れて行ったとして、すでに少し仲が深まりつつある人々の中に割り込み「これからよろしくおねがいします!!」なんて愛嬌のあるキャラは演じられない。無理だ。
はあぁ、と乾いた溜息。
さて、どうするか。
旅行のことはもういい、あきらめよう。あがいてもしょうがない。
問題は私の家の前で倒れて(いるであろう)人のことだ。ぶっちゃけすごくかかわりたくない。だからはやく管理人さん来てくれ。
そのときふと思いつく。待てよ。あの倒れていた人、本当に酔っ払いだろうか?
そんな疑問が思い浮かぶと同時に、様々な疑問符が次いで出る。
酔っ払いだと決めつけていたから疑わなかったけど、そういえばお酒臭いとも思わなかった。
しかもわざとではないものの、結構勢いよく開いたドアをぶつけてしまってもなんの反応も示さなかった。顔は見ていないが、肌が異様に白かったのは覚えている。
さっと顔の血の気が引いた。ちょっと待って、もしあの人が酔っ払いじゃない場合、最悪、死………
思うと同時に立ち上がる。ボストンバッグを手繰り寄せて、再びエレベーターへ。
しかし不運なことに、8階にランプが灯っている。
到着を待っていられない。考えることもなく、階段を駆け上がる。
もし、あの倒れている人が病気かなにかで倒れてたとしたら、急いで救急車を呼んで、その間にAEDとかすれば…もしかしたら助かるかもしれない。
久々に階段を駆け上がったので息が切れている。荒い息を気にする間もなく、私は自室前の廊下の飛び出した。真っ先に黒いあの人が目に留まる。
「だっ、大丈夫ですか!?」
荷物をすべて荒々しく床に置き、横たわっている黒い人の上体を起こした。ずっしりと重い。さらりとした黒髪を持ち上げ、顔を覗き込む。
「…………うわ」
美形だ。
じゃなくて。
急いで心臓と思われるあたりに耳を押し当てた。
が、衣擦れの音が聞こえるばかりでいまいち心音が聞き取れない。やきもきする気持ちを抑えて耳をその人の胸のあたりに押さえつけるが、わからない。
これはいよいよと思っていると、すぅ、という寝息が聞こえた。
「……え」
寝息?
ぽかんという表現はきっとこういう時に使うのだろう。
手のひらをその人の口許へあてると、かすかに吐息がかかるのを感じた。
寝てるだけじゃん。
全身の力が抜けた。脱力して床に座り込むこと本日二回目。
さっきとは違う、安堵の溜息を盛大に吐いてやった。さっき、もしかしたら死んでいるのかもしれないと思って階段を駆け上がった自分がたいそう滑稽に思えてきた。
ていうか、なんでこの人こんな廊下で爆睡してるの。お酒の臭いはしない。ということは酔っ払いでもない訳になる。なら何で。
再び床で眠りこけてる人へ視線を移す。うん、美男子だよね。
櫛通りがよさそうな黒髪は、実際さっき触った時とてもさらさらでした。
なんて変態と思われても仕方ない感想を胸の中で吐露し、慌ててあらぬ方向へ視線を移す。
正直、長時間見てられない。別に照れることなんてないけど、普段から男の人と接する機会が少ない私にとって、未知のものでしかない。よからぬことを考えそうだ。
きっとこのお兄さんが女の人で、私が男だったら据え膳っていうんだろうなぁ……おい、もうすでに思考が危ないぞ私。誰か私の頭ひっぱたいて雑念追い出して下さいお願いします。
一通り私が頭を抱えたところで、さてこの人をどうするか、という問題に返ることになる。
時間をみると5時50分。管理人は早くても7時にならないと来ないだろう。それまでの間、どうするか。
しばらく考えて、相変わらず聞き取れるか怪しいくらいの音量で寝息をたてているお兄さんを、思い切って起こしてみることにする。
わずかに肩に置いた手に力をこめてゆすってみた。
「あのー…もしもし…?」
ゆらゆらとゆする動きにつられて黒髪が揺れる。
反応がない。ただの屍のようだ。死んでないけど。
「おーい…」
ぺちぺちと頬を軽く叩く。これをやるには相当勇気を必要としたが、とにかくこの人が目覚めてくれることを願って実行に移すのみである。
「……………」
困った。本格的に爆睡を決め込んでいる。うんともすんともいわない。
「…もしもしー…聞こえてますかー?」
上体を少し持ち上げて耳元で問いかけてみた。やはり反応はない、なんなんだもう。カビゴンでもそろそろ起きてるぞ。
だあぁっー!!と大声をだして脱力したいところだが、あいにく早朝のマンションだ。そんなことしたら苦情が来ること山の如し。すでにここ一時間前から相当騒いでいますが。
電車だなんだと叫び、廊下と階段を全力疾走したり。思い返したら相当ご近所迷惑である。いやだなぁ、苦情来たら…。
困った…と途方に暮れかけたとき、ふいに物音がした。
ごんごん、という音と人の気配。隣の家からだ。おそらく。あぁやっぱり苦情ですよね!と涙ながらに土下座でお迎えしようとしたのだが、膝が動かなかった。
え?なんで?
そしてようやく気が付く。自分の今の状況が他人から見たらどれだけ危険であるのかを。これだからいまどきの若者は…で済むレベルではない。
何とか眠りから覚めてくれないかと四苦八苦していた私は、お兄さんの上体を膝の上に抱え上げ、首の後ろを手で支えてこちらを向けている…つまり、相当二人の距離は0に近いものであるわけでして。
(…ヤっ、ヤバイ!!)
見られたら終わる!私という社会的立場が瓦解する!!
なんとか眠ったままのその人を膝の上からのけられたが、足がしびれてそう簡単に動けそうにない(なんて情けないんだ!!)(いやだってこのお兄さん予想外に重くて!)。
お隣さんはカメラマンをしているらしい中年の男の方だ。
特に悪い人でもないが、正直あまりいい噂は聞かない。
ひとり者らしくいるときといないときの差が激しいらしい。
情報に敏感な人ではないが、噂とはどこから漏れるかわからないものだ。もしこの場面を
見られてしまって、翌日には同じマンションのおばさんたちの井戸端会議の話の種になるのは御免こうむりたい。
やだわー、あんな年から同居生活なんて。とか。絶対嫌だ!!
がたがたと身支度をしている音が聞こえる。
やばいぞやばいぞどうしよう。この状況、どんなことを言っても勘違いされる。
なんとか足を叱咤して自室のドアに寄りかかったのはいいものの、この眠っている人をどうこうしないわけには……
がちゃ、とカギの開錠音。
私はとっさにお兄さんの腕をつかんだ。
ばたん、とドアが閉まる音。施錠音の後、つかつかという足音が遠のいていった。
「………はぁあー……!!」
思わず出た溜息。今日何回目だ。
私は今日だけで幸せを大量放出している気がする。
お隣さんが出てくる前に、私はお兄さんをつかんで自分の家に引きずり込んだのだ。
あぁ、ごめんなさいお母さん。あなたの娘は見ず知らずの男の人を部屋に連れ込むような娘です。
だからといってまたこのお兄さんを外に出せというか。それはいかがなものだろうと思ってしまう。というか、多少以上に乱暴な扱いをしたにも関わらずお兄さんは起きる気配が全くない。
本気で心配になるが、大丈夫なんだろうか。
とりあえず玄関放置しておくわけにもいかないので、お兄さんの腕を私に回してなんとか立ち上がる。…ように、がんばる。
「ぐあああ、なんで男の人ってこんなに重いの」
おそらくこのお兄さんは筋肉質なんだろう。見た目で太っている印象はまったく見受けなかった。
思い返せばこのお兄さん、どんだけイケメン要素を兼ね備えてるんだ。顔も良くて身体も申し分ないと。
運ぶというより引きずるに近い形でリビングまで運び、ベッドに横たえるのはさすがにためらったので、サイドテーブルをずらしてできたスペースにベッドの上掛け布団を敷き、枕を下してそこへ横たえる。
「っつ…疲れた…!!!」
私は私でベッドに倒れ込む。
疲れた。本当に。
ここ数時間で普段動かしてない筋肉をフルに使った感覚だ。きっと明日は筋肉痛だろう。
ぐっと思いきり伸びをして、ふと昨晩シャワーをあびなかったことを思い出す。そうだ、朝にシャワー浴びようと思ってたんだ。
どうせ今日と明日は旅行のつもりでバイトも入れていないし、ゆっくり汗を流そうか。
着替えの入ったままのボストンバッグを背負って風呂へ。
ちらりとお兄さんを見たが、相変わらず眠っている。
寝ているだけとはいえ、ここまで起きてこないと心配になる。
もし、今日の夕方くらいになっても起きないようだったら友達に相談してみよう。病院に
連れていってあげたいところだが、生憎免許は持ってないので連れていく手段はない。
もう一日が終わりの気分になりつつシャワーを浴びる。そしてぼんやりとあのお兄さんのことを思い直した。
(かっこよかったなぁ…)
実際どんな人なんだろうか。名前、職業、出身地…聞きたいことはたくさんあるけれど、たぶん本人を前にしたら緊張してなにも言えない。我ながらひどいコミュ障だ。
というか、そもそもなんで私の家の前で倒れてるの。
これは絶対聞かないといけない、と思いつつ湯船から上がった。
ボストンバッグに畳んでいれてある部屋着のTシャツとホットパンツを着て、髪を大雑把にタオルでふきつつ脱衣所からお兄さんの様子を見るために顔を出した。
のだが。
「……………………。」
「……………………。」
起きていた。
私が顔を出したのに気が付いたらしい。
お兄さんは多少乱れた髪のまま、緩慢な動作でこちらを向いた。
「……すっすいませんでしたぁあああ!!!」
目が合った瞬、自分の今の恰好を思い出し(部屋着な上髪濡れたままである)、すぐさま脱衣所に逆戻りした。
てか、何で!何で!起きてるの!!絶対まだ寝たままだと思ってたよ!!
顔が赤くなっていくのがわかる。恥ずかしい!恥ずかしい!
とてつもなくいたたまれない気持ちになって、思わずその場にしゃがみ込む。
きし、と床の軋む音にはっと我に返った。
お兄さんがこちらへ来ていると思うと思わず脱衣所の扉から距離をとった。
閉ざされた一枚のドアの前で、足音が止まる。
こんこん、とドアがノックされた。
「……外に出てます」
聞きなれない低音が鼓膜を揺らし、ドアの前から遠のいていく。開錠の音の後、静かに玄関が閉まった。
「………………………………。」
あれか、いまの「外の出てる」っていうのは、外に出てるからその間に身支度整えろよってことか?それとも、もうここに用はないから出ていくぜっていうことか。わからん。
とりあえずドライヤーで髪を乾かし、靴下を履いてカーディガンを羽織る。これでさっきよりはマシなはず。
脱衣所から出て、おそるおそる、玄関のドアを開ける。
「……………どうも」
お兄さんはドアの横に立っていた。私の顔を見ると、そう言って僅かに会釈する。私もどぎまぎしながら頭を下げた。
「こ、こっちこそ見苦しい姿をお見せして!」
「いえ、気になさらないで下さい」
と、ここで会話が止まった。
………どうしよう。なにこれ、どうやって繋ぐべき!?
「あなたがここの家主ですか」
そんなことを思っていたら、お兄さんのほうから質問が飛んできた。
「は、はい。一人暮らしです」
「お恥ずかしい話ですが、私、昨日の晩から記憶が曖昧で……よもやとは思いますが、あなたにご迷惑を」
「ちょっ、ちょっと待って!下さい!こんなところじゃなんなんで、上がって下さい!」
汚いですけど!と続ければ僅かにお兄さんの眉間に皺が寄った。
え、怖いんですが。
それにしても玄関先で話す話題じゃない。こんな話が聞かれてしまっては、さっきお隣さんの目から逃れた快挙がパーだ。
「…女性が簡単に男を部屋に入れてはいけませんよ」
しかし返ってきたのそんな言葉だった。
驚いたが、このまま話し続けるのは気が引ける。すると、ポーン、というエレベーター到着時の音がした。肝が冷える。誰か来たのだ。
「…あの、近所の方にここを見られるのはちょっと…!!」
「ああ、そうですね。ではお邪魔します」
物わかりがいいお兄さんで助かった。靴を脱いで上がってもらう。なんだか玄関に知らない人の、しかも男の人の靴があるのは新鮮だった。
冷蔵庫からお茶を出してきて、さっきまでお兄さんが寝ていたところに座ってもらい、私も向かい合う形で座る。
こう改まると、やはり恥ずかしい。
「えっと、ですね。今朝5時くらいにここを出ようと思ってドアを開けたら、倒れてたので悩んだ末に…」
「…すみません。たいへんなご迷惑を」
「いえ、大丈夫です」
あなたのせいで旅行がパーになりましたとは口が裂けても言えない。
「それで…なんでウチの前で…えっと…」
「鬼灯と申します」
「ほおずき…さん?」
「はい」
苗字はないんだろうか。ていうか、それってペンネームかなにかか。本名とは思えない。
「苗字はありませんし、偽名でもありません」
「ぶっ、ちょ、何で!?」
「…それくらいわかりますよ」
あまりに普通に心を読まれた。それに加えて苗字が無いと。どういうことだ。
とりあえずこの時点でツッコみたいところが数点あるわけだが、鬼灯さんは話を続ける。
「…眠気を誘う薬を飲みまして。昨晩このあたりを歩いていたところまでは覚えていたのですが、その途中で」
「ね…寝てしまったと?」
「疲れてたので…ここ三日くらい寝てなくて」
「三日!?」
それは三徹というのだろうか。
鬼灯さんは見たところスーツを着ていないので、サラリーマンの類の職業とは縁遠いと思っていた。
たしかに、こうして話しているときも眠たそうに時々欠伸を噛み殺している。
「大丈夫ですか?しっかり休んだほうがいいんじゃあ…」
「…大丈夫です、これ以上あなたに迷惑をかけるわけにはいきません」
「いや、大丈夫ですよ気にしなくて」
「……お名前伺ってませんでしたね」
ふと思いついたように名前を聞かれた。そういや言ってなかった。私も忘れてた。
「橘由夜って言います、鬼灯さん」
「由夜さん、このたびはありがとうございました」
丁寧に頭を下げられたので慌てて阻止する。
なんだか年上の男の人からこうも丁寧に扱われるのは気恥ずかしい。なんとか話題をそらそう、と考えて。空になったコップを手に取って席を立つ。
「お茶、いれてきますね!」
「あ、お構いなく」
キッチンの方へと引っ込み、冷蔵庫を開けつつ息を吐いた。
あんなに男の人としゃべったの、多分初めてだ。というか接する機会がまずないから当たり前なのだが。
それに加えて鬼灯さんかっこいいし…いや、まともに顔を見て話せないんだけど。
鬼灯さんが比較的まともそうな人で良かった。
もし起きてから錯乱でもされたらどうしようとか、暴力的な怖い人だったらどうしようとか考えていたのだが、どうやらそんな心配は無用のようだ。
お茶を淹れて、なにもお茶菓子がないのは寂しいなと思いつつリビングへ戻る。
「お茶はいりま…って寝てるんかい!!」
盛大に叫んでしまったが許してほしい。しかし目を離したのはわずか数分だ。そのあいだに、鬼灯さんは寄りかかっていたベッドに上体を倒して爆睡している。
やっぱり大丈夫じゃないだろうこれ。このまま外に出したら十中八九またそこらへんで眠りこけると私は賭ける。
「やっぱり休んだ方がいいですって…」
そう呟いて投げ出された足を掴んでベッドに乗せてあげた。
相変わらず寝てる間になにしても起きないなこの人。多少乱雑に扱っても大丈夫だと学習した私はなんとか鬼灯さんをベッドに乗せることに成功し、ふたたび虚無な達成感を覚える。なにこれむなしい。
ふと時間が気になり、時計をみればお昼近い。
何か起きたら食べるだろうか。
鬼灯さんも多分このまま爆睡モードだろう。何したって起きない。ならば起きるまで待つしかないのだ。
「なんか食べ物買わないと…」
ここのところずっと外食だったから冷蔵庫にまともな食べ物が入っている気がしない。というか、多分飲み物しかない。案の定だった。
とにかく財布をもって、近所のスーパーへ向かう。出る間際に鬼灯さんを振り返ったが、起きる気配はない。
そういえば、二人分の食事作るのっていつぶりだろうか…なんて考えつつ、私はマンションを出た。
prev /
next