薄氷 -中編-
宛もなく馬を駆け続け丸一日。
流石に喉が乾いたどろろは川で暫しの休息を取った。
陽の光に輝く透明な川の水を片手でひとすくいし、喉を潤す。勢い良く村を出たはいいものの、どこへ向かえばいいのか皆目見当がついていない。
「ノタがいれば…。」
百鬼丸の匂いを覚えていただろう頼みの綱であったノタは昨年、村の桜が満開に咲き誇った頃、何故か突然姿を消してしまった。
どろろの頬を桜の花びらが掠めた。ひらひらと川へ舞い落ちる。桜に混じって水面に映る己の顔を見ながら、どろろは百鬼丸と別れたあの日を懐古した。
あの日だって、ノタがいたのだから百鬼丸を探すことはそう難しくはなかった。だがどろろは百鬼丸を探さなかった。
理由は二つある。一つは村の人々の力になるため。もう一つは百鬼丸がそれを望んでいたから。
村人の力になりたかったのはどろろの心からの本心だ。
しかし同時に百鬼丸が追われることを望んでいなかったこと、どろろが村人と生きていくことを後押ししたことが、百鬼丸を追う足を止まらせた。
川の傍で寝そべりながらさらに過去へと記憶は遡る。どろろと百鬼丸は川を挟んで離れ離れで寝た日があった。
あの時お互いに寝たふりをして、相手のことを強く意識して、気付かれないように起き上がっては向こう岸の様子を伺っていた。
もう十年も前だというのについ昨日のことのようだ。
「顔はよく覚えてないんだけどな」
くっ…と自嘲する。
色恋など分かりもしない四つの頃に共に過ごした、年の離れた少年。あの頃の彼と今自分は同い年になった。
「誰かと一緒になったかな」
彼はもう二十四。妻がいてもおかしくない。背伸びをして一歳サバを読んで五つだと百鬼丸には言っていたが、子供の無意味な見栄だった。
百鬼丸に限ってそれはないな、と妻がいるという説は早々に頭から除外した。考えたくなかったのだ。
みおに恋をしていた百鬼丸だったが、みおはもうこの世にいない。
百鬼丸のみおに対する恋慕の情と眼差しを間近で見ていたお陰で、百鬼丸が自分に全く気がない事は分かっていた。
そもそも四つの子供に恋をしろという方が無理があるのだが。そして自分自身も、胸の中にある気持ちが何なのか、理解していなかった。
百鬼丸と別れて初めて、恋心に気が付いたのだった。
思い出というのは大概美化されるものであり、恋に恋しているだけではないかと村の者から言われたこともあった。
しかしどろろには分かっていた。自分が彼なしでは命を全うすることが出来ないことを。
「お嬢さん」
想いに耽っていたところに声を掛けられ、びくりと肩を震わせて振り返ると、髪を高く一つに束ねた、美しい女性が微笑を浮かべて立っていた。
なんて美しいのだろうと、どろろが魅入っていると、くつくつと女性が笑いだした。
「驚かせてしまいましたか?僕は怪しい者ではありませんよ」
「僕…?えっ」
そこでどろろは女性が女性ではなかったことに気付いた。
よく見れば、男の着物を着ている。
「ああ、もしかして、女性だと思われてしまいましたか?」
「ごめんなさい!」
「いや、いつものことですから、よいのですよ」
美しい青年はまたくつくつと笑うと、白く長い指をどろろの頬に伸ばした。
「悲しそうな眼をしていましたので、つい、声を掛けてしまいました。何か悩んでいるのですか?」
青年が眉を八の字に垂らし、どろろの瞳を覗き込んだ。
どろろはカァッと顔が熱くなるのを感じ、視線を逸らした。
何、照れてるんだあたしは!と自分に思いながらも、おそるおそる青年の玉色の瞳を見つめ返してしまう。
そして青年の薄い唇が弧を描いたのを見たのと同時に、どろろは今までのことを語り始めていた。
「なるほど。そんなことがあったのですか。」
青年は馬の顔を撫でながら応えた。
「宛もなくここまで来てしまって。とにかく、行く先々であにき…百鬼丸のことを聞いていこうかと思ってるんだけど。」
「僕で良ければ、貴女の力になりたい。貴女のお名前を聞かせてくれますか?」
「どろろ。あんたは?」
「光雪。光る雪でこうせつと読みます。」
「立派な名だね。どこかの貴族かい?」
「いえ、大した者では。そんなことより、今夜は我が家に泊まって行かれませんか?」
「そんな、悪いよ」
「いえいえ、もう日も暮れていますし、女性が野宿では危ないです。」
あたりはいつの間にか夕暮れになっていた。夢中で話し込んでいたようだ。
「…迷惑でないなら。」
「もちろん!大歓迎ですよ」
普段ならば他人を警戒するどろろだが、何故か光雪には心を開いていた。
「はっ!」
光雪が馬の手綱を取り、どろろは後ろに乗り、二人は光雪の屋敷まで向かって行ったのだった。
そしてその二人の後を追いかける、一つの影があった。
つづく
2017.3.20
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