夢見た願いは同じ色
『もし待ち合わせ時間に俺が間に合わなかったら…会社まで来て、俺のことを呼び出せ。家の鍵を渡す』
電話越しに告げられたあの言葉が、まさか現実のものになるとは思ってもいなかった。そんな風に思いながら、ナマエはふわふわとした気持ちのままリヴァイの会社の最寄駅に降り立っていた。
『悪い、やっぱり遅くなりそうだ。会社まで来てもらえるか。住所は――』
その少し前、出掛ける準備をしていた彼女の元に届いた一通のメールに、思わず息を呑んだ。
遅くなるということはまだ仕事が終わらないということなのだろう。それなのに完全に部外者の自分が会社に行って、邪魔をしてもいいのだろうか。
ぐるぐると色々考えすぎて怖気付きそうになる自分を内心思いきり叱咤する。蘇るのは初めてリヴァイが告げた「会えなくて限界だ」という本音だ。
自分だけが寂しがっていたわけではないと知れた安堵感と、彼が僅かな隙間時間をぬって会いに来ようとしてくれた喜びを思い出し、ナマエは決意を固めた。
「…迷惑になりそうだったら、別のところで待ってれば大丈夫だよね」
そう自分に言い聞かせる。考えてみれば、リヴァイと付き合う前も付き合ってからも、自分はほぼ受け身だった。
彼の多忙さを言い訳に、「迷惑を掛けるかも」「疲れているのに申し訳ない」と逃げて、自分から飛び込んでいくことをよしとしなかった。リヴァイのことを慮っていたといえば聞こえはいいが、結局のところ彼に呆れられ、嫌われたくなかったから他ならない。
ほんの少しの勇気を振り絞り、ナマエはリヴァイの会社へと足を進めたのだった。
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会社の最寄り駅は、イコールリヴァイの自宅の最寄りということだ。何度も降りたことのあるこの駅が、見知らぬものに見えるくらいには緊張していた。
「確か…この辺のはず…」
リヴァイと一緒にこの辺りを歩いている時にも、会社はあの辺だ、と指し示されたことはあった。住所とその記憶を頼りに歩いていけば、突如一際高くそびえ立つ高層ビルが視界に飛び込んできた。
「…あそこだ」
ビルの名前もメールに書かれていた通りだ。
グッと鞄を握りしめて恐る恐るエントランスに足を踏み入れたナマエは、シン、と静まり返るそこにホッと息を吐く。
(着いたら電話しろって書いてあったよね…)
IDゲートをチラリと見ながら、スマートフォンを取り出す。大きく息を吸ってリヴァイの名をタップしようとしたその瞬間、聞き慣れた声がエントランスに響き渡った。
「あれー!?ナマエっ?ナマエじゃない!?」
「あっ…ハンジさん!」
ゲートの向こう側から大きく手を振っている人物を認めて、ナマエはパァッと顔を輝かせた。見知らぬ場所で、見知った顔を見つけることほど安心するものはない。
「ちょっとどうしたの!?あ、リヴァイに会いにきたの!?全然会えてないって言ってたもんね。待ってて!今リヴァイを…」
「ハ、ハンジさん…落ち着いてください」
ゲートを突き破る勢いで突進したきたハンジが興奮気味に捲し立てるのを、慌てて宥めた。静寂に満ちていた空間が一気に騒がしくなって、ナマエは苦笑すると共に肩の力が抜けるのを感じていた。
「ごめんごめん。まさかこんなところでナマエに会えるなんて思ってなかったからさ。びっくりしたよ」
「私もハンジさんに会えるとは思ってなかったです」
ハンジ曰く、リヴァイと同じように缶詰めになっており、今は昼食を買いに外に出るところだという。それを聞けば、そんな多忙なところにリヴァイを呼び出すことが申し訳なくなって、再び怖気付いてしまった。
そんなナマエの話を聞いたハンジが豪快に笑い、ぽんっと優しく肩を叩く。
「なーに言ってんだよ!リヴァイが来いって言ったんでしょ?そんな可愛らしいところがあるなんて…あいつも人の子だったんだね」
「リヴァイさんは今…」
「さっき覗いたらこーんな怖い顔でパソコンと睨めっこしてたよ。でもいつもより雰囲気が柔らかったというか…私が邪魔してもそんなに怒られなかったのは、ナマエが来るからだったんだね」
リヴァイを真似をして目を吊り上げたハンジにクスクス笑ってしまう。同じように笑った彼女をしっかりと見上げて、頬を緩めた。
「ありがとうございます、ハンジさん。おかげでリヴァイさんを呼び出す勇気が出ました」
「…リヴァイといいナマエといい、お互いを思いやりすぎてるのも問題だね」
「え…?」
不意に纏われたハンジの真剣な雰囲気に目を瞬いた。こんがらがった髪をガシガシと掻きながら、ハンジが小さく笑う。
「こんなこと言ったって知られたらリヴァイに怒られそうだけど…会えなくて寂しがってたのはナマエだけじゃないよ」
「…ハンジさん?」
「顔怖いし言葉足らないし、すっげぇ口悪いから分かりづらいと思うけど、リヴァイはナマエのことを本当に大切にしてるんだ」
「…はい」
あまりの言い草に噴出しながらも、ナマエは大きく頷いた。不器用でも、真摯に向き合ってくれているリヴァイの気持ちはちゃんと伝わっている。それでもどうしても不安になることはあるのだ。
「リヴァイもナマエもお互いを大切にするあまり、ちょっと遠慮しすぎてると思うよ。特にナマエは元々遠慮しいなんだからもっともっと我儘にならなきゃ!」
「ふふっ…そうですね」
「ナマエの我儘なら何でも叶えちゃうと思うよ。リヴァイ、ほんっとにベタ惚れなんだから」
「それは…私もですよ」
鼻息荒く主張したハンジの言葉に、ナマエもポツリと答えた。思わず吐露した気持ちだが紛れもない本心だ。
恥ずかしくなって俯きながらもはにかんだ笑みを見せたナマエを、急にハンジが強く抱き締める。
「ちょっ、ハンジさっ…!?」
「もう〜っ!なんって健気で可愛いんだ!ナマエってば!」
「ハ、ハンジさんっ…くるし…」
「やっぱりリヴァイにはもったいないよ!今からでも考え直して…」
「オイ、クソメガネ。命が惜しけりゃ今すぐナマエを離せ」
ぎゅうぎゅうと抱きついてくるハンジに目を白黒させていたナマエは、飛び込んできた声に大きく目を見開いた。慌てて視線だけを動かせば、ハンジ越しに腕を組んだリヴァイの姿を捉える。
ただしその顔はものすごく不機嫌そうで、眉間にはくっきりと皺が刻まれていた。
「リ、リヴァイさんっ…!」
「ちぇっ…もうちょっとナマエを堪能したかったのに」
わたわたと慌てるナマエとは裏腹に、ハンジは殊更ゆっくりと手を離していく。これ以上無いくらいに刻まれた深い皺が、リヴァイの機嫌を表していた。
へにゃりと眉を下げたナマエが申し訳なさそうに俯いた。どうやら彼の機嫌が悪いのは、自分がすぐに連絡しなかったからだと思っているらしい。
「あの…遅くなってごめんなさい」
「いや…」
まさかナマエが落ち込むとは思っていなかったのか、しょんぼりと肩を落としてしまった彼女の姿にリヴァイが内心動揺しているのが、手に取るように分かった。本当なら肩でも抱いて「会えて良かった」と告げてやりたいだろうに、ハンジがニヤニヤしながら成り行きを見守っているからどうにも動けないのだろう。
分かってはいるがもう少し見ていたい、とハンジはこの場を動かないことに決めた。何せ恋人同士になった二人を見たことは殆ど無いのだ。
「あー…ナマエ、こっちこそ悪かったな。ここまで来てもらって」
ハンジを追い払うのが先か、ナマエを労るのか先か、瞬時に下した判断は後者だった。あの奇行種メガネは後でぶん殴る、と決めてとにかく無視することにする。
「いえっ…お仕事中にごめんなさい。大丈夫でしたか?」
「ああ。今は休憩中だ」
「良かった…いつもリヴァイさんのお家に来てるからよく知った場所のはずなのに、会社に来るってだけで緊張しちゃってたんです。変ですよね」
漸く解れた顔で笑ったナマエに、リヴァイも気づかれない程度に頬を緩める。なんとも可愛らしいことを言う彼女を今すぐ抱き締めてやりたいのに、ここが会社というだけで叶わないのが憎い。そして何よりハンジが邪魔だった。
「夕方前には帰れそうだ。先に家に入っててくれるか」
「それは嬉しいですけど…いいんですか?私、この辺でリヴァイさんが終わるのを待ってますよ」
「あのな…」
「なーに言ってんだよナマエ!リヴァイはね、自分の家でナマエが待っててくれて、更におかえりって笑顔で迎えて欲しいんだよ!ね、リヴァイ!」
「こんのクソメガネ…」
我慢出来なくなって口を挟んだハンジを鋭く睨みつけるが、言葉自体は否定出来ない。小首を傾げてリヴァイを見るナマエに向き直り、大きく息を吸う。
「…まぁそういうことだ。退屈だろうが先に帰って待っててくれ」
「っ、はいっ!」
リヴァイが差し出したキーケースを大切そうに包み込み、花が咲いたような笑みを浮かべたナマエに、もはやハンジがいようと関係あるか、とそっと手を伸ばした、その時。
「リヴァイ、ハンジ。そんなところでどうした」
「待て、エルヴィン。来客中じゃないのか」
聞こえた二つの声に、瞬時にうんざりとした表情を浮かべたリヴァイとは対照的に、ハンジの顔は喜色に染まる。
二人からはちょうどハンジの長身に隠れたナマエの姿は見えないようだが、ミケの鼻は第三者の匂いを敏感に嗅ぎ取ったらしい。ナマエがどうしようかと戸惑い、リヴァイが何とか誤魔化そうと口を開くまでの間に、エルヴィンとミケの大柄な体躯は距離を詰めていた。
「っと…これは失礼した。取り込み中のようだな」
「あっ、いえっ…」
恐らく話しているのは社内の人間か、関係者だと思っていたエルヴィンが、ナマエを見て目を丸くする。そしてチラリとハンジを、次にリヴァイに視線をやって何かを察したのか、丁寧にナマエに頭を下げ謝罪を告げた。
慌てて両手を振った彼女とエルヴィンの間に、リヴァイは身体を滑り込ませる。それを見たミケが面白そうに鼻を鳴らし、ハンジの横でゆっくりと腕を組んだ。
「エルヴィン。俺の客だ」
「そのようだな。話し中に悪かった」
「そう思うならさっさと行け」
「リ、リヴァイさんっ…?」
無礼とも取れるリヴァイのぶっきらぼうなその態度に目を剥くナマエ。ひたすら楽しそうな笑みを浮かべているハンジに助けを求めて視線を向ければ、眼鏡の奥を輝かせて口を開いた。
「まぁまぁリヴァイ。ナマエが困っちゃうじゃん。エルヴィン、ミケ、こちらはナマエ。私の大学時代の後輩なんだ」
「ほう…ではリヴァイの…」
「エルヴィン」
興味深そうに顎に手をやったエルヴィンを咎めるように、ミケが名を呼ぶ。分かっている、と片手を上げた彼が、威嚇するリヴァイを見下ろして首を竦めた。
「リヴァイ、まさかお前の大切な人が来ているとは思わなかったんだ。邪魔してすまなかった。だが自己紹介くらいはいいだろう」
「…チッ」
「初めまして、ナマエさん。私はエルヴィン・スミスで、こっちはミケ。二人ともリヴァイの同僚だ」
「こちらこそ失礼しました。ナマエ・ミョウジです。いつもリヴァイさんにはお世話になっています」
穏やかな声音で自己紹介をするエルヴィンと、 優しげな瞳で黙礼を返すミケに向けて頭を下げるナマエを見守るリヴァイの顔は、不機嫌そのものだった。
そんな彼から垣間見える独占欲に笑みを深くしたのは、ハンジだけではない。
「まさかこんなところでお会い出来るとは思わなかったよ。時間さえあれば皆で食事でも、と言いたいところなんだが…」
「ふざけんな。こっちはメシ食う暇もねぇんだ。てめぇが持ってきた案件のおかげでな」
「すまないと思っているさ。終わったら盛大に慰労させてもらおう。ナマエさんも申し訳ない。なかなかリヴァイと会う時間も取れないだろう?これが終わったら少しはゆっくりさせるから、もう少し辛抱してもらえるだろうか」
「い、いえ、そんなっ…!」
申し訳なさそうなエルヴィンの言葉に思いきり首を横に振るナマエを、深い碧眼が真っ直ぐに見つめている。その視線を遮るように、リヴァイが再度彼女の前に立ちはだかった。
「もういいだろ。貴重な休憩時間がどんどん削られちまう。行くぞ、ナマエ」
「え、あ、リヴァイさんっ?」
スタスタと出入り口に向かい始めるリヴァイと、エルヴィンたち三人を相互に見遣っていたナマエが、苦笑しながらエルヴィンの向き合った。
「エルヴィンさん、ミケさん、お仕事中に失礼しました。私はこれで失礼します」
「ああ、リヴァイのことをよろしく頼むよ」
「もったいないお言葉です。ではこれで。…ハンジさん、また連絡しますね」
「うん、またねー!」
ぶんぶんと手を振るハンジに笑いかけて、ナマエがリヴァイの元へと小走りで向かう姿を見送った。少し先でこちらを牽制するように鋭く目線を向けていたリヴァイだが、彼女が近づくと途端に雰囲気を和らげてゆっくりと歩き出す。
「…エルヴィン。怒られるぞ」
ガラスの向こうに消えていく二つの後ろ姿をずっと眺めていたエルヴィンの耳に、呆れたようなミケの声が届いた。振り返ったエルヴィンの口元には面白そうな笑みが浮かんでいる。
「いや、あのリヴァイがな…まさか会社に彼女を呼びつけるなんて思ってもみなかったよ」
「さすがのリヴァイも、ここまで会えないことに限界を迎えたらしいよ。リヴァイの家で待っててもらうんだって」
「あのリヴァイが、家に恋人を入れているのか」
頭の後ろで手を組んだハンジの楽しそうな言葉に、ミケも思わず声をあげる。リヴァイの過去の恋人との付き合い方を知っている身からすれば、あまりの変わりように驚くばかりだ。
「そうそう、びっくりだよね。まだまだお互い気を遣いあってはいるみたいだけど…幸せそうで何よりだ」
「そうだな」
大きく頷いたエルヴィンが目を細める。
リヴァイがナマエのことを特別に思っていることは聞いていたが、あそこまで執着心と独占欲を見せる彼は初めてだ。そんな彼に対する親心のようなもので要らぬお節介を焼いてしまった、とエルヴィンは自分に苦い笑いを溢す。
リヴァイの多忙さを作り出している原因の半分はエルヴィンだが、そのせいで二人の間に亀裂が入るようなことがあったら、死ぬまでリヴァイに恨まれるかもしれない。そんなことを考えながら、エルヴィンは真面目な顔でこう宣った。
「彼女には何としてもリヴァイの隣にいてもらわなければならないな。ミケ、この繁忙期が終わったらリヴァイと彼女をディナーにでも招待すべきだろうか」
「…余計な世話を焼くとリヴァイに殺されるぞ」
「そうだよエルヴィン。リヴァイはナマエと二人の時間が取れればそれで満足なんだから。そこに私らがいたって、邪魔だって一蹴されるだけだよ」
「お前も行く気だったのか…」
溜め息を吐いたミケに「当たり前じゃん!」と明るく答えるハンジ。とっくに見えなくなった二人を追うようにして、三人も連れ立って眩い陽光の下へ出るのだった。
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「リヴァイさん…ごめんなさい…」
無言でナマエの半歩先を歩くリヴァイの横顔をそっと見つめ、小さな声で呟いた。せっかく久しぶりに会えたのに、彼の機嫌を損ねることになってしまったのが何とも心苦しい。
ハッと勢いよく彼女を振り返ったリヴァイが、苦々しげな表情のままくしゃりと前髪を握り潰した。
「…悪い」
「え…?」
「ちょっとこっち来い」
唐突な謝罪に目を瞬いている間に、ビルとビルの隙間に追いやられるナマエ。驚く間もなくリヴァイがナマエの身体を強く抱き締めた。
「え、ちょ、リヴァイさんっ?」
「やっと触れた…」
はぁっと吐かれた深い吐息が首筋をくすぐった。身動ぎするナマエを更にきつく抱き締めたリヴァイの低音が、鼓膜を震わせる。
「…久しぶりだな」
「あっ、はい…」
「悪かった。何度もドタキャンして」
「いえ。お仕事なら仕方ないです」
ソワソワと周りを気にしながら答える彼女が気に食わないのか、ゆっくりと上げられたリヴァイの顔はひどく不満そうだ。
「オイ、こっちに集中しろ」
「だってこんなところ…誰に見られるか分からないですよ?」
「こんな休日に通る奴はいねぇよ。死角になってんだ。気にすんな」
「でも…」
「…会社ではクソメガネに抱きつかれてただろうが」
「へ…?」
ぼそっと溢された言葉と不貞腐れたような彼の表情に、やや茫然としてしまう。まさかハンジに嫉妬するような発言をするとは思っていなくて、じわじわと心の柔らかい部分が温かく灯っていく。
「ハンジさんは女性ですから。それにハンジさんとも久しぶりだったんです」
「俺の方が久しぶりだろ」
「それはそうですけど…」
「…あいつらが来なけりゃもうちょっと二人の時間が取れたんだよ。クソが」
あいつら、と指された三人の顔を思い浮かべたナマエの口元が優しい弧を描く。自分が遅れたせいで、更に会社の仲間に見られたことで機嫌が悪いのかと思っていたが、実はそうではないらしい。
「リヴァイさんの会社の方にお会いすることになるなんて…緊張しちゃいました」
「悪かったな。見せ物みてぇになっちまって」
「いえっ…リヴァイさんが嫌じゃないなら、私は嬉しいですよ」
「嫌なわけねぇだろ」
にこにこと笑う彼女をもう一度抱き締める。
ナマエ自身もその視線も、今日だけは独り占めしたかった。何せ生身の彼女に会うのは本当に久しぶりなのだ。
「夕方には一度戻る。家で待っててくれ」
「はい。待ってますね。ご飯はどうしますか?キッチン使っても良ければ、何か作っておきましょうか?」
「…頼む」
思いがけない提案に思わず声が弾む。
ここ最近はずっとコンビニ弁当かテイクアウトだったのだ。久しぶりのナマエの手料理、しかも作って待っていてくれるというシュチュエーションを思い浮かべたリヴァイは、にやけそうになった口元を咄嗟に手のひらで覆い隠した。
「新婚みてぇじゃねぇか…」
「リヴァイさん?何か言いました?」
「いや…何でもねぇよ。冷蔵庫の中にあるものは適当に使ってくれ。夕方帰った後、もしかしたらもう一度会社に戻るかもしれねぇが…」
「リヴァイさんさえ良ければ、今日お泊まりしたい、です…」
精一杯の勇気を振り絞ったのだろう、目元を赤らめたナマエがきゅっとリヴァイの袖口を握る。
あまりの可愛さに言葉を失くしたリヴァイだが、頷くだけで精一杯の中で何とか声を絞り出した。
「もちろん…かまわねぇよ…」
「我儘言ってごめんなさい…」
「いや…」
そんなの我儘でも何でもなく、リヴァイにとってはご褒美だというのに、申し訳なさそうに小さくなるナマエが愛おしい。
何が何でも絶対に帰る、と心に誓ったリヴァイは、断腸の思いで柔らかい体躯からそっと手を離す。戻らなければならない時間だった。
「悪い、そろそろ戻らねぇと」
「頑張ってくださいね。鍵、お借りします」
「ああ。気をつけて行けよ」
キスしたい衝動を何とか押し殺しながら、一度だけナマエの髪を撫でた。嬉しそうに目を細めた彼女の手を引き、ビルの暗がりから太陽の下へと足を踏み出した。
「じゃあな」
「はい、行ってらっしゃい」
片方の手にしっかりとキーケースを抱えたナマエが手を振った。軽く手を挙げてそれに応えたリヴァイは、速やかに彼女の元に帰ることを決意して足を早めたのだった。
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そして数時間後、疲れているはずの身体がどこか軽く感じながら、リヴァイはエントランスのインターフォンを押していた。
凄まじい集中力と判断力で仕事を捌いていったリヴァイを、遠目から見守る三組の瞳には気が付かないふりをした。生温かい視線に構う余裕などない。
『はーい』
「俺だ。帰った」
『はいっ、今開けます!』
軽やかな彼女の声が心までも癒やしてくれる。
頑張った甲斐あって、今日はもう会社に戻らなくてもすみそうだ。何かあれば自宅対応が出来る程度まで仕上げることが出来たのは、何かを察したのか、同じように頑張ってくれた部下たちのおかげだった。
自宅の扉の前に辿り着いたリヴァイは、ほんの少し緊張した面持ちで再びインターフォンを鳴らす。今まで何度もナマエを家に招き、共に過ごしてきたが、こうして待っていてもらうのは初めてのことだった。
「おかえりなさい、リヴァイさんっ!」
かちゃ、と開けられた扉の隙間から、ナマエがひょっこりと顔を出す。その瞬間に身体中に流れた感情は、筆舌に尽くしがたかった。
「…ただいま」
「お言葉に甘えてご飯作っちゃいました」
えへへ、と笑うナマエの身体を衝動的に引き寄せた。ここは自宅で、誰にも気兼ねなく、誰の目を気にすることもなく彼女を堪能出来るのだ。
「…お疲れさまでした、リヴァイさん」
「ああ…すげぇ疲れた」
会えなくて苦しかった思いも、彼女に無理をさせていた不甲斐なさも、そんな彼女の優しさに甘えていた自分勝手な行動も、全ての気持ちを込めて強く強く抱き締める。そっと背中に回された細い腕が、堪らなく嬉しい。
「…鍵、そのまま持っててくれ」
「え…?」
「こんなにも会えないのも我慢するのももう限界だ。平日でも休みでも、いつでも勝手に入ってくれ」
「え、え…?」
「本当なら俺がナマエの家に行きてぇが…どうしても遅くなっちまう。もしナマエが良ければ、会いに来られる日は来て欲しい」
「い、いいんですか…?」
「いいもなにも…俺がそうして欲しいんだ」
「っ、嬉しい、ですっ…!」
ゆっくりと拘束を解いたリヴァイの目に映ったのは、幸せそうに明るく笑うナマエの姿だった。その顔が見たかった、と口の中で呟きながら、リヴァイはその小さな唇に念願のキスを落としたのだった。
-fin