愛が紡いだ日


※最終話139話の盛大なネタバレが入ります。未読の方はご注意ください。
また、捏造設定過多です。未だ明らかになっていない設定、時間軸、各キャラの考え方等は全て妄想の範囲です。全てをご了承の上、ご覧ください。






ガチャン、と手元から紅茶のカップが滑り落ちる。それが床にたどり着くその瞬間、なまえは全てを思い出し、そして理解した。

『さようなら、なまえさん』

軽く手を振って別れを告げた、エレンの小さな笑顔が今もまだ瞼の裏に焼きついている。

「馬鹿エレンっ…」

一筋流れ落ちた雫が、粉々に砕け散ったカップの上に撥ねた。



後に「天と地の戦い」と呼ばれることになるあの戦いに、なまえは参加しなかった。レベリオ襲撃で足を負傷した彼女に、リヴァイは真っ直ぐな瞳を向けてこう言ったのだ。

「なまえ、調査兵団を辞めろ」

「…は?」

理解が出来なかった。足の負傷は大したことはなく、やがて訪れるであろう決戦に支障はない。ただでさえ窮地に追いやられている兵団にとって、なまえの戦力は貴重なものだ。今ここで、自分が調査兵団を辞めるのは散っていった仲間たちに顔向けが出来ない。
激昂したままそう捲し立てるなまえを、リヴァイは静かに燃える目で見つめ続けていた。その冷静さが、お前はもう必要ないと言われているように感じて強く唇を噛む。

「もう私はいらないってこと?」

「…なまえ」

「サシャも死んだ。他の仲間もっ…!私だけのうのうと生き残ることなんてっ…」

「お前には生きていて欲しい。何があっても」

いつでも平静だった彼の声音が僅かに震える。
ハッと顔を上げたなまえの目には、大きく表情を歪めたリヴァイの顔が飛び込んできた。

「リヴァイ…さん…?」

「これからの戦いがどうなるか想像もつかねぇ。特に俺はジークの見張りのためにお前とは別行動だ。何があっても守ってやれない」

「そんな…私、リヴァイさんに守ってもらおうなんて思ってな…」

「分かってる。だがもしお前に何かあったら…俺の手の届かないところにお前がいっちまったら…俺は多分、駄目になる」

初めて彼が洩らした本音に心が震えた。
どんな窮状でも絶望的な状況でも常に前を見据えていたリヴァイが今、葛藤に瞳を揺らしている。

「でも…リヴァイさんもみんなも戦ってるのに、私だけ安全なところでのうのうと暮らしてるなんて、そんなこと出来ない…」

「…なまえ。頼む。何としてもお前には生き延びて欲しいんだ」

そう言って一歩前に出たリヴァイの手には、いつの間にか小箱が握られていた。場違いなその小ささと真剣な彼の顔に何かを感じ取って、咄嗟に言葉を呑み込む。

「俺は…お前のところには戻ってこられねぇかもしれない。死ぬつもりはねぇ。エレンの馬鹿を止めて、馬鹿げたこの争いを終わらせる。だが…そのために命を落とすかもしれない」

「何それ…自分は死ぬかもしれないのに、私には生きろって?リヴァイさんのいない世界で生き続けろって、そう言うの?」

「そうだ。それが俺の願いだ」

あまりにも身勝手で独善的なその願いに、なまえの唇が震えて閉じられた。
だが彼女にも分かっている。リヴァイがこんな風に自分のエゴを突き通そうとするのも、彼女の意思に関係なく縛ろうとするのも、全てなまえを心から愛しているからだと。分かっているから、何も言えなくなった。

「ひどいよ」

「ああ、ひどい男だと罵ってくれていい。しかもこれからもっと最低な願いを…お前にしようと思ってる」

「これ以上なに…?そろそろ殴られたいの?」

「はっ…それも悪くねぇな」

力無く笑ったなまえに、リヴァイも微かに口角を上げた。そしてスッと片膝を下り床に跪いた彼に、なまえが大きく息を呑む。

「…調査兵団を辞めて俺と結婚して欲しい。さっきも言ったが俺はお前のところに戻って来られないかもしれない。だが…なまえにはずっと、俺の帰りを待っていて欲しいんだ」

残酷で優しい愛の言葉がなまえの胸に突き刺さる。開かれた小箱には悠然と輝く指輪が静かに鎮座していた。

「リヴァイ、さん…」

「なまえにはずっと生きていて欲しい。幸せにしてやりたいと、心からそう思う。だが俺がそれを叶えてやれなくても、お前にはずっと俺のことを想って生きていってほしいんだ」

「本当に最低なプロポーズだね。一緒に生きるとは言ってくれないの?」

「…今すぐは誓えねぇ。全てが終わり、なまえのところに戻ってこられたら…その時は俺の残りの人生全てを掛けてお前を幸せにすると、そう誓う」

真っ直ぐで何の迷いもない彼の瞳が苦しかった。指輪一つでなまえの全てを縛ろうとするリヴァイの苦しみと葛藤が何よりも愛おしい。

「…我儘な人」

「俺が我儘を言うのはなまえにだけだ。知ってるだろ」

「うん、知ってるよ。だから…仕方ないな。叶えてあげる」

呆れたように、だが慈しむように微笑んだなまえがそっと左手を差し出した。そこにゆっくりとはめられた指輪が、なまえとリヴァイを繋ぐ細い糸となる。

「…愛してる、なまえ。誰よりも」

「大好きだよ。だから…必ず帰ってきて」

きつく抱きしめ合う二人の腕は、どちらが震えていたのか。足りないものを補うように隙間なく抱き合いながら束の間の幸せを噛み締めていた。



そしてなまえは調査兵団をひっそり辞めて、リヴァイが用意した隠れ家へと移り住んだ。
深々と頭を下げる彼女に、ハンジも104期生も優しく笑い掛けてくれた。不甲斐なさと葛藤で未だに迷いを見せる彼女に、ハンジはきっぱりと告げる。

「リヴァイが最大限力を発揮出来るのは、なまえがちゃんと生きて彼のことを待っているからだ。だから大人しく、リヴァイのことを待ってるんだよ」

「ハンジ…でも…」

「リヴァイ兵長が使い物にならなくなったら困ります。なまえさんは安全なところで無事を祈っててください」

「ミカサ…」

「大丈夫ですよ、なまえさん。全部終わらせてちゃんと戻りますって。その時は美味い飯、食わせてくださいよ?な、コニー!」

「そうっすよ!何たって兵長となまえさんに鍛えられたリヴァイ班の俺らがいるんですから!」

「ジャン…コニー…」

「もし僕らが誰も残らなかったとしても、僕らがやろうとしたことを覚えてくれている人がいる。それが何よりの支えです」

「…アルミン。みんなのことをよろしくね」

大きく頷いた彼らが手を振って去っていくのを最後まで見送った。もしかしたらこれで本当に最後かもしれないと思うと、今にでも立体機動装置で追いつきたい気持ちが一気に湧き上がる。

「オイ、なまえ。変なこと考えてんじゃねぇよ」

「リヴァイさん…私…」

「俺はこれからジークの見張りにつく。たまには手紙も出せるだろうが、暫くは無理だ」

「新婚早々離れ離れなんて、浮気されても文句言えないよ?」

「フン…その時は相手の男を粉々にしてやるから安心しろ」

「それ、何も大丈夫じゃないけど」

冗談めかしたこの会話も最後かもしれないと、握りしめる両手の震えを必死に堪えた。そして大きく息を吐き、満面の笑みで全てを背負う彼を見上げる。

「行ってらっしゃい、リヴァイさん」

「行ってくる、なまえ」

掠めた唇の熱さは今も忘れていない。
振り返ることなく戦場へ向かった彼から手紙が届くことは、ついぞ無かった。


そして全てが終わったあの日。
エレンのいう“道”で全てを理解していたことを思い出したなまえは、周りの喧騒に流されることなくその日を待っていた。
リヴァイの生死も調査兵団がどうなったのかも、正しい情報は何も入ってこない。壁内外が混乱している今、迂闊に動くのも危険だった。

「…あとどれくらい待てばいいってのよ。リヴァイさんの馬鹿」

左薬指の輝きを煌めかせながら、庭になった苺を収穫しつつひとりごちる。
リヴァイが選んだこの家は、戦争後特有の浮つきと混乱とは縁遠いところにあった。そこで静かに彼の帰りを待ち始めて、どれくらいの月日が経ったのだろうか。

「本気で浮気しちゃうからね」

相手もいないけど、と鬱憤を晴らすようにブチッと雑草を引き抜いたその時、大きな風が土と葉を舞い上がらせた。目を細めて顔を上げたなまえの瞳が、少し先に立ち竦むいくつかの影を捉える。

「…あ」

ふらり、と立ち上がったなまえが一歩足を踏み出した。膝に抱えていた籠から苺が転がり落ち、鮮やかな赤色が広がっていく。

「…リヴァイさん」

小さく呟いた声が聞こえたとは思わない。
だが、長身の誰かと小柄な誰かに抱えられ、支えられるようにしながら真ん中に立っていた影が、その呼び掛けに反応したように一歩前に出る。
陽光に照らされた漆黒の髪が目に眩しい。

「っ、リヴァイさんっ!」

もつれる足を前に進め、四つの人影に駆け寄った。見えてきた他の三人がオニャンコポン、そしてマーレの戦士候補生だった彼らだと気がつく間もなく、なまえの目はリヴァイだけを見つめていた。

「リヴァイさ…リヴァイさんっ…」

「待たせて悪かった。ただいま、なまえ」

支えていた二人から離れたリヴァイが、しっかりと自分の足で立つ。包帯が巻かれた右目と震える足、そして少なくなった指が激戦を物語っていた。だが、生きている。

「おかえり、なさいっ…!」

伸ばしたなまえの両手をしっかり捉えて胸元に抱え込むリヴァイの温かさだけが、彼女の全てだった。



なまえを支えきれずに尻餅をついたリヴァイは、己のその失態に不機嫌そうな顔を隠さなかった。いくら満身創痍とはいえ、自分の帰りをずっと待っていた愛しい妻のことすらちゃんと支えてやれないのかと、不甲斐なさに歯噛みしたくなる。

「…オイ、なまえ。いつまでもこうしていたいのは山々だがこいつらも休ませてやりてぇ」

「っ、そ、そうだよねっ…ごめんなさ……あ、れ?あなたたち…マーレの…」

サシャを…と呟いたなまえに顔を強張らせたガビとファルコが、ばっと深々と頭を下げた。視線を彷徨わせていたオニャンコポンが咄嗟に間に入る。

「なまえさんっ、違うんです…!彼らは最終決戦で味方になって…」

「オニャンコポン、良かった…。あなたも無事だったのね」

「…なまえさん」

「ねぇ…ハンジは?」

静かななまえの問いに頭を下げたままのガビとファルコの肩が震える。悲痛そうに歪められたオニャンコポンの顔から全てを悟ったのか、なまえはそっと目を伏せた。

「…そう」

「…色々話してぇことがある。とりあえず中に入ろう」

「そうね。オニャンコポン、あなたも入って?ガビと…ファルコだったよね?あなたたちも、さぁ」

「えっ、あの…」

「私たち、これで…」

「リヴァイさんのこと連れて来てくれたんでしょ?お礼がしたいの」

にこっと笑ってリヴァイを支えながら家に向かうなまえの背中を、暫し呆然と見つめていた三人もゆっくりと足を進める。
こじんまりとしているが温かさに溢れたその家に、初めてちゃんと息が出来たような気がした。



それから全てを話し終えるまで、かなりの日数を費やした。
オニャンコポンとガビ、ファルコは街に宿を取っているからとその日は早々に帰って行った。だが、ほぼ毎日のように顔を出して、なまえと庭の世話をしたり料理を手伝ったり、今までからは信じられないほどの穏やかな時間を過ごしていた。

「ねぇなまえさん、私たちのこと、恨んでないの?」

ある日、庭の草むしりを手伝っていたガビが固い声で聞いた。いつか聞こうと思っていたことを先延ばしにしていたが、こんなにも優しい彼女を苦しめていたのかと思うと心がズキズキと痛む。

「恨む、か…」

「私、なまえさんたちの大事な人たちを…」

「それは私たちも一緒だよ。…恨むとか憎むとか、そういう感情にもう支配されたくないの」

なまえの横顔は何にも揺らがないままだった。聞いたガビの方が動揺していて、そんな彼女にクスリと笑う。

「私たちはみんな過ちを犯した。そしてこれからも…同じ過ちを犯そうとしている」

「え…?」

「戦え、と。戦わなければ勝てないと、生き残った人たちは叫んでる。きっとまた戦争が起きる」

「それは…そんな…」

「でも…そうならないためにアルミンたちが頑張ってるのよね」

そう囁いて見上げた空はどこまでも青い。
初めての壁外調査で見た青空を思い出して、なまえは僅かに頬を緩めた。

「私は結局、最後まで傍観者だった。そんな私に何も言う権利はないよ」

「なまえさん…ごめんなさ…」

「謝らないで。あの時、私たちは最善だと思うことをした。ガビもファルコもそうでしょう?謝ったらそれが無駄になる」

「…うん」

「…リヴァイさんを連れて帰ってきてくれてありがとう」

穏やかに微笑んだなまえがそっとガビの頬に手を伸ばした。掬われた涙に、初めて自分が泣いているのだと気がついてひくりと喉を鳴らす。
抱え込まれた胸の中がひどく温かくて、ガビはわぁわぁと声を上げて泣き続けたのだった。



「オイ、なまえ。ガビのやつ、やたらお前に懐いてないか?」

「え、そう?」

「毎日毎日来やがって…チッ、新婚に気遣えってんだ」

「もう新婚っていえないくらいの時間、経ってるけど?」

「馬鹿言え。実質新婚みてぇなもんだろ」

ぶすっとした顔を隠さないリヴァイに苦笑してしまう。家の中や短距離は杖で移動出来る彼も、街に出る時や長距離の移動は車椅子を使っていた。
それを押すのはなまえの役目だったが、何故かリヴァイとなまえを慕うガビとファルコが競ってリヴァイの世話をしたがっている。
そんなリヴァイも左手で生活することにも少しずつ慣れてきた。最初のうちは思い通りにいかない身体に苛立ったように、長くなった前髪で見えなくなった右目を、そしてその表情を覆い隠していた。その瞳がいつでも真っ直ぐ前を向く時間が増えたことが、彼の心情を表しているように思える。

「オニャンコポン、あなたもリヴァイさんに付き合わなくていいんだよ?」

「いえ、俺もやることはありませんから。それに…ハンジさんに言われてるんですよ」

「え…ハンジ?」

楽しそうに薪割りをするガビとファルコを見守りながら、オニャンコポンが発した言葉に目を丸くする。ハンジがリヴァイを助けた話と、彼女の最期を聞いたなまえは泣きじゃくって暫くは塞ぎ込んでいた。だが自分なりに消化したのか、ハンジの話を柔らかな表情で聞くようになっている。

「はい。なまえさんがここで待っていること、兵長を必ずあなたの元に戻すこと…もし自分にそれが出来なかったら俺に頼みたいと、そう言っていました」

「ハンジが…そんなこと…」

「…つくづくお節介な奴だ」

なまえの濡れた声に気がつかないフリをして、オニャンコポンは空を見上げる。自由の翼の名の通り、どこまでも自由な人だったと心からそう思う。

「みんなは今も頑張っているんでしょうね」

「そうだね…何も出来ないのが悔しいけど」

「俺らみたいな戦うしか脳のねぇ年寄りはもういらねぇよ。あとは…若いあいつらに任せるだけだ」

脳裏に思い浮かぶ104期生の笑顔と、ガビとファルコの笑顔が重なった。
彼らと別れる時、リヴァイもこれからの情勢の立て直しに力を貸すよう懇願されたという。

「リヴァイ兵長…お願いします。僕たちだけじゃ説得力がありません」

「アルミン、あとはお前たちに任せる。こんな身体じゃお荷物になるだけだ。それに…俺の名は戦いの象徴みてぇなもんだ。これから目指す世界に、そんな物騒なもんはいらねぇだろ」

「ですが…」

「もちろん俺で力になれることがあればいつでも言え。だが、それは今じゃねぇ」

大きな混乱と緊張状態がやってくることは全員が理解していた。エレンが死んで終わりでは無いのだ。むしろここからが始まりなのだと、生き残った者たちの顔が凛々しく引き締まる。

「アルミン、ジャン、コニー。お前らなら出来る。いや、出来る出来ねぇじゃねぇ。やれ」

「…兵長」

「ジャン、その兵長ってのも今日で終いだ」

「いえ…俺たちにとっては兵長は兵長のままです」

「…好きにしろ」

アルミンたちの後ろでしっかりと顔をあげているライナーやピーク、アニに目を細める。
こんな時エルヴィンならなんと声を掛けるか、と考えてやめた。そんなのは全く自分らしくない。

「兵長、じゃああと少しだけ…せめてパラディ島の安全が確認出来るまでは…」

「それは俺がこの目で確かめる。アルミン…早くあいつを迎えに行ってやりてぇんだ」

リヴァイが素直に吐露した気持ちに、アルミンが大きく目を見開いた。ジャンとコニーは何故か動揺したように顔を赤らめている。

「そう、ですよね。なまえさん、ずっと待っていますもんね」

「お前らのことはなまえにもちゃんと伝える。俺らの力が必要ならいつでも声を掛けろ」

「はい。ありがとうございます」

「あの、兵長っ…!落ち着いたらその…遊びに行ってもいいですか?」

「コニー…」

「お、オレも!お願いします!」

「…ジャン。てめぇ人んちの嫁を邪な目で見たら削ぐぞ」

そんなことしません!と悲鳴のような声を上げたジャンに鼻で笑い、ゆっくりと立ち上がる。その瞬間、ふらりと身体が揺れてしまったのを二つの手が支えた。

「…お前ら」

「僕たちがリヴァイ兵長のことを送り届けます」

「私たちがここにいても邪魔になるだけだから…」

「俺も行こう。子ども二人じゃ心配だ」

「チッ…。勝手なこと言いやがって」

ガビとファルコの強い瞳に呆れたように、リヴァイが素っ気なく答える。伸ばされたオニャンコポンの手を素直に取り、足に力を込めた。なまえの元に辿り着けるのならどんな手にも縋るつもりだった。



漸く手にした穏やかな時間を噛み締めながら、リヴァイはそっとなまえの横顔を見つめていた。
あの戦いから三年、時折アルミンたちから手紙が届くが苦戦しながらも何とか前を向いているようだ。
届いた手紙を優しくなぞるなまえの目は、いつもどこか遠いところを見つめているように見える。

「…結局ファルコとガビ、ここに居着いちゃったね」

「フン…住むところくらい好きにしろって言ったんだがな」

リヴァイとなまえが住む家からほど近くの場所に、ファルコとガビは定住を決めたらしい。街から離れた場所に住むリヴァイとなまえの負担を慮って、相変わらずちょくちょく顔を出していた。
そして今日も、バンっと大きな音を立てて扉が開け放たれた。

「ちょっと兵長!まーた薪割りしたでしょ!危ないから駄目って言ってんのに!」

「はっ…ガキに気遣われるほど落ちぶれちゃいねぇよ。あと何度も言わせんな。もう兵長じゃねぇ」

「なまえさーん!この人全然いうこと聞かないんだけど!」

「そりゃてめぇもだろうがクソガキ」

「リヴァイさんは昔から誰の言うことも聞かないんだよねぇ。…あ、エルヴィン以外のね」

「…うるせぇよ」

ぷんすか怒るガビを宥めるために庭で取れた檸檬を使ったお菓子を用意するなまえ。
瞬時に機嫌を直すガビを呆れたように眺めながら紅茶を啜るリヴァイの耳に、ファルコの悲痛な声が届く。

「ガビ!お前また勝手になまえさんちに入って…」

「ファルコ、このお菓子すっごい美味しいよ!なまえさん、もう一個食べていい?」

「いいよー。ファルコもどうぞ。今お茶淹れるね」

「あっ、なまえさん、私も手伝うー!」

息を切らしたファルコが申し訳なさそうに頭を下げながら椅子に座るのを、リヴァイは同情に満ちた眼差しで見つめた。

「…お前も大変なクソガキに惚れたな」

「リ、リヴァイさんっ、そんなんじゃ…!」

顔を真っ赤にさせて慌てて手を振るファルコを益々哀れな目で眺めてしまう。ガキの色恋沙汰はどうでもいいが、もう少し静かで穏やかな時間が欲しいと思う反面、こんな生活も悪く無いと思う自分がいた。

「ファルコっ、檸檬もうちょっと取りに行こ!そしたらまたなまえさんがお菓子作ってくれるって」

「お、おい、ガビ!」

勢いよく戻ってきたガビに手を引かれてそのまま連れて行かれたファルコの前には、手つかずの紅茶が湯気を立てていた。騒がしいやつだ、と内心ごちながら新聞を眺めるリヴァイの手元にも新しい紅茶が置かれる。

「子どもは元気だねぇ」

「…クソうるせぇだけだろ」

「そんなこと言って。満更じゃないくせに」

クスクス笑うなまえから顔を隠すように新聞を掲げる。何故か気まずい気分だった。

「…私のところにもエレンが来たんだよ」

不意に溢された言葉に思わず顔を上げた。新聞越しに見えたなまえの顔はひどく柔らかい。
三年越しに聞いた真実に、リヴァイは目尻を下げた。

「…そうか。あいつ、お前には懐いてたからな」

「私のところに来たエレンは古城の頃の年齢に見えたけど…」

「よく分からねぇが道ってのは年齢も操れるらしいな。便利なもんだ」

「そっか」

どんな話をしたのか、なまえは語らない。
それはリヴァイも同じで、なまえにさえ話していないことだった。彼女に聞かれたこともない。聞く必要も話す必要も無いと、そうお互い思っていることが感じられる。
外から聞こえる二人の明るい声に耳を澄ませながら、なまえは刻み込まれているあの記憶を思い返した。リヴァイに語るつもりは無いが、いつまでも忘れることはない。

「なまえさん、お久しぶりです」

そう小さく笑ったエレンは、怒られるのを待っているかのような幼く不安そうな顔をしていた。
夢か、と周りを見回したなまえは、だが現実なのだと直感で理解した。そこは彼らが短い間を過ごした古城の食堂だった。

「エレン…お腹すいてない?」

「えっ?えっと…」

咄嗟に出た言葉に面食らったらしいエレンが口籠る。そして少年らしい笑顔を浮かべて頭を掻いた。

「…ここでなまえさんによくそう聞かれてましたよね」

「あの頃は食べ盛りの男の子だったでしょ?心配だったんだよね」

椅子に座ったなまえは、自分もいくらか若返っていることに気がついた。まるでこの古城で過ごしていた頃のようで向かい側に座るエレンを優しく見つめる。

「ここは…どんな世界なの?」

そう問うた途端、なまえは一気に理解した。巨人のならわし、始祖の巨人の力、そしてエレンが成そうとしていること。
脳裏に刻まれたそれに、これも始祖の巨人の力かと驚いた目を向ける。

「…理解して頂けましたか」

「大体は。でもこれは全部じゃないよね?」

「はい。ですが戦いの場にいないなまえさんにはこれで十分かと」

挑むようになまえを半ば睨みつけているはずのエレンの目は揺れている。この古城で過ごす中、自分の存在意義に悩み、仲間から恐怖の目を向けられたことへショックを隠せなかった時のエレンの瞳と重なった。

「じゃあなんで私のところにも来てくれたの?」

「…それは」

「いくら全てのエルディア人と…ユミルの民と道で繋がれるからと言っても…戦いの場にいない私のところにも来たのは何故?」

その問いかけに迷う様子のエレンから目を離さない。今、彼がどんな状態で何をしているのかは分からない。だがわざわざなまえを傷つけるためだけにこんな手間をかけるとは思えなかった。

「…後悔はしていません」

「…うん」

「でも…オレ、リヴァイ兵長となまえさんを見るのが好きでした」

「え…?」

予想外の言葉に目を瞬いてしまう。
自分の言葉に恥ずかしそうに俯いている年相応の彼が、まさかこの世の全てを消し潰そうとしているとは誰も思わないだろう。

「…リヴァイ兵長は厳しい方でしたけどなまえさんの前ではちょっとだけ優しい顔になってて。なまえさんも何があっても兵長のことを信じてて」

「それは…」

「オレ、この場所でそんな二人を見るのが結構好きだったんです」

懐かしそうに頬を緩めるエレンはなまえの知る彼のままだった。それでも彼は、殺戮者としての道を自ら選んだ。

「なんか…恥ずかしいね」

「…なまえさん。愛ってなんなんですかね」

唐突な質問に再度目を瞬いた。思わず見上げたエレンの顔に、これが本当に聞きたかったことなのだと察する。

「随分哲学的なことを聞くのね」

「オレ…いくら考えてもしっくりこなくて。なまえさんなら分かるかなって」

「…そうねぇ。愛にも色々あると思うけど」

真剣な顔のエレンになまえも真剣になる。こんなことをしている暇はあるのだろうか、と頭の隅で疑問に思うがちゃんと答えてやりたかった。

「エレン、ミカサとアルミンのこと、好き?」

「え?そりゃあもちろん…」

「じゃあ104期生の子たちは?」

「…大切な奴らですよ」

「うん。お母さんもお父さんも?」

「…はい」

残酷な質問だとは思った。その全てを失くすか、自分の手で壊そうとしている彼にどう響くのか。
完全に目を伏せてしまったエレンが投げ出した手をそっと握る。

「っ、なまえさん?」

「ねぇエレン。なんで私のところに来てくれたの?」

「そ、れは…」

パッと離されそうになった手を強く握る。離してはいけない気がした。

「調査兵団に入ったばかりの頃、巨人の力もわけわかんなくてすげぇ怖かった時…兵長もなまえさんも変わらず接してくれて…」

「懐かしい…リヴァイさんは怖かったでしょ」

「すげぇ怖かったけど…嬉しかったです」

「…そっか」

「でもなまえさんから兵長のこと引き離しちゃって…オレ…」

「…申し訳ないって思ったの?」

「いや…よく分からないんです。オレが自分で招いたことなのに」

「…エレン。それも愛、の一つだよ」

「え…?」

くるりとまん丸くなるグリーンの瞳を覗き込んだ。やっぱり綺麗だと、そう素直に思える自分の心が嬉しい。

「なんとなくだけど、人のことを気に掛ける。どうしてるかな、大丈夫かな、泣いてないかな…。そうやって誰かを思う気持ち全てが愛なんだと、私は思うよ」

「…なまえさん」

「あはは、すっごいくさいこと言っちゃったね。でも…エレンが私をほんの少しでも気に掛けてくれたその気持ちもちゃんと愛だと思うな」

彼が求めている答えが何なのかは分からない。
本当はもうリヴァイは死んでいて、それをなまえだけが知らないのかもしれない。その時自分は、目の前の澄んだ緑の瞳を持つ彼を許すことが出来るのだろうか。
その答えはいくら考えても分からなかった。

「…なまえさん。オレはそろそろ戻ります。ここの記憶は全て消させてもらいます」

「そっか…残念」

ぎゅっと一度だけなまえの手を握り返したエレンが、ゆっくりと立ち上がった。瞬きをする間に、その姿は19歳の彼に変わっていた。

「…エレン」

「なまえさん、リヴァイ兵長はきっとあなたのところに戻ってきます」

「…え?」

「分かんねぇけど…多分きっと、それも一つの愛のチカラってヤツです」

ぽかん、と口を半開きにしてしまったなまえにゆっくりと背を向けたエレン。
半分だけ振り返った彼が、小さな笑みを浮かべた。

「さようなら、なまえさん」

軽く振られた手の残像だけが最後まで目に焼きついていた。



「なまえ、どうした」

「…何でもない」

ぶんぶんと窓越しに大きく手を振るガビがあの時のエレンに重なった。軽く手を振り返したなまえを気遣わしげに見遣るリヴァイに向き直る。

「リヴァイさん、今度あの二人とオニャンコポンと旅行の予定を立ててるんだけど…」

「…あいつら本当に少しは気遣った方が良いんじゃねぇか」

うんざりと溜息を吐いたリヴァイに思わず笑ってしまう。毎日のように顔を出すガビとファルコに日に日に顔を険しくさせたリヴァイを見兼ねたのか、オニャンコポンが二人を小旅行に連れて行ったのは二ヶ月ほど前のことだ。
久しぶりに二人きりの時間を堪能したリヴァイはひどく満足そうで、夜はまるで怪我などしていないような技巧でなまえのことを翻弄した。そしてぐったりとして動けない彼女に、日頃の感謝と言わんばかりに甲斐甲斐しく世話をしたのだ。
戻ってきた二人は旅行を思いきり楽しんだらしく、リヴァイとなまえも是非行こうとしきりに誘っていた。

「いいじゃない。旅行がてら世情も探ってみよう?アルミンたちの役に立つかも」

「…二人でいいじゃねぇか」

「そうだねぇ…」

乗り気でない彼の様子に困ったように眉を下げた。リヴァイの言うことも尤もだ。特に今なまえが抱えている問題から考えれば、二人きりの時間を取ることはかなり重要に思えてくる。

「甘やかしたらいつまでもあのクソガキ共がついてくるぞ」

「…まるで家族みたいだね」

囁いたなまえの言葉がリヴァイの鼓膜を震わせた。バサリ、と再び新聞を開いた彼は緊張で乾く唇を一度舐めあげる。

「…俺らもそろそろ作るか、子ども」

「えっ…?」

掠れてしまった声に内心舌を打つ。驚いたようになまえが身動ぎした気配が新聞の向こう側から伝わってきた。

「巨人の力も消えた今、よく分からねぇアッカーマンの力を引き継ぐこともねぇ。これからはずっと俺が側にいる。あの頃のような力も無ければ五体満足でもねぇし、平和とは言い難ぇが…お前と子どもを守っていくくらい、こんな俺でも出来る」

リヴァイが照れ隠しに饒舌になる癖を知っているのは、もうマミだけだ。それを思い出し、ツンと鼻の奥が痛くなる。

「…リヴァイさん」

名を呼んだきり、しんと沈黙してしまったなまえに慌ててしまう。散々待たせて彼女の未来を縛った自分に、これ以上望む資格は無いと思っていた。だがどうしても、なまえとの愛の証が欲しいと願ってしまった。

「いや、なまえ…勝手なこと言って悪か……!?」

ぐしゃりと新聞を握り締めたリヴァイは、喉の奥に張り付いた声を何とか絞り出そうとした。だがその途中でドン、と温かいぬくもりがリヴァイの胸元に飛び込んでくる。

「っ、なまえ?」

「…きっとだよ?絶対絶対…私たちから離れないでね?」

「は…?私“たち”って…ま、さか…」

ゆっくり顔を上げたなまえの眦が濡れていた。幸せそうに微笑んで頷くことで肯定した彼女に、みるみるうちに心臓が高鳴るのが分かった。

「オイオイオイ…」

「まだまだ初期だけど…子どもが出来ました」

「っ、馬鹿野郎っ…なんで早く言わねぇんだっ…」

声が震えてしまうのを抑えきれなかった。
込み上げる気持ちがどんなものなのか、初めて湧き上がるそれは知らない温かさだ。
縋るようになまえの背中に手を回したリヴァイの全身は、彼女の命の鼓動を感じていた。

「ちょっと兵長!何こんなところでイチャついてんの!」

「…兵長じゃねぇ。ついでにここは俺の家だ」

勢いよく開け放たれた扉から飛び込んできたガビが、きゃんきゃん騒ぐのを一刀両断するリヴァイ。
離れようともがくなまえを益々強い抱き締めた彼がギロリとガビを睨みつける。

「私たちみたいな子どもの教育に悪いと思わないの?早くなまえさんを離してよ!」

「…てめぇらみたいなクソガキにはならねぇように育てなきゃな」

「え……?」

「オイ、ガビ!また何邪魔して…」

「ちょっと兵長…なまえさん…まさか…」

「…悪ィが旅行になまえは連れていけねぇ。大事な時期だからな」

リヴァイの言葉に一瞬の間を置いて、ガビの悲鳴が家中に響き渡った。リヴァイからベリッとなまえを引き剥がし、その胸元に抱きついたガビが涙混じりの声を上げる。

「オイクソガキ…いい加減に…」

「なまえさんおめでとうっ…!身体冷やしちゃ駄目だよ!」

「ふふ、ありがとうガビ」

「えっ、えっ…なまえさん、ガビ!?」

「…オイ、ファルコ。あのクソガキを引き離せ。ついでに連れて出て行け。今日は帰ってくるな」

低い声音にリヴァイの本気を読み取ったファルコが、俊敏な動きでガビの首根っこを掴み上げる。そのままズルズルと引き摺られながらぎゃあぎゃあ騒ぐのを、扉を勢いよく閉じることで遮断した。

「チッ…あのクソチビ…本気で空気が読めねぇな」

「リヴァイさんが喋っちゃうからでしょう、もう…」

肩を竦めたなまえがリヴァイに寄り添うようにして身を寄せた。すぐに回された手は、柔らかく彼女の腰を支える。

「体調は大丈夫なのか。無理するなよ」

「うん、まだ大丈夫」

「…ここにいるのか」

静かに腹部に当てられた手のひらが、何かを探るように微かに彷徨う。残された左目がなまえの目を捉えた。

「…いるよ。動いてるのが分かるのはまだまだ先だけど」

「…そうか」

「楽しみだね、リヴァイさん」

「…ああ」

「アルミンたちも喜んでくれるかな」

「そうだな。…なまえ」

「うん」

「あいつらも…見ていてくれると思うか」

「…もちろん。ハンジなんてきっと飛び跳ねて喜んでるよ。エルヴィンもね」

そうか、と答えるその声が湿っていることには気付いていない振りをした。そっと頬に添えられた手に促され、ゆるゆると首を上げる。落とされた口付けが濡れているように感じて、なまえは温かい唇を享受しながら一筋の雫を落としたのだった。



-fin



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