目を開けると、真っ青な空に真っ白な雲がプカプカ浮いているのが見えた。
どうやら屋上で眠ってしまったらしい。
起き上がった途端、汗が滴り落ちた。
暑い。どこか涼しいところに移動したい。
僕はゆっくり立ち上がると、屋上の扉を開けて階段を降りた。
今はまだ授業中のようだ。
教室には戻れないから、保健室に行くことにしよう。
ふらふらと足を進めていると、ふっと眩暈がして、咄嗟にしゃがみ込んだ。
マズいと思いながらも意識を保つことができず、ゆっくりと暗闇に落ちていく。
***
目が覚めた。
辺りを見回すと、夕方なのか、薄暗い中に見慣れた和室が広がっていた。
「まただ………」
僕は薄っぺらい布団から手を出して、寝汗に濡れた前髪をかきあげた。
江戸へと帰ってきて寝て過ごすことが増えてから、頻繁に夢を見るようになった。
眠りが浅いし魘されることも多いが、最近はよく、知らない世界の夢を見る。
その世界では、僕は十七かそこらの年齢だ。
見たことのない異国の装いをしていて、髪も短くなっている。
とにかく、すごく平和で楽しそうな世界なのだ。
近藤さんは僕の通っている寺子屋っぽいところの先生をしていて、校長先生と呼ばれている。
どうやら幼なじみのようで、夢で会えば必ず可愛がってくれた。
僕は寺子屋で剣道をやっていて、平助は剣道仲間。
――そんな設定のおかしな夢を、最近ではほぼ毎日、眠る度に見るようになった。
そして、夢の中の僕が眠たくなると目が覚める。
毎回必ず同じ夢だ。
もっとも、夢は少しずつ進んでいて、言わば物語の一部を垣間見ているような感じだから、同じと言うのは少し語弊があるかもしれないけど。
とにかく平和で、血の臭いなんて全くしない、それはそれは穏やかな夢。
僕は、これは僕の理想郷なんだろうと思うことにしている。
理想というか、深層心理の願望というか。
戦も病もなく、みんなが穏やかに幸せに暮らす世界。
結局僕は、表では血を欲するような物騒なことばかり言っていても、まるっきり正反対の人生を送ってみたいと思っていたわけだ、心の奥底では。
目覚める度に、自嘲の笑みが漏れた。
いつか僕にも、夢の世界のような人生を送れる日が来るんだろうか。
そんな日が来たら、…それはそれで嬉しいかもしれない。
ただ一つ気になることがあるとすれば、それは、…………僕の夢には、絶対に土方さんが出て来ないってことぐらいだから。
「土方さん元気かな……」
甲府での戦から帰ってきて、近藤さんと二人で顔を出してくれた時には酷くやつれていた。
負けちまった、城を守りきれなかった、なんて悔しがって。
でも闘志だけは漲ってるみたいで、何が官軍だって怒鳴って、近藤さんに宥められながら帰って行った。
次はどこに行くのって聞いたら、分からないけれどとりあえず戦のあるところに行くと言っていた。
その戦にも、僕はもちろんついて行けない。
こうして一人、遠くからその身を案ずることしかできない。
もしどうしても一緒に行きたいと言えたなら、今頃どんなに楽だっただろう。
最後まで一緒に戦わせてくれって、最後の我が儘だと言って聞き入れてもらっていたら。
…いや、もしもなんて考えるのはよそう。
そんなことはできっこなかったし、僕の体も最早戦える状況ではなかった。
僕を戦力外にしたのもまた、土方さんの優しさなのだ。
僕が自分から言えないのを分かっていて、療養しろと向こうから命令してくれたんだろう。
土方さんの良さは、厳格なところ。
例え相手が恋仲であっても容赦などしない。
それが分かっていたから、僕は大人しく引き下がった。
けれどその容赦ない処断は、土方さん自身をも傷つける。
それが僕には辛いのだ。
結局僕は、何をしたって土方さんを傷つけ、困らせることしかできないみたいだから。
「はぁ……会いたいな」
今ここにはいない彼のことを思いながら、僕は再び目を閉じた。
眠りにつけば、穏やかなあちらの世界に行くことができる。
あっちでは僕は一人じゃない。
この孤独に比べれば、随分マシだと思った。
***
「――――田…ん……沖田くん!!」
名前を呼ばれ、肩を揺すられて目を開けると、山南さんと山崎くんが僕を心配そうに見下ろしていた。
「沖田くん、大丈夫ですか?」
「あれ、僕…?」
「ここは保健室ですよ。ここに来る途中の廊下で倒れていたんです。覚えていますか?」
「…え、っと…?」
「沖田くんのことですから、どうせ屋上でサボっていたのでしょう?軽い熱中症を起こしてますから、今日は早退した方が良いと思います。山崎くん、沖田くんの家に連絡してきてくれますか?」
「分かりました」
僕はぼんやりしたまま、保健室から出て行く山崎くんと、テキパキ動き回っている山南さんを眺めた。
それから自分に意識を戻すと、体の至る所に冷却剤があてられていた。
「とりあえず、これを飲んでください」
そう言って、山南さんがスポーツドリンクを渡してくる。
少し飲んだが吐き気がして、戻す前に慌てて口を離した。
「大丈夫ですか?」
「ちょっと………めまいがします」
「そうですか、では今薬を用意しますから、寝て待っていてください」
「あの……ひ、かたさん、は…?」
「何ですか?」
「土方、さんは?」
「それは、どなたですか?」
山南さんが首を傾げる。
「あ、いえ……何でもない、です」
やっぱり、いないのか。
目を開けているのが辛くなって、僕は再び目を閉じた。
***
再び目が覚めた。
見慣れた天井が視界いっぱいに広がっていて、思わず息を吐いた。
あちらの世界には土方さんはいない。
そんな悲しい設定をまざまざと突きつけられてしまった。
やっぱり、あちらもあまりいい世界ではないのかもしれない。
そんなことを考えながらゆっくりと瞬きを繰り返すと、僕の頭を撫でている土方さんが目に入った。
一体どれくらいの時間が経ったのか、行灯に火が入れられている。
土方さんはすっかり膝を崩して、枕元に座っていた。
……びっくりした。
何故彼がここに?戦は終わったの?
「…ひ、かたさん……」
やっぱり土方さんの手は、大きくて温かくて気持ちいい。
擦りよるようにすると、単調に手を動かしていた土方さんが動きを止めた。
「悪い、起こしたか?」
「違いますよ」
「体、大丈夫か?気分はどうだ?」
心配症な彼が面白くて、つい頬が緩む。
「ヘンな夢を見ました」
「夢?」
「山南さんと山崎くんが一緒になって、僕の看病をしてくれてました」
「そりゃあまた奇妙な組み合わせだな」
「最近よく見る夢なんです。同じ設定の」
「へぇ」
「僕は寺子屋に通ってて、すっごく元気なんですよ。近藤さんもいるんです」
「そうか。そりゃあ………いい夢だな」
見上げると、土方さんは柔らかい顔をしていた。
けれど、最後に会った時よりも更にやつれたような気がする。
やつれているというか、疲れきっているというか。
珍しく覇気がない。
「その夢に俺は居るのか?」
「…ううん、土方さんは出てきてくれないんです。愛が足りないんじゃないですか?」
「それを言ったら、お前だって俺の夢に出てきてくれねぇぞ?」
「それは、土方さんの努力が足りないんですよ」
「あぁ?」
「だいたい、きちんと寝てるんですか?そこから怪しいですもんね。体壊したって、僕知らないですからね」
「寝てるさ。戦場じゃ居眠りなんざできねぇからな」
「じゃあ、戦場では土方さんの俳句は読めないですね」
「そりゃあどういう意味だよ」
土方さんが、軽すぎるほどの力で小突いてくる。
他愛のない会話をできることが嬉しくて、僕はそれから暫く好きなように喋り続けた。
「戦は、終わりましたか?」
それから唐突にそう聞くと、それまで違うことを考えている様子で適当に相槌を打っていた土方さんが、ガラリと表情を変えた。
「いや………終わっちゃいねぇ」
「勝ちますか?」
「そりゃあ勝つさ。お前、俺が負けるとでも思ってんのか」
「いえ。でも、無理はしないでくださいね」
「分かってる。お前こそ無理するなよ。暖かくして、きちんと食って、」
「あー!分かってますよもう。相変わらず口うるさいんだから」
「最後まで口うるさくて悪かったな」
土方さんが困ったように笑う。
それが僕には泣きそうに見えた。
「…最後って?」
「……どんどん戦場が動いてる。北へ北へ上ってく感じだな。もしかしたら、しばらく江戸には戻れないかもしれねぇ」
「それってもう、……………じゃあ、ここにもしばらく来てくれないってことですか」
「あぁ、そうだな」
もう会えないかもしれないってことですか―――。
喉まで来ていた言葉を、僕は辛うじて飲み込んだ。
口に出してしまうのが恐ろしかったのだ。
「近藤さんも、一緒に行っちゃうんですか」
土方さんの表情が、微かに曇る。
「当たり前だろうが。局長がいねぇでどうするんだ」
「そうですよね。局長と副長がいてこその新選組ですもんね」
「お前もな。一番組組長がいなかったら、様にならねぇよ」
「そ、ですね…………」
僕は涙をグッと堪えた。
それから帰り支度を始めた土方さんを見送るために布団から出る。
「お前、見送らなくていいから、横になってろよ」
「最後くらい見送らせてくださいよ」
止める土方さんを強引に押し切って、裏口まで一緒に歩いた。
そこら中官軍だらけで、見つからないようにするのにも一苦労だ。
「………また、会えますよね」
「お前は何言ってんだ。当たり前じゃねぇか。戦が終わったら迎えにくるから、それまで隠れといて、元気になって待ってろ」
「はい」
土方さんは最後に優しい微笑みを浮かべてから、夜の暗闇へと溶け込んでいった。
「げほっ、げほっごほっ!」
土方さんのいる間ずっと我慢していた所為で、室内に戻りながら派手に咽せ込む。
途端襲い来る激しい発作に抗うことなど到底できず、暫く咳を繰り返した。
手の平に散る生暖かい血。
僕の体は、確実に死へと向かっている。
近藤さんも土方さんも、新選組の仲間が皆無となってしまった今、僕をこの世に繋ぎ止めておけるものは何もない。
姉さんも、とっくに江戸を脱出してしまった。
土方さんは迎えに来るって言ってくれたけど、きっと間に合わないって僕は思ってる。
僕が死んだら、ほんの少しの間だけでいいから泣いて欲しいな。
一人ぼっちになって寂しかったのだろうか。
何故か、その時僕はそんなことを考えた。
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