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子供の頃、いつも見ていた光景がある。


屋敷の厨房からは、夕方になるといつもいい匂いがして、俺はいつも誘われるように中を覗きに行っていた。

夕食の準備で慌ただしく、たくさんの人が行き来する厨房の一番奥。

そこには、いつもバケツを並べてしゃがみこみ、ジャガイモの皮をむいている女の人がいた。

子供から見てもかなりの美人で、窓際でただ雑用をこなしているだけなのに、そんなところにいるのが、何だか場違いに見えるような人だった。

彼女は俺に気がつくと、いつも優しく微笑みかけてくれた。

それから、わざわざ俺のところまで来て、必ずこう言うのだ。


「坊ちゃま、またこんなところに来たんですか?坊ちゃまはお台所になんか来ていい身分じゃないんですよ」


それは、父親からも厳しく言いつけられていることだった。

屋敷にいる人間にはそれぞれ階級があって、まず俺たち一族の者、それから執事に家庭教師、SPがいて、さらにその下に乳母や給仕をする使用人がいる。

庭師や掃除・洗濯をする雑用係、そして、女の人を含む下働きの者たちは、屋敷の中では最下級に属するのだと教えられていた。

そして、上の者が下の者に易々と話しかけたり、無駄に戯れたりするものではないというのが、我が家の方針だった。

しかし、そんな物を守る俺ではない。

どうしてそのような差をつけなければならないのか全く理解できなかったから、守りもしなかった。


「そんなのは父さんが勝手に決めたことだろ。俺には関係ない」


そう言って毎日会いに行けば、女の人は困った坊ちゃまですねと言いながらも、嬉しそうに微笑んでくれるのだ。

そのまま女の人に手を引かれて部屋に連れ戻されながら、母親―――俺は母親というものをよく知らなかったが、こういう人が家族だったらきっと幸せなんだろうと、いつも子ども心に思っていた。

本当に、綺麗な人だったのだ。

だから俺は、自分が行くことで彼女の仕事の邪魔になっていることは理解していたが、厨房に行くのをなかなか止められなかった。





そんなある日、父親に出されていた課題が終わったので、見せに行こうと廊下を歩いていると、父親の書斎にその女の人が入っていくのを目撃した。

正確に言えば、入っていったのではない。

俺には、彼女が父親に無理やり手を引かれて、強引に引きずり込まれたように見えた。

何かを叫ぶような声や、ガタガタという派手な物音まで聞こえてきたから、幼かった俺は、女の人が何かいけないことをして父親に怒られているのだと思った。

もしかしたら、自分がいつも仕事を邪魔している所為で、何か問題が起こったのかもしれない。

そう考えたら自分にとばっちりが来るのが怖くなって、俺は慌ててその場を去った。

後で冷静になってから、ようやく女の人がどうなったか気遣う余裕が生まれたものの、厳格な父親に問いただす勇気は俺にはなかった。

何だか無性に後ろめたくなって、それから暫くの間、俺は厨房に近づくことすらできなかった。


ところが、久しぶりにふらりと出向いたある日、厨房にあの人の姿が見当たらなくなっていたのだ。


「あそこにいた女の人は、どうしたんだ?」


もしかしたらクビになったのかもしれないと、不安にかられてその場にいた他の人に聞けば、少し怒ったような声でこう言われた。


「あぁ、あの子なら具合が悪くて休んでるんですよ」

「………いつ戻ってくる?」

「さあね。とにかく、あたしたちゃ忙しいんです。頼むから部屋で大人しくしていてくださいな」

「……………」


俺はそれから暫くの間、毎日一人ぼっちで生活した。

屋敷は子供の俺には広すぎて、一人で過ごすのはどうも苦手だった。

父親は多忙で、昔から遊んでくれたことなど一度もなかったし、母親は母親で、毎日どこに行っているのか、着飾ったまま帰ってこないことがほとんどだ。

もちろんあの事件があった日も母親は不在だった。

それが当たり前だったから今更寂しさも湧いてはこなかったが、もうこのままあの女の人に会えなかったらと思うと不安でたまらなかった。

かと言って、当時の俺にできることなど何もない。

いつ具合がよくなるのかと、俺は毎日厨房に行っては、他の人がジャガイモを処理しているのを見て、どこか暗い気持ちになっていた。


それから一年近く経った頃、ようやく待ちに待った日がやってきた。

女の人が、戻ってきたのだ。

が、彼女一人ではなかった。

以前のように厨房の奥でジャガイモの皮を剥くその背中には、小さな乳飲み子が背負われていた。


「………………」


俺は黙って厨房の奥へと歩いて行った。

忙しそうに働いていた誰もが、俺に入ってくるなと声を荒げる。


「まぁ、坊ちゃま」


女の人は、全く変わらぬ優しい顔で微笑みかけてくれた。

その背中では、赤ん坊がすやすやと眠っている。


「久しぶりね」

「………」

「私がいない間、毎日来てくれていたんですってね。何も言えなくて、ごめんなさいね」


俺は赤ん坊をじっと見つめた。


「それ………」

「ふふ、赤ちゃんですよ。良かったらお友達になってあげてくださいね」


女の人は、身を捩るようにして赤ん坊を見せてくれた。


「……………」


すやすやと眠る子供には、まだほとんど毛も生えていない。

ただ、何となく母親に似た顔立ちだと思った。

具合が悪いと言っていたのは、要するに、妊娠していたからなのか。

よほど重体なのかとずっと心配していた俺は、赤ん坊と相変わらず優しげな女の人を見てホッとした。

そしてまた、あしげく厨房に通うようになった。



「…それ、いつも寝てるのか?」


ある時俺は女の人に聞いた。

赤ん坊は、俺が行くといつだって眠っていたからだ。


「そうね……この時間は、お昼寝の時間だから」

「そんなもん背負いながらじゃ、仕事がしにくいんじゃねぇのか?」

「………」


女の人は、一瞬キョトンと目を見開いた。

それから、破顔してクスクスと喉を鳴らす。


「もしかして坊ちゃま、心配してくれているんですか?」

「っ、俺は、別に………」


その時、不意に厨房の中の方から声がかかった。


「ちょっとアンタ!いつまで油売ってる気だい?早くこっちを手伝って欲しいんだがね!」

「あっ、はい!ごめんなさい!今行きます」

「それから、ぼっちゃんも暫く大人しくしていてくれませんかね、こっちは屋敷中の人のための夕食作りで忙しいんですからね」

「…………」


俺は女の人がジャガイモのバケツを持ち上げるのを、ぼうっと立ち尽くして眺めていた。

女手では重そうだな、なんて思っていると、振動で起きてしまったのか、背中の赤ん坊が火がついたように泣き出してしまう。


「あっ………よしよし、お願いだからいい子にしててね」


赤ん坊の泣き声は、騒々しい厨房の中でもよく響いた。

働いていた他の人たちが、あからさまに迷惑そうな顔を向ける。


「ったく、うるせぇなぁ。早く泣き止ませてくれよ」

「す、すみません……」

「ほんとに、いい迷惑なんだよ。こっちはあくせく働いてるっていうのに、赤ん坊にばかりかまけられちゃあ、割に合わないじゃないか」

「何があったかは知らないけどね、こっちもそこまで面倒見切れないんだからね」

「すみません……」


口々に心ない言葉を発する使用人たちに、詳しい事情は知らなかったが、俺は激しい憤りを感じた。


「もう……お願いだから泣き止んでちょうだいよ……」


耳をつんざくような声で泣き続ける赤ん坊と、困り果てながらも赤ん坊をあやす母親を見て、それから決心する。


「なぁ、少しの間、その子を俺に預けてくれねぇか?」

「え……?」

「仕事が済むまでの間だけでいいから。俺、ソイツとちょっと遊んでみてぇんだ」

「坊ちゃま……」


こういう言い方をすれば、端からは俺がわがままを言っているように取れるだろう。

母親はそれが分かっていて逡巡しているようだったが、やがておんぶ紐を外し、赤ん坊を俺に預けてくれた。

赤ん坊を預かる際に彼女の手が見えたが、あかぎれだらけでとても痛々しく、苦労しているんだなと、子供心に思ったのを覚えている。


「ありがとう」


母親は小声で俺に囁いてから、調理台の方へ小走りに去っていった。

俺は赤ん坊を連れて厨房を出る。

赤ん坊は、それから暫くぐずっていたが、抱っこして長い廊下を歩いているうちに泣き止んで大人しくなった。


「あー……だぅ…」

「なんだよ、おチビさん」

「だぁ…?」


俺はその時初めて起きている赤ん坊を見た。

勿論、瞳を見るのも初めてだった。

……本当に、母親そっくりだと思った。





「坊ちゃま、いつもありがとう」


それからたびたび赤ん坊を預かるようになった俺は、母親によくそう言われた。

日に日にやつれていく母親は見ていてとても痛々しくて、当時の俺に理由は分からなかったが、周りの風当たりが相当強いのであろうことは一目瞭然だった。

ただ、少しでも助けになれば。

その一心で、俺は毎日厨房に通った。

まだ子供だった俺が、どうしてそこまで執着していたのかは分からない。

俺には何一つ不自由ない生活もあれば、確約された未来もあった。

けれど、あの親子の間に感じていた愛情のようなものは、今まで生きてきて一度も与えられたことはなかったのだ。

だから俺は、あの親子にある種の憧憬を抱いていたのだと思う。

常にどこか寂寞とした気持ちを抱えていた俺には、あの母親は優しすぎたのだ。

俺はずっと、形だけなどではない、本当の家族を求めていた。





それから暫くして、母親は子供諸共姿を消した。

厨房の人に聞いたらただ一言、辞めたと言われた。

腑に落ちなくて、俺は父親にも尋ねてみたが、何も教えてはくれなかった。

親子は、俺の前から忽然と姿を消してしまったのだ。

口を開きたがらない大人たちに、俺は何となく複雑な事情があることを理解した。

ただ、当時の俺にできることなど皆無だった。

俺は、真実を何も知らないまま大人になってしまった。

すべての事実を知ったのは、俺のことをろくに育てもしなかった母親が出て行き、父親が死に、正式に後継者として認められてからだ。

しかし、その時にはもう何もかも手遅れだった。

俺があの親子と自分との並々ならぬ関係を知った時にはもう、助けたくとも、会いたくとも、母子どちらの行方も知れなくなっていたのだ。

どんなに人脈と権力を駆使して捜そうとも、親子は決して見つからなかった。





……………それなのに。

俺の目の前に突如として現れたレジスタンスの一員だと名乗る男は、あの美しかった母親と瓜二つの顔をしていた。

傷つき、ボロボロになって、見るに耐えられない姿ではあったが、それでも俺は、奴の澄んだ翡翠の目を見てすぐに分かった。

…こいつが、ずっと捜し求めていたあの赤ん坊なのだと。




*maetoptsugi#




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