抱えきれない幸せ
「よいしょっと」
長引いていた雨も止んで、さわやかな風が吹く様になってきた。
日増しに暑くなる毎日と戦いつつ、私は今日もこの中庭に来ている。
春に花壇で咲き誇っていた色とりどりのチューリップももうここにはおらず、代わりに今はマリーゴールドが植えられている。
私はいつもの様に木陰に座って歌を歌おうと思っていたのだが、案の定芝生は雨で濡れていた。
それなら、と私は名案を実行開始。
木の幹の窪んでいる所に手足を掛け、ゆっくりゆっくり登っていく。
こんな所看護師さんに見られたら、怒られちゃうかな。
木のぼりなんて初めてだったので、最初は登りきれるか不安だったが意外と上手くいってしまった。
比較的高い位置で枝分かれしている幹に腰掛ける。
上から見下ろした中庭は美しいものだった。
芝の上をうっすらと走る雨水はキラキラと輝いていて、青々とした木々が私の胸を一杯にする。
すう、はあ。
さあ、今日は何を歌おうか。
心を弾ませる。しかし歌詞は中々出てこない。
そこで、私は自分が今落ち込んでいることにようやく気付いた。
無理やり上げていた口角の力を抜く。
「・・・・・・」
エドが、もう1週間は来ていない。
今までは頻繁に来てくれたのに。
私は随分わがままになってしまった様だ。
「もう、来てくれないのは当たり前、だよね。」
あの時の彼の表情を思い出す。
冗談だろ?
冗談じゃないんだよ。
どんどん笑顔が曇って行く。
最後に見たのは、哀しみに歪んだ表情だった。
When the blazing sun is gone,
When he nothing shines upon,
Then you show your little light,
Twinkle, twinkle, all the night.
Twinkle, twinkle, little star,
How I wonder what you are.
力のない、弱弱しい声しか出なかった。
いいんだ、これが本望なんだ。私は誰の事も悲しませたくない。だから言ったんじゃない。
―――――悲しい
一人で死んでいく方が、誰にも辛い思いはさせない。私だって辛くない。
―――――寂しい
だってだって、その方が、きっと、
―――――怖い
『会いたい』
「名前?」
「!?」
ぐらり。
思わずバランスを崩してしまった。
「ひゃ・・・」
血の気が引く。私はそのまま前に倒れて落ちていく。
「名前!!!」
視界が真っ暗になってから、体が何かにあたる感覚がした。
全身に鈍い痛みが走るも、それは思っていた程のものではなかった。
「な、何やってんだよ!」
「エド・・・!」
顔を上げると、心配そうな、怒った様な表情を浮かべるエドが見えた。
落ちた私を、彼が受け止めてくれたのだ。
彼の顔をもっと見ていたいのに、私の視界は言う事を聞かずにどんどん滲んでいく。
大粒の涙が毀れ落ちるのに、大した時間は掛からなかった。
「は!?な、ちょ、おおおおおま、ななな何泣いてんだ!!」
「だ、だって、っ・・・!」
もう来てくれないと思ってたから。
もう、会えないと思ってたから。
私は声を掠らせながらも必死に言葉を紡いだ。
「お前、オレがそんな薄情な奴かと思ってたのかよ!?」
「思わないっ・・・う、ひ、思わない、けどっ・・・!」
視界は滲む一方だ。俯いてひたすらに目元を手で拭っていたら、ふいにエドに手を掴まれる。
ゆっくりと顔を上げると、彼はにっと笑ってから私を抱き寄せた。
「エ」
「オレはお前に会いたいから来たんだ。」
「!」
「だから!その、つまりだな・・・うん、オレは名前のことが」
「だ、だめだよ!!」
どん、と彼の胸を突き離す。エドは吃驚した様な表情を浮かべていた。
彼の言葉の続きが、何となく分かってしまった。つぎに過るのは、ひとりぼっちの私。途端に私は怖くなった。只の自惚れであると笑って欲しい。
でも、多分、これは、
私の勘違いなんかじゃない。
「名前・・・?」
「私、死んじゃうんだよ?いなくなっちゃうの!・・・辛いの。」
「・・・」
「きっと、エドが・・・」
「!」
「きっと後悔するよ。私はエドを悲しませたくないから・・・っ!」
再び腕を掴まれて、そのまま引き寄せられた。
さっきよりも強く、離すまいと彼の腕は私を抱きしめる。
「大切な人に置いて逝かれる世界なら、オレも知ってる。」
「え・・・」
「でも、」
急に彼の腕の力が抜けて、今度は肩を掴まれた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で真っ直ぐにエドと向き合う。
「一緒にいれて良かったと思ってるし、看取れてよかったとも思ってる。後悔はしてない。・・・大切な人だから。」
瞳の金色があまりにも透き通っていて、綺麗で。その言葉に偽りはないんだってことがひしひしと伝わって来た。
私はどうだった?
お父さんとお母さんを看取ることが出来た。もちろん悲しかったけれど、お父さんとお母さんが別の人だったらよかったのに、とは思えなかった。
そして、エドに出逢った。
彼と出逢わなきゃよかった?ずっとずっと、一人でいればよかったのかな。
そんなことない。少なくとも私は彼に出逢ってからのこの4か月間、毎日が本当に楽しかった。幸せで、笑い方を忘れていた私を暖かい世界へと引き上げてくれた。
「オレは名前が好きだ。」
だから、ずっと一緒にいたい。
こんなことを言ってくれる人が、他にいるだろうか。
未来なんてもう少ししか残っていない私に、それでもいいよって笑ってくれる人が。
「ありがとう。」
目に溜まる涙を必死にこらえて、私は顔を上げる。
彼に、だいすきなエドに、お返事を。
「私も貴方の事が、すきです。」
思わず毀れた笑みは、不自然のそれではなかった筈だ。
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