バスタブに半分までお湯が張ったのを確認すると、俺は蛇口を閉めて、部屋へ戻った。体の震えが治まり、死んだように眠っている少年のコートを脱がせる。それから両腕に抱きかかえて、風呂場へ運んだ。
 外に居た時よりも少年の体は温かくなっていたが、それでも平熱よりはまだ低い。俺は少年の足元から、ゆっくりと湯に浸からせた。膝から太腿から手でお湯をかけ、少しずつ温度に慣らす。時間をかけて少年をバスタブの中に座らせると、俺は蛇口を開いて、少年の肩まで水位を上げた。
「…何してんの?」
 薄っすらと目を開けた少年が、寝ぼけ眼で俺を見上げた。
「体を温めている」
 俺は短く、そう答えた。
「ここはどこ?」
 少年は手錠がついたままの手を上げて、前髪をかきあげた。
「ホテルだ」
「そう…」
 男の家から逃げ出して来たという状況を把握した少年は、息を大きく吐いて、目を瞑った。
「…ありがと」
 少年は独り言のように呟いた。
 少年と俺はしばらく何も話すこと無く、ガタがきている換気扇の回旋音にじっと耳を傾けていた。やがて少年が口を開き、また独り言のように呟いた。
「あのさ…髪洗ってくんない?ベタベタして、気持ち悪い」
 少年は体の向きを変えて、バスタブの縁に後頭部を乗せた。俺はシャワーのコックを開いて湯を出し、額の生え際から少年の髪を濯いだ。備え付けのシャンプーを手にとり、脂っこい少年の髪を丁寧に洗った。少年は目を閉じたまま、また同じように呟いた。
「名前は?」
「K-1007」
「それ製造番号でしょう?名前付いてないの?」
 俺は少し考えて、最初のマスターに呼ばれていた名前を答えた。今のマスターだった男に名前を付けられた覚えが無かったからだ。
「…国光」
「俺、リョーマ。ねえ、名前呼んでよ国光」
「リョーマ」
「もう1回」
「リョーマ」
「もっと呼んで」
「リョーマ…リョーマ…」
 自分の名前を呼べという少年は、何を考えているのかが俺にはわからなかった。
 洗髪しながら俺が30回以上「リョーマ」と呼んだ後、少年は大きく深呼吸をして、目を開けた。
「俺、なんで誘拐されたのかも、なんで裸にされたのかも、なんで手錠をかけられたのかも、なんで目隠しをされたのかも、なんでナイフで脅されたのかも、なんでレイプされたのかも、全然わからなかった」
 ゆらゆらと静かな波が立つ水面を見ながら、少年は力の抜けた声で語った。
「ほとんど真っ暗な世界で、俺は自分を見失わないように、ずっと自分で自分の名前を呼んでいた。けど何十回も何百回も自分の名前を繰り返していると、それが何か呪いの呪文のように聞こえてきて、自分の名前は単なる言葉の羅列で、意味の無いもので、俺自身も意味のないものなんじゃないかなって思えてきてた。何を考えていたのか、わからなくなってきてた。自分の名前もわからなくなってきた。自分が何なのか、わからなくなってきてた」
 リンスを濯いでしっとりした少年の頭を、俺はタオルで拭き始めた。また目を瞑った少年は、髪の毛を拭いている間は口を噤んだ。
 頭を拭き終わったタオルを桶に入れて、お湯で軽く濯いだ。軽く絞ったタオルにボディーソープをたっぷり付けて泡立て、俺はそれを少年に手渡し、体を洗うように促した。少年はバスタブから立ち上がり、縁に座って体を洗い始めた。
 10日前よりもあばらがくっきりと浮き出し、全体的に縮んだ体。首や胸の付近には男がナイフで撫で付けた赤い線が集中していて、痛々しくも、鮮やかな紋様を刻んでいる。腕を組んで少年の動作を観察していると、少年が眉間に皺を寄せて俺を見上げた。
「ねえ…そんなにずっと見られると、恥ずかしいんだけど」
「そうか、それはすまん」
 少年は不機嫌そうに、手に持っていたタオルを俺の胸に投げつけた。
「背中洗ってよ。手、届かないから」
 少年は腰を上げると、くるりと回って俺に背中を向けた。タオルを左手に持った俺は、右手で少年の肩を掴み、そのしなやかな背にタオルを滑らせた。首の後ろ、肩甲骨から下に向かって、真っ白な泡で包むように洗う。腰のあたりにタオルを滑らせた時、少年は肩を震わせた。ざわざわっと体毛は逆立ち、きゅっと尻を締めた。少年は何も言わなかったが、おそらく昨日の後遺症だろう。
「洗い流すぞ」
 俺は少年に声を掛けてから、シャワーで体についた泡を流していった。バスタブの中に、ボディイソープの泡と少年の垢が浮き沈みする。俺は少年の前半身にもシャワーをかけようと、自分に向くよう指示した。だが少年は何かに躊躇して、すぐには振り返らなかった。肩を強張らせて、深呼吸をして、そしてゆっくりと俺を向いた。
 正面を向いた少年の体をみて、俺は少年が何に躊躇したのかを理解した。顔を赤くした少年は、特に下半身を真っ赤に熟れさせ、俺に向かってまっすぐに立ち上がらせている。目に涙を浮かべた少年の頭を撫でてから、俺は気にする事無くシャワーを浴びせた。
「別に、気持ち良かった訳じゃないのに、痛くて痛くて気持ち悪くて、ずっと吐き気しかしなかったのに、なんで…」
 両手の拳を握り締めて、少年はくやしそうに歯を食いしばり、涙を堪える。セクシャル(性交)機能が付いていない俺は、どういう心理で少年が勃起しているのかわからなかったが、だがそれは少年の意思に背いた生理現象である事は、なんとなく理解できた。
 体の泡を落としきってシャワーを止めた俺は、もう1度少年の頭を撫でた。
「突然色々な事がありすぎて、体と脳の意思通達がうまく行われていないのだろう。心配するな、すぐに治まる…」
 そう話し掛けて、頭から下ろそうとした手を、少年は両手で握り締めてきた。
「国光ってさ、本当にモデルなの?」
「ああ」
 少年は俺の手に自分の指を絡めて、伏し目にしながら呟いた。
「俺の家にもモデルいるけど、アンタみたいに大人じゃないし、カッコ良もくないよ…」
「モデルにも個性があるからな」
「ねえ、これからどうすんのアンタ?もうあの男の家には帰らないよね?もしどこにも行く宛てがなかったら俺の…」
「悪いが、それはできない」
 少年が言葉を最後まで紡ぐ前に、俺は遮った。
「俺の体にはいくつもの欠陥があって、そして人間を殺した。モデルとして、一番犯してはならない事を」
「殺したのは俺だって!アンタが首を締めた時は、アイツはまだ死んでなかった!俺がナイフを、アイツの…胸…に……」
 ナイフを刺したときの事を思い出したのか、少年は手の先から温かみを失わせ、全身に鳥肌を立たせた。
「俺が…アイツを……」
「忘れろ」
 俺は少年の冷えた体を抱きしめた。
「俺が…こ…殺し…」
「忘れろ。忘れていい。思い出さなくていい。お前は何もしていない。殺されそうになったのは、お前の方だ。お前が被害者だ。お前は、何も、していない」
「違う…俺が……」
 涙を流し始めて少年の頬を、俺は両手で包んで、唇で吸い取った。
「俺が、殺したんだ」
「もう黙れ」
 いつまでも自分の罪を責める言葉しか吐かない少年の口を、俺は自分の唇で塞いだ。互いの舌を深く絡める、息をするのが惜しいくらいに。口角を変えて何度も、熱く解けるようなキスを。
「はぁ…っ」と呼吸が苦しくなった少年が、甘い声を漏らして酸素を吸う。萎えかけていた少年の性器が、再び首をもたげる。そっとそこに手を触れてみると、少年は嫌がるように、だが感じているように身を捩る。少年の腰を引き寄せて、股の間に膝を割り込ませ、熱く膨らんだ性器を撫でるように扱く。
「あっ…やだって…」
 腰を揺らして身を引こうとする少年。俺はバスタブにもう片方の足も入れて、壁との間にに少年を挟んだ。足元から立ち昇る蒸気のせいか、あるいは少年自身の熱か、頬を紅潮させ、薄っすらと汗をかいた少年の傷だらけの体に、俺は唇を落としていく。味覚機能はしばらく使っていなかったが、舌で舐めるうちに不味い水の味、ボディーソープの味、少年の血と汗の味がシグナルとしてメインコンピューターに送信される。
 少年の手を持ち上げると、手錠がジャラリと音を立てる。擦れて赤くなった手首を、俺は丁寧に舐めた。人間と違って、俺には唾液腺がなく、こんな事をしても消毒にも何もならないのだが、ただそうしたいと思った。まるで人間の本能のように。
「もう…いいよ…」
 心拍数を上げ呼吸を乱した少年が、臍の周りを舐めていた俺の前髪を掴んで持ち上げた。
「慰められるのは…好きじゃない」
「慰めではない」
 俺は目線を少年の顔に上げ、手を股間に這わせた。
「俺がしたいと思う事を、しているだけだ」
「ねえ、この意味が何だかわかってんの?」
 少年は自分のモノから俺の手を離そうと、叩いたり抓(つね)ったりした。
「わかってる。俺はお前に惹かれている。だからお前に触って、愛したいと思っている」
「モデルなのに?」
「そうだ」
 原則として、モデルと人間の間に本当の『恋愛感情』は成立しない。例えセクシャル機能が付いたモデルでも、その『恋愛感情』はマスターが『設定』した『意図的な感情』であって、モデル本心の『感情』では無い。
 だが俺は、この少年に惹かれた。慈しみ、大切にして、自分だけの物にしたい。渦を巻いて支配する制御の効かない感情。それは、恋というものじゃないのか。
 少年が微笑んで、幼い両手で俺の顔を撫でた。
「アンタさ…本当にモデルなの?実は人間なんでしょう?」
「いや、モデルだ」
「ウソ。アンタ絶対に人間だよ…そうじゃなきゃ、俺アンタの言葉聞いてドキドキしてるの、変だもん。ねえ、また俺の名前を読んでよ国光」
「リョーマ…」
「国光…俺もアンタの事、好きだよ」
 リョーマははっきりと聞こえる声でそう言うと、俺の頭をぎゅっと抱きしめた。
 男の家と比べると格段に清潔で温かいベッドの上で、俺とリョーマは体を重ねた。俺はセクシャル機能…股間に何も付いていないモデルだったが、リョーマは全く気にしなかった。





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