同居、はじめました。

 玄関を開けると、先週行ったインド料理屋の匂いがした。
 そのカレー臭に誘われて、俺は自分の部屋を素通りし、まっすぐとダイニングへ向かう。
 予想どおり、ダイニングテーブルの上には様々な香辛料の瓶や計量器具がたくさん置き散らかされ、換気扇を回し、火にかけられた鍋を先輩がしゃもじで一生懸命かき混ぜていた。
 俺は嘆息しながら瓶の一つを手に取った。その瓶のラベルには『コリアンダー』と書かれていた。
「あ、海堂帰って来ていたの。おかえり」
 ようやく俺に気付いた先輩が、鍋をかき混ぜる手を止めて振り返った。
「ただいま。それもしかしてカレーっすか?」
「そう。この間食べたインドカレー食べたら、自分でも作ってみたくなってね」
「また香辛料を増やしましたね?」
「うん。今日はファンネルとカルダモンと、その海堂が手に持っているコリアンダーを買ったよ。コリアンダーっていうのは、タイ語で『パクチー』、中国語で『香菜(シャンツァイ)』と呼ばれるセリ科のハーブで、独特の匂いが…」
 先輩は水とか牛乳とかカップで量って鍋に入れながら、新しく買った香辛料の説明を始めた。
 だが長くなりそうなので、俺は「着替えてきます」と言って自分の部屋に向かった。


 先輩とこの部屋を借り、同居を始めて2週間が経とうとしていた。
 俺の学校から歩いて5分、先輩の学校から車で15分の、マンションのようなアパートの3階。
 先輩いわく2LDKのファミリー向け物件(俺はよくわからない)で、俺の部屋と先輩の部屋と居間とダイニングキッチンがあって、他にトイレとか納戸がある。前まで俺たちが住んでいたアパートとは天と地の差の広さだ。なんといっても、玄関から居間まで廊下がちゃんとある。
 学校からは少し遠くなったが、家賃の他に生活費なども先輩と折半しているし、実家へ帰る時でも先輩が車を出してくれるので、前よりは身体的にも経済的にも豊かな生活を送ったと、俺は思う。

 バッグを肩から下ろし、机の上にお弁当箱を出す。
 そういえば、朝に窓に干しておいた布団が取り込まて部屋の隅に畳まれている。(また俺がいない間に部屋に入ったな…)ちょっとムカついたけど、今日は午後に一度にわか雨降ったので、感謝をしておく事にしよう。
 服をTシャツとハーフパンツに履き替えて、俺は弁当箱を持って自分の部屋を出た。

 テーブルの惨状は跡形も無く片付けられており、先輩はソファに座ってニュースを見ていた。
 俺はダイニングへ行き、弁当箱と箸をタライに入れ水の張った。それからグツグツと音の立てている鍋の蓋を開けて中を覗いた。紛れも無く美味しそうなカレーが、芳しい臭いを立ち込めながら煮込まれていた。
「ごめんね海堂。あと30分くらい煮込まなくちゃならないんだ。もしお腹空いていたら、冷蔵庫に余ったヨーグルト入っているから食べてもいいよ?」
 俺は鍋の蓋を閉め、冷蔵庫へ向かった。まだお腹は空いていないけど、ヨーグルトは食べたい。
 500mlのプレーンヨーグルトのパックが、冷蔵庫の一番上の棚に置かれていた。
 俺はそれを手に取り、引き出しから大きめのスプーンを取り出して、先輩の横に腰を下ろす。ガラスのテーブルにカップの蓋を置き、俺はスプーンでヨーグルトすくって口に運んだ。
「今日は早かったね海堂。テニスはしてこなかったの?」
「今日は部長と副部長がケンカをして、馬鹿らしいから帰って来た」
「ふーん。大変だね、部長と副部長が恋人同士だと」
「ほんと」
 俺は最後の一口をスプーンにすくった。そういえば…と、自分の部屋の畳まれた布団の事を思い出した。
「あの、布団を取り込んでくれて、ありがとうございました」
 ああ、と先輩は言うと、にっこりと俺に微笑んだ。
「どういたしまして。ちょうど学校に行く前だったから良かったよ。にわか雨だったからね?」
「ていうか、たまに俺の部屋に入ったりしていませんよね?」
「していないよ?」
 更にニッコリと、先輩は上がり口調で否定した。
「俺の部屋に勝手に入ったら、絶対殴ります。覚悟しておいて下さい」
「わかった。肝に銘じておく」
「はい、布団のお礼ッス」
 俺はヨーグルトのすくったスプーンを先輩の口の前に持っていった。
先輩は大きな口を開けて、スプーンにかぶりついた。
「ご馳走様、美味しかったよ海堂」
「含みのある言い方はヤメロ」
「けどこのヨーグルト買って来たの俺なんだけどな…」
「俺が食っていたから、俺のモノです」
 空っぽになったカップにスプーンを挿して、ソファの前にあるガラスのテーブルの上に置いた。心地よいソファにもたれ、若干お腹も満たされて、とても気分が良い。

 リビングにおかれた先輩お気に入りの大型液晶TVでは、新型肺炎の新情報のニュースが延々と報道されている。
 先輩はTVを見ながら、ソファの背もたれに腕を乗せた。その手や腕が、微妙に俺の肩や首に当たる。けど肩には回されない。
 ふと先輩が俺を見て、「回してもいい?」と目で聞いてくる。男としてカッコイイこと、先輩がするのがキモい…ムカつく…だってこれじゃ、俺が女みたい扱われているだろ?
 カッコ負けしないように、俺の方から先輩の肩に腕を回してやった。すると先輩が少し驚いたように目を大きく、それか女のように優しく笑んだ。
 じゃあこっちは肩の代わりに…という感じで、先輩は俺の腰に腕を回す。
 なんだかもっと恥ずかしくなった。これじゃあどっからどうみても恋人みたいじゃねえかよ…
 内心あたふたしている俺に気付かず、先輩はさりげなく話題をふってきた。
「そういえば、そろそろ父の日だね。海堂は飛沫さんに何をあげる予定?」
「ていうか、俺の親を名前で呼ぶな、って前から言ってるだろ!」
「まあ、それはおいといて。去年は何かあげた?」
「えっと…去年は靴下をあげたんで…」
「俺もそうだった。だから今年は何しようかな?って」
「そうッスね…何がいいかな…」
 俺は腕を外すタイミングを逃して、父の日のプレゼントを先輩と二人で考える。
 ダイニングでは、カレーの鍋が静かに煮えている。
 黙って考える俺を、先輩は微笑んで見つめている。
 引っ越してきた俺たちの新しい家は、前よりも広くて静かだけど、前よりも先輩が近くにいて、俺の心臓がうるさかった。


【end】

【再録】2003年の乾誕に書いたものでした。時代を感じますね…


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