泰山の无は石を穿つ

「ちょっと赤也、アンタ何飲んでんのよ?」
 合コンの主催であるクラスメートの女が、真っ赤な顔をして俺の隣に座った。
 俺は自分の持っているグラスを振って、愛想笑いをした。
「ん?ウーロンハイだよ」
「…うそ!ただのお茶じゃん!」
 俺の飲みかけのグラスを奪い、一気飲みした女は据わった目で俺を睨んだ。
「1次会の時も飲んでなかったわよね?」
「俺バイクで来てるから。てか、俺が飲んでないってよくわかったね。俺のこと好きなの?」
 素面の俺がからかい交じりに言うと、酔っ払いは本気で返事をしてきた。
「好きじゃかったら誘わないわよ…」
 真っ白な腕が伸びてきて、柔らかく、重い身体が、俺に絡み付いた。
 潤んだ目と唇で俺を見上げ、女は自分の欲望を曝け出した。
「ねえ…飲んでも、ウチに泊まればいいだけのことじゃない…」
 全然、よくない。
 俺はこのカラオケボックスと女から発する、タバコとアルコールとエゴイストの混じった臭いに、そろそろ限界を感じた。
 女を無理やり椅子に戻して、さっさと立ち上がる。
「ごめん。時間だから、帰るわ」
「赤也っ!」
「アンタさ、約束したのは3時間でしょ?タイムオーバー。バイバイ。英語のレポートよろしく」
 俺は部屋にいる奴らにも笑って手を振って、急ぎ足でそこから出た。
 店の外を出て、バイクのエンジンを吹かして温めていると、さっきの女が追いかけてきていた。
「赤也!本当に帰っちゃうの!?」
「うん」
 俺はヘルメットを被って、スタンドを外す。
 引きとめようと、女がバイクの前に立つ。
 どっかのドラマで、こんなシーンを見たことがあったけど、これって現実にあるんだなーと、俺は冷めた目で見ていた。
「お願い、行かないで…あたし本当に、赤也のことが好きなの…」
 ぼろぼろと涙を流しながら、女は告白してきた。
 誰かを好きになる気持ちも、それを一方的に押し付けたい気持ちも、俺にはわかる。
 でも本当に、その人を失いたくないほど好きなら、一時的な勢いに任せて追い縋ることがないのが、真実だ。
「今日はおごってくれてありがと。じゃあね、おやすみ」
 俺は足を使ってバイクをバックしてから、ハンドルを切ってスピンした。
 かろうじて、後輪が女に当たらないようにしたけど、女は驚いてその場で尻餅をついた。
 ミラーでそれを確認した俺は、声を出して笑った。


 合コンなんてものには、メリットが無ければ行くものじゃない。
 今回参加したのは、クラスメートだけど名前も知らないあの女が、英語のレポートを代わりに書いてくれるし、参加費はタダと言ったから。
 それと、合コン場所が東京だったから。
 俺にとっては、こっちの方が重要だったかもしれない。
 バイクの運転をしながら、左手の時計を見た。
 今の時間は9時半。
 まだ起きているだろう。
 幹線道路から脇道に入って、小さな商店街と、たくさんのアパートやマンションが立ち並ぶ学生街にバイクを走らせる。
 そして、外壁が鶯色のオートロックマンションの前で停めて、ポケットからケータイを取り出す。
 発信履歴の一番上にある番号に電話をかけた。電話はすぐに繋がった。
『…はい』
「もっしもーし。赤也でーす。いま日吉くん家に着いたよ!」
『わかった』
 それだけの会話で、電話は切れた。でも声色から、今日は機嫌の良い方だとわかって、うきうきしながら合い鍵を使ってマンションの中へ入って行った。
 しかし、俺が彼の部屋に入った瞬間、彼の機嫌は急転直下した。
「…俺に近寄るな」
 俺はおもいっきり顔をしかめられ、吐き捨てられる。
 きっと、俺の服や髪の毛に合コンの臭いが付いているから、それが嫌なのだろう。
 でも俺は、それに気付かないフリをして彼に近寄った。
「えー!なんで?!急にどうしたの日吉くん?!」
「こっちに来るな!帰れ!」
「そんな、理由も聞けずに引き下がれないよ!」
 部屋のテーブルを中心に、ぐるぐると俺たちは回りながら追いかけっこをする。なかなか捕まらないので、俺は心の中で謝ってから、テーブルを踏み越えた。
「待ってよ日吉くんっ!」
「来るなバカ!!」
 彼は奥の脱衣所へ逃げ込む。
 鍵をかけられてはたまらない。
 戸を閉められる前に、自分の足を挟んで、間一髪で阻止した。
「へっへっへ、もう逃げられないよ…って、ああ!」
 しかし彼は脱衣所の更に奥、風呂場まで逃げた。
 シャワーヘッドを掴んで、俺に向けて威嚇する。
「それ以上来たら、水かけてやる…」
 ああ、もう、睨んでくる顔が本当に可愛い。
 でも、思わずにやけそうになる顔を、オレは必死で堪えた。
 ここで笑ったら台無しだ。
「ちょっと待ってよ日吉くん。俺、なんでそこまでされなきゃならないの?俺が日吉くんになんかした?」
 少し距離をとって、俺は真剣な顔付きで説得を始めた。
 内心は、楽しくて仕方ないのだけど。
「お前、どこで誰と何してた?」
「えっと…ヒルズの近くで友達5人とご飯食べて、それからカラオケ?」
「合コンだろ」
「あはっ。バレた?」
「臭いんだよお前!」
「え?臭い?」
 俺はジャケットの襟を掴んで、鼻に付けた。
 確かにタバコとエゴイスト臭い。
 けど、わからないふりをした。
「ダメ。鼻が効かない。何の臭いがするの?」
 俺は一歩距離を縮めて、彼に尋ねた。
「酒と、タバコと…」
 2つ挙げた後、彼は言い淀む。
 最後の1つは、あの女の香水の臭いだ。
 エゴイスト。
 彼の口からその言葉が聞きたくて、俺は一気に距離を詰めた。
「言ってよ日吉くん…あと1つは?」
 シャワーヘッドを握った手も、蛇口を捻ろうとする手も掴んで、俺は香水の臭いが一番キツイ襟元を彼に近づける。
 嫌悪に歪んだ顔。
 そう、この顔が好きだ。
 たまらなく、愛しい。
 眉間に皺を寄せながら、彼は再び吐き捨てるように言った。
「…香水、の臭い」
「ああ。隣に座った奴が付けてたんだ。それが移っちゃったのかな?えっと、何だっけ?名前が…」
「…エゴイスト」
「そう!それだっ!」
 俺は大満足して、彼を解放した。
 今日はもうこれで十分。
 すごく楽しかった。
 今夜は良い夢が見れそうだ。
 ささっと身を翻し、俺は脱衣所の戸の前で、別れの挨拶をした。
「臭いまんま来ちゃってごめんね日吉くん。今度は、ちゃんと着替えてから来るから。バイバイ」
 俺は笑って、手を振って、戸を閉めた。
 そして玄関に向かって、ゆっくりと歩く。
 ここは、いつも賭け。
 俺が玄関に着くまでに、彼が出て来たら俺の勝ち。
 彼が出てこなかったら、今日も俺の負け。
 偏屈で頑固で潔癖症で、嫉妬深い彼に惚れた時点で既に、俺は大敗してるのだけど。
 負けた相手にこそ、絶対に勝ちたいと思うのが俺の信念なのだ。
「おい」
 玄関で靴を履き終わって時に、彼は出てきた。
 微妙だけど、今日は俺の勝ちか。
 嬉しくて笑ったまま、俺は振り返った。
「なに日吉くん?」
「お前今日、何しに来たんだ?」
 まだしかめっ面のまま、彼は俺に問いかける。
 どうやら、見送りで来たわけではないみたいだ。
 良い予感がしつつ、俺は正直に答えた。
「日吉くんに会いに。でも日吉くんに臭いって言われたから、もう帰るよ」
 にっこりと笑ってみせると、彼はあからさまに、はあーっとため息をついてくれた。
「臭かったら、洗えばいいだろ…」
「え?」
「シャワーくらい貸してやる」
 そう言うと、彼は背を向け部屋に入っていく。
 玄関に取り残された俺は、彼の言葉を反芻して、ドキドキする胸を押さえた。
 これはつまり。
 まだ帰るな、ってことで良いんだよね日吉くん?
 俺は急いで靴を脱いで、バスタオルを用意している彼に抱き着いた。
 本当に、少しずつ俺の為に変化していくこの人が、好きで好きでたまらないよ!

【end】

【再録】
読み方=たいざんのあまだれはいしをうがつ
意味=小さな力でも根気よく続ければ成功するということの喩え



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