17.統合失調症

鼓摩と磨胡


 僕の左耳には鼓摩(こま)が、右耳には磨胡(まこ)住んでいる。
 二人は僕の両耳から脳みそに向かって、正反対の意見をぶつける、ちょっとうるさい隣人だ。

 気の強い鼓摩は、攻撃的な発言が多い。
 例えば、本屋の児童書付近で子供のむずがっている泣き声が聞こえると、

「うるせえな。親はどこにいるんだよ。さっさと店から連れ出せ!」

と苛立った声で呟く。

 逆に、気の弱くて保守的な発言が多い磨胡は、同じ状況下でも

「どうしたのだろう。親と逸れてしまったのかな。大丈夫かな」

と慈悲深い声で囁く。

 いつから鼓摩と磨胡が、僕の左右の耳に住み始めたのかは覚えていない。けど、二人は同時に僕の両耳に住み始めたことは、おそらく間違いない。ヘッドホンと同じだ。どちらか一方を依怙贔屓にしないように、それは同時に耳に掛けられるように出来ている。
 二人は自分たちの身の上話をしたことはなかったけど、僕はおそらく、鼓摩と磨胡は双子だと思った。声色が同じで、どちらかが話し出すともう片方もすぐに話し出すからだ。でも、二人の意見が合うことはない。お互いの意見を、わざわざ食い違わせているようでもある。
 二人は、通学中、勉強中、食事中からトイレの中まで、場所や時間を問わずに、突然話し始めた。

「朝から勉強なんて最悪」
「勉強って自分の為になるから頑張らなきゃ」

「また同じ飯かよ」
「ご飯を作ってもらえるのは幸せだね」

 鼓摩と磨胡は、その意見の食い違いから、時々喧嘩をする。だいたいは気の強い鼓摩が気の弱い磨胡を言い負かせる。しかし磨胡はある一件にだけ、頑として鼓摩から食い下がらなかった事があった。

 それは、僕が恋をした時だ。
 僕は最近まで、隣のクラスのある女の子に恋をしていた。彼女は見た目も声も特に目立ったところがなく、名前の発音も漢字も、とても平凡な子だった。声の大きい友達Aと、背の高い眼鏡のBの、少し後ろをそろそろと歩いていた子だ。

 10月に行なわれた学校集会。生徒全員が体育館に集まった時に、僕は初めて彼女の存在を知った。廊下でも合同体育でも全く気付かなかったのに、後期の各委員会の活動内容と予算を審議をする場で、僕は今までの何度か彼女と椅子を並べて座ったことがあっただろうに、初めて、気付いた。
 僕はあの時、配られた報告書には目を通さず、『抑揚の無い国語の授業』と『黙って人の話を聞くこと』とどっちが辛いについて討論する鼓摩と磨胡を聞き流しながら、虚ろな目でステージの上の校章を眺めていた。きっと目を開けたまま寝ているように、周りの人からは見えただろう。
 すっかり脱力していた僕は、手に持っていた報告書を落とした。バサリ、と音が鳴ってから、僕はその事に気付いた。報告書は、ワックス掛けされた体育館の床の上を滑って、隣に座っていた彼女の足元で止まった。

 すぐに鼓摩が「プッ!ダッセーな!」と笑い、磨胡が「うわああ!すみません、ごめんなさい!」と恥ずかしそうに言った。
 僕は何も言わなかった。黙って、隣の席の彼女がそれを拾って僕に差し出すのを見ていた。
 鼓摩が「いいよ、返すなよいらねーし」と、磨胡が「いや、本当にすみません。ありがとうございます」と言った。
 僕は彼女の、自分より小さくて白い手だけを見ながら、それを受け取った。軽く頭を下げたかもしれない。
 僕はそれを自分の足元に置くと、またステージの上の校章を見上げた。それからは審議の内容も、鼓摩と磨胡の話も、頭の中に入らなくなった。

 集会が終わって、椅子を持って教室に帰る時に、僕は一瞬だけ彼女の顔を隠し見た。僕の好みではなかったけど、悪くもなかった。
 僕は通学する時も、隣のクラスの前を通る時も、合同体育の時も、彼女の姿を探すようになった。
 鼓摩は「ストーカーだよな」と言っていたけど、磨胡は「好きな人ができると生きているのが楽しいね」と言ってくれた。

「他にもっと可愛いくて話しやすい女子がいるだろう?なんで話したことの無い隣のクラスの地味な女に気を取られるんだよ」
「彼女は十分に可愛いよ。そしてとっても優しい」
「そんなのお前の理想が作り出した妄想だろう?」
「違うよ。本当のことだよ。彼女のから発せられている、あの優しいオーラを読み取れないの?」
「オーラなんて、そんな目に見えないものを信じているのか。馬鹿馬鹿しい」
「直感は大切だよ。運命の予感がするでしょう?」
「運命なんて、薄気味悪い。自分が生きているのが、何かに操られているってか?」
「そういうわけじゃないよ。もっとロマンチックな考え方ができないの?」
「お前こそ、もっと現実的に物事を捉えろよ」

「うるさい」

 笛が鳴った。
 試合中で飛び跳ねていたバスケットボールが、得点板の横に座っていた僕の両手にすっぽりと収まる。
 額に汗をうっすらと浮かべた彼女が、口で息をしながら走ってきて、僕の目の前で立ち止まった。
 つま先が少し汚れた白い指定靴、紺色のソックス。ぴったりとくっつかない膝と太腿、紺色のブルマー。ゆるやかなウエストのくびれ、未成熟の胸の膨らみ、細長い腕を吊り下げる、幅のない肩。幼さが滲んだ鎖骨と細い首、その上に困ったように俺を見下ろす、彼女の顔。

「ボール…」

 ボール、ボール。
 僕の腕の中にある、バスケットボールのことか。

「優しく、にっこり笑って返してあげるんだよ!」

 黙らせた磨胡が、右耳から叫んだ。
 僕は両手を上に伸ばして、彼女にボールを手渡した。その時、彼女の冷たくて柔らかい指先が、僕の手に少し触れた。
 彼女は困った顔のまま、目を凝らしていないとわからないくらい小さく会釈をして、コートの中へ戻っていった。

「目立ってたぞ」

 鼓摩が不機嫌そうに呟く。
 目だけ動かすと、得点板の反対側にいるクラスメートが、僕をみてにやにや笑っていた。それを見た途端に、心臓がドクドクと音を立てて鳴り始めた。

「大丈夫?ちょっとみんなのいないところで休む?」

 僕は磨胡の声にうなずいて、静かに立ち上がり、そっと体育館を出た。

 彼女は僕と目が合うと、気まずそうに目を反らす。
 今までは望んでも目が合う事もなかったのに、あの体育の時間以来、僕と彼女の目はまるで引かれあう様に絡んで、引き裂かれるように千切られた。

「嫌われたな」

 鼓摩は冷たく言い切った。

「そんなことないよ!たぶん、照れているんだよ!!」

 苦しい希望的観測を主張する磨胡に、僕は首を振った。

「うるさい」

 僕がそう言うと、二人は口を閉ざした。

 僕が彼女を目で追いかけるのを止めたことで、僕の恋は終わった。
 鼓摩と磨胡は相変わらず僕の両耳にいて、彼女のことを蒸し返すことはないけど、いつも下らないことを言い合ったり、言い争ったりしていた。

「日本人なのに、なんで英語の勉強なんかしなくちゃならねえんだよ」
「国際的な交流が必要とされる頃からの日本で、世界公用語の英語を学んでおくことは、必ず自分の為になるはずだよ」
「『必ず』と『はず』を一緒に使うなよ。確定か不確定かわかんねえだろ。国語から勉強しなおせ」
「はい…」

 現実主義の鼓摩と、理想主義の磨胡。
 その中間にいる僕は、二人の言葉のほんとんどを聞き流し、ときどき参考にしている。

 


【end】
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(2006/3/23)

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