小説 | ナノ


▼ 珈琲屋のお客さん 5


土曜日。ついにこの日がやってきた。

やばい。30分前ぐらいから待ってる予定だったのに。時刻は9時40分。昨日は遠足前日の小学生のようにワクワクして中々寝付けなかった。この年になって恥ずかしい。
少し小走りであの本屋に向かう。目的地の50m手前ぐらいで徒歩に切り替え、涼しい顔をして歩いていくと、本屋入り口の柱に寄りかかって音楽を聴く彼が見えた。

可愛い。私服なんていつも見ているのに、今日の彼はいつもよりキラキラして見える。落ち着け、俺。
少しにやけた顔をいつものクールな顔になおして彼に声を掛ける。

「お待たせ。ごめん。待った、よね?」

肩をぽんと叩きそう声をかけると、彼はハッと顔を上げてイヤホンを抜いた。

「あっ...こんにちは...。全然待ってないですほんとです...。」

嘘だ。きっと君は30分前ぐらいから待ってた。でも、

「そう?それならよかった。」

俺はずるいから気付かないふりをする。
それにしても、洸くんは俺を見過ぎじゃないか?上から下まで俺を眺めるその顔は、少し赤く染まって可愛らしい。

「ははっ。見すぎだって。何、惚れそう?」

冗談でそう告げたのに、彼は肩をビクッとさせて動揺したような声を出した。

「ち、違います...!そんなんじゃないです!ほんと!!」

トートバッグの紐をぎゅっと掴んで真っ赤になった顔を俯かせる。これは...

「そっかそっか。惚れてくれてもいいんだからね?」

今のは本心だ。早く俺をもっと好きになって俺しか見えなくなってそして俺に溺れて欲しい。
そんな気持ちを込めて俯いた彼の頭をぽんぽんと撫でる。

チラリとこちらを見る彼と目が合い、思わず顔が綻ぶ。

もっと君のことを知りたい。





「ところで、何食べたい?」

すっかり今日の趣旨を忘れていたことに気付き、慌ててそう尋ねる。きっと、俺の食べたいものでいいななんて思ってるんだろうなぁ。

「お、お兄さ」
「ダーメ。折角遊んでるんだから、お兄さんはナシ」

俺はデートのつもりだから、お兄さんなんていつものように他人行儀に呼んでほしくない。

「ま...」
「ま?」

目の前の彼のどきどきが伝わってくるのがわかる。俺の心臓も期待と緊張で飛び出そうだ。

「まべ...さん...。」

少し涙目でそう言うと、彼は恥ずかしさからか俯いてしまった。始めてしっかり名前を呼んでもらった嬉しさに、心が躍る。よっしゃ。
俺も、君の名前が呼びたい。

「よくできました。洸くん。」

名前を呼ぶと、彼はこっちを信じられないと言った目で見た。

「名前で呼びたい。いい?」

彼の顔は耳まで真っ赤に染まり、目にはじわりと涙が滲んでいる。

「はい。嬉しいです。」

本当に初々しくて可愛い。きっと今の俺からは、ハートマークがたくさん飛び出ているのだろう。

できることなら今すぐこの気持ちを伝えたい。






「また話逸れちゃったね。あっ、洸くん珈琲好きだよね?珈琲が美味しいオススメのベーグルカフェがあるんだけど、よかったらそこ行かない?」

浮かれた気持ちを必死に押し殺し、落ち着きを装ってそう告げる。
君のために下調べしたカフェ。君と行きたかったカフェ。

「はい!行きたいです!」

嬉しさでつい自分の頬も緩む。

なんだか今日が、すごく特別な日になりそうな予感がした。


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