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9 Torsion
嫌だと言うのを無理に引きずり出され、明かりの下に晒されて。頭から色の付いたアルコールをかけられて。 ぱたぱたと落ちていくその小さな水滴に『何故』と零れ落ちた言葉。それに『うーん。消炎?消毒?』と酷く曖昧で淡白な言葉を返された。 自分を伝って床に広がった赤い液体と強い香り。それになまえの言葉が掛け合わさって、ボクの中の何かが切れた気がした。 ボクはなまえをきつく睨み付けた。 なまえはそんなボクを前に、まるで何も起こっていないかのように隣に腰を下ろした。床に着いたなまえの服がどんどん赤を吸っていく。それすらも無い事のように、なまえは傍に有ったグラスを手にすると残ったワインを注いだ。 「さっき言い忘れたんだけどさ、」 目の前のボクの顔を、恐れもせずに上目遣いで見つめて。
「一緒に飲もうよ、ココ。」
「……良いよ。」 ボクは口の端だけで笑ってなまえの手のグラスを掬い上げた。その中身を一気に喉に流し込む。 もう、どうとでもなれ。と思った。 かぁっと熱を持つ口、喉、それから、胃。 口の端から零れかけた分は無造作に手で拭った。 「責任は取ってくれるんだろうね?」 「責任?」 「あぁ。」 「……結婚?」 「……笑えない。」 「じゃあ何だ?」 「ボクの暴走を止められる?って聞いてる」 「うーん」 ゆっくりと血液に混ざり、全身を一回りしたであろう悪魔。 ボクはもう一度顔を拭った。手が色付くのは先のワインなのかそれとも、決して止まらない毒なのか。 「自信が無いなら、今のうちだよ」 「何が?」 「出て行くのが」 「行かないよ」 なまえはボクの手からグラスを取り戻した。 「だって、此処はワタシのうちだよ?」
ボクの怒りにも毒にも零れたワインにも動じないでいるなまえの姿。ボクは溜め息が出た。 「参ったね」 「何が」 「酔った」 頭がフラフラしだした。そんなボクに「オコチャマだな」となまえは笑う。 「薬あるよ。酔い覚ましの」 「いらないよ」 「楽になるよ」 「平気だって」 ……そこまで子ども扱いしないで欲しいよ。
「なぁココ?」 「え?」 呼ばれて振り向いたと同時に、ボクは口を塞がれた。 「何…いきなり」 「酔い覚まし」 「え?」 「イヤイヤするオコチャマには口移しで」 ニヤリ笑みを湛えた口元。それが酷く艶めいて見えて、一瞬思考がクリアになった。そこで気が付いた。口の中に小さな丸い物が入っている。甘い。 「飴の間違いじゃないの?」 「薬だって」 「甘い薬なんて聞いた事が無い」 「それはオコチャマ用だから」 「とにかくいらないよ」
ボクはなまえに口を寄せた。さっきされたように。
「…ん。返したよ」 「だから大人しく飲んどけってば」 もう一度口を塞がれた。 「これだからオコチャマは」 「それは心外だ」 やり返した。 「子供の薬は大人には効かないだろ?」 なまえも引き下がらない。 「遠慮するなって」 「遠慮してな、」 ……あぁしつこいな。いらないって言ってるのに。何度も返してるのに、何でまたやり返すんだよ。 ほら、そうこうしているうちに肝心の薬は?何処に行ったんだよ。もうとっくに無くなってるんじゃないの? そもそも効き目は半分では?行ったり来たりしてて。子供用なのにそれじゃ更に効かないじゃないか。 あぁでも。それはそれで癪だな。中途半端に効くくらいなら、しっかり効いた方が良いに決まってる。 「前言撤回」 しっかり頂こう。……薬。
「酔い覚まし、効いてきたか?」 鼻先を掠めながら。なまえに囁かれた。 「程々にね」 「実は本当に飴だったって言ったら?」 「ご冗談を」 ボクは皮肉っぽく笑った。 「それよりも、殺してしまったらゴメン」 「誰を」 「自分しかいないだろ?」 「それなら大丈夫だよ」 「何で」 「ワタシはココの毒では死なないよ」 なまえは静かだけれどはっきりと口に出した。 「死なないよ。」 どくり、と胸が鳴った。 「その自信の根拠は?」 「根拠?事実だよ。」 「……そうだったら嬉しいよ」 もしかしたら本当に?なまえの自信は抗体を持っているからなのか? ボクの身体と同じように、無数の抗体を持つ女性。 それは存在すらも奇跡と言われた、ボクの理想。
でも、そんな幻想はすぐに破られた。 ボクを部屋から引きずり出した彼女の手は、赤く醜く爛れていた。 「…ウソつきだ」 ボクはうろたえた。慌てて離れようとした。そんなボクの手をなまえは掴み返した。 「ウソなんか言ってないよ」 「そんなに爛れた手で、何言ってるんだよ!」 「そりゃ爛れもするよ。毒に触れれば」 ビクリとした。 「でも、死なないよ?」 「だから何で」 「『言葉は力を持つ。その者の魂を乗せて。』……ワタシの国の言葉だ」 「…………」 「そこでは皆、言葉に自分の全てを託す」 痛む筈の傷にピクリともせず、なまえは穏やかに語る。 「魂を乗せた言葉は力を持つんだよ」 ……真実に変える力をね。 そう言ってなまえはボクの頬に手を添えた。そのままゆっくりと頭を抱え込む。 「ワタシは『ココの毒では死なない』よ」 ボクの額がなまえの頬に触れた。口元が触れたのは彼女の鎖骨。ボクは庭に置かれていた白いテーブルを思い出した。滑らかな陶器と同じ、傷一つ無い肌。 染めたくない。禍々しいボクに染まって欲しくない。 それでも。離れたくなかった。 「……『己が魂を強く持て。必要となる日のために。』」 「…それもなまえの国の言葉?」 「そう。」 「…難しいな」 「当然だ。明日から特訓しよう」 なまえの声は、とても温かかった。 「だから、今日は泣け」
「……乗せただろ、魂」 「当然」 薄ら染まった肌の前で、ボクはただ泣いた。
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